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無用の心配



突き付けて願う

「それにしても、粘った甲斐があったんだな」

アオイに指示された薬のうち、棚の高い所にあるものを手に取っている玄弥がぽつりと呟く。帳簿に持ち出される薬や手当の品の数量を書きつけていた炭治郎は筆を止めて目を上げた。蝶屋敷の調剤室は広く、どの壁も天井まで小さな引き出しで埋め尽くされている。アオイと三人娘たちは部屋の奥であれこれと相談しながら籠に薬や手当の品を納めているようだ。入口近くの文机の上には既に集められた薬の類が乗せられている。脚は動かないがせめてこれくらいはと書き入れの手伝いを申し出た炭治郎に、一足早く柱稽古へ発とうとしていた玄弥も加わってくれたのだった。

「お前がどれだけしつこいかは簡単に想像できるよ」
「照れるなあ」
「褒めてはねえ」

 にべもない。だが、その言葉にある親しさに炭治郎はついつい嬉しくなってしまう。刀鍛冶の里で再会した当初には取り付く島もなかったのだから。にこにこと見上げていると、さぼるなと頭を小突かれてまた笑う。玄弥からは少し照れた匂いがする。

 玄弥には蝶屋敷へすごすご戻る度に義勇のことを語って聞かせていたので大体の事情は知られている。つまり、取り付く島どころかうんともすんとも言わずそそくさと立ち去られるばかりで、全く成果がないこの四日間についてをだ。そこから一日で一体何が起こったのかと不思議に思うのは当然のことだろう。炭治郎も義勇が柱稽古に参加すると言い出した時は腰を抜かしてしまった。比喩でなく。ざるそば早食い勝負が効いたわけじゃないよな。結局どっちが勝ったか分からなくなったし。でもすごく嬉しいぞ。腰を抜かしたまま喜びのあまり諸手を上げると無言で引き起こされた。いえ、そうじゃないです義勇さん。

「俺がしたことが何か役に立ったわけじゃないと思うんだ。でも、これは俺の当て推量だけど、やっぱり話すことが必要だったんじゃないかと思う。義勇さんにも」

 「根気強く話をしてやってくれ」、これだけを願った産屋敷の炯眼に炭治郎は改めて感服していた。もう直接話ができないことを少し寂しく思う、優しい匂いのする手紙。病で弱った体の苦しみの匂いが微かもしないのが却って痛ましい。

 実のところこの役目は炭治郎でなくてもよかったのかもしれない。もっと力や経験があって頼りになり、きっとこれまで親交を深めてきた柱の誰かならば、もっと容易く義勇は口を開いていただろう。だが今他の柱の人々は稽古にかかりきりで、更に療養中の炭治郎には何もできないから、その焦燥を産屋敷が掬い上げて差配してくれたのかもしれなかった。

 寂しい匂いを纏わせて、何の構えもなく素直に炭治郎を見上げる静かな湖面のような瞳。腕に触れる指の優しさ。抱きしめた背中のあたたかさ。

 初めは産屋敷の願いをなんとしても叶えたいと始めたことだったのに、今はその偶然が誰の元でもなく自分に降りかかったことを何より幸いに思う。

「炭治郎?」

 ことこと、といくつかの薬瓶を机に置いた玄弥が怪訝げに声をかけてきてハッとする。慌てて笑みで答え、ほらと声を大きくした。

「ただ声に出すだけで気持ちが落ち着いたり考えが整理されることってあるだろ?俺もよくそうするから」
「ああ……治れ、治れってブツブツ言いながら動かしてるあれにはちょっと驚いたけどな。あとうるせえ」
「あはは……ごめん」

 復帰の近づいてきた炭治郎は、三人娘の力を借りて怪我した箇所を負荷をかけず動かす訓練をしている。その際に炭治郎がかけている掛け声を三人娘も復唱してくれるのだ。炭治郎にとってはこれが大きな力になるが、傍から見ている玄弥からすると「何の儀式かと思った」ということになるらしかった。

「でも!それって大事なことだってしのぶ様も言ってました!」
「そうです!病は気からは決して言葉だけの話じゃありませんって!」
「自分のあるべき姿を心で堅く思い描いて信じていると、実もそれを追いかけてくるんだって」

 玄弥を一番気にかけているすみがその脇からひょっこりと顔を出し、面倒見のいいしっかり者のなほが反対側の脇から出てそれに同調した。しのぶの言葉をなんでも吸収してしまうきよが玄弥の前に回り込んで講釈すると、見る間に顔を赤くした玄弥はすっかり黙り込んでしまう。三人娘に畳みかけられて可哀そうな気もするが、図体の大きい玄弥が小さな三人娘に囲まれてたじたじなのが微笑ましくもある。

「でも、何でもできるわけではないですから」

 ぱりっと皺ひとつない掛け布のような凛々しい声。広い調剤室は瞬く間に静かになった。包帯や消毒などが詰まった籠を机に置いたアオイは硬い表情だ。

「願っても、叶わないことはあるんですから」

 アオイは吊り上がった眉の下にある丸い瞳をキッと玄弥に合わせ、それから炭治郎をキッと見下ろす。三人娘がどこか不安げにそんなアオイを見上げていた。きっと三人娘にはアオイの柔らかい真心が分かっているからだ。

 ──だから無茶だけはやめてください。

 言葉にはされなかった。匂いを敢えて嗅いだわけでもない。それでもアオイの心の声が確かに聞こえた。引き結ばれた口元のせいで表情は益々厳しく見えるが、アオイの匂いはいつも深い憂いと優しさ、自分へのもどかしさが渦巻いている。いつかアオイと話をしたことを思い出す。アオイは自身で戦いに出て行けず、自分の代わりに隊士たちが傷ついて戻ってくることを深く悲しんでいた。今はただ嵐の前の静けさで、これから何か大きなことが動き出すのではという不穏な気配をアオイもきっと感じ取っている。

「……ありがとう、アオイさん」

 でも、炭治郎にその約束はできないのだ。自分の一番の願いのために、炭治郎は自分の命を優先することができないから。何でも叶うわけじゃない、アオイの言葉はどこまでも正しい。炭治郎がその覚悟を固めた以上、どうしても言えなくなってしまった言葉がひとつだけある。

 全ての願いが叶うわけではないのは知っている。でもそれを自分のできる限りで、困りながら不器用に受け入れてくれた人がいる。たった一日でしかないけれど、きっと心の奥底でいつまでもほのかに光るだろう大切な時間だった。義勇はなんでも構わないと言った。炭治郎ならなんでも。──だから余計に言えない。

「お前は諦めたらだめだろ」

 明らかに苛立った声を上げて玄弥は顔をしかめた。ばしん、と乱暴に右肩を叩かれてそのまま掴まれる。

「俺に諦めるなって言ったのはお前だ。だから、そのお前が諦めるんじゃねえ。お前は人に諦めるなと言った分だけ、諦めないで踏ん張らないとならないんだ」

 切れ長の目が大きく見開いていて、炭治郎を絶対に逃さないという気迫がそこにはあった。玄弥は怒っている。しかしそれは以前の、炭治郎を遠ざけるための怒りや苛立ちとはまるで違う。炭治郎に突き付けた真摯が、同じように返ってこないことへの怒りだ。

「炭治郎君、すみませんが少しいいですか?」

 緊迫した調剤室をふわりと優しい声が包んだ。まるで蝶が鼻先に舞い込んできたかのような軽やかな声だ。振り返ると、戸口からしのぶが手招きをしている。だが今は玄弥に何か言葉を返さなければ──と首を戻せば、玄弥がアオイに至近距離で見つめられて顔を真っ赤にしていた。へえ、そうなんですね。私が余計なことを言ったようですね。すみません。生真面目なアオイの声には容赦がない。

「玄弥、後で話そう。俺、玄弥が言ってくれたことちゃんと考えるから」
「……もういい」

 先ほどまでの怒りも冷めた様子で、玄弥はできる限りアオイから視線を逸らしつつ野犬でも追い払うように手を振った。帳簿は私が、ときよが後を引き受けてくれたのでありがたく松葉杖をついて立ち上がる。廊下に出てしのぶに続いて歩き出すと、その肩が小さく揺れていることに気が付いた。しのぶさん?と声をかけると愉快げな微笑みが振り返る。

「玄弥君は優しい子ですね」

 すみません、話を少し聞いていました。くすくす笑いながらしのぶは前へ向き直る。廊下の窓からは格子越しに秋の日が差し込んでいて、ふわふわ揺れるしのぶの髪の先や羽織の裾を柔らかく包んでいる。なんだか嬉しそうな匂いがしているな、とそれを嗅ぐ炭治郎も少し笑みになってしまった。

「ええ、俺もそう思います。最初は分からなかったけど」
「今も分かってないでしょう?」

 ぱたり、ぱたり、布で包んだ松葉杖の先が床をつく音ふたつ。何も答えられない炭治郎を面白がるように、片眉を少し上げてしのぶはまた笑みで振り返った。

「君は人に幸福を願うでしょう。その分だけ、君も幸せにならないといけない。そうでなければ君が幸福を願った人も幸せになれないんです。彼はそういうことを言ったんだと思いますよ」

 思わず足を止めて呆けてしまう。しのぶの言葉を一語ずつ拾い上げて、先ほどの玄弥の言葉に丁寧に重ねていく。そのあまりの優しさと美しさに、炭治郎は思わず目元が熱くなってしまった。慌ててそれを拭う。

「炭治郎君、どうか君の願いを叶えてくださいね。私のためにも」

 首を傾げて笑うしのぶの笑顔はいつもの通りどこまでも優しい。鼻にかかった涙声でなんとか「はい」と返事をするのがやっとだったが、その途端しのぶから満足そうな匂いが香った。

「早速君にいいものを見せてあげますから、極力気配を消してついてきてください」

 炭治郎が落ち着くのを待って唇に人差し指を当ててそっと歩き出したしのぶの後を追う。一体なんだろうとは思うが、気配を消せと言われれば声をかけることもできない。廊下をゆっくりと進む。松葉杖にどうしても体重がかかって床が鳴るのでそれを消すのに苦心した。

 ──いもすけ、おやぷん、しのぶ、さん……

 廊下に漏れ出るたどたどしい声。いつも傍らにあるその声に目を丸める。何やらその声は弾んでいて楽しげだ。

 ──あおい、なほ、きよ、すみ、かなを、げんや、い、いも……ぜんいつ!

 しのぶが診察室の前で足を止めて手招きをしている。そっと近づくと戸が細く開いていて、覗き込んで思わず目を見開いてしまった。禰豆子がいることは分かっていた。聞こえてきた声を聞き間違うはずもない。しかしその禰豆子の肘置き代わりに使われている膝の持ち主が問題だった。

「随分喋るようになったな……?」

 困った匂い。禰豆子が不服そうな顔を浮かべたからだろう。巧みに型を操る長い指が、今はこわごわと物慣れない様子で禰豆子の頭に置かれている。

「ねずこ!」

 禰豆子が身を起こし自分を指さして笑った。すると義勇もようやく合点がいったらしい。困った匂いはそのままに、「ああ」とため息とも相槌とも聞こえる声を上げた。

「……義勇だ。とみおか、ぎゆう」
「ぎゆう!」

 禰豆子は上機嫌で義勇の膝に戻った。お兄ちゃん、と呼ばれて気付かれていたかとドキリとするが、ただ名前を呼ぶ遊びをもう一度始めただけらしい。いもすけ、おやぷん、しのぶさん──ぜんいつの次にくるのは「ぎゆう」。ふ、と息の抜ける音がする。頭に置かれていた長い指が禰豆子の左肩のあたりに触れた。

「優しすぎる。お前たちは」

 背中に手を置かれて目を上げると、しのぶが優しく微笑んでいた。口だけで「また」と会釈をして静かに去っていく。また目頭を熱くしている炭治郎に我慢しなくても構わないと言ってくれているようだった。

 敬い慕う恩人が自分の一番大切なものを重んじてくれる。ただそれは最初からそうだったわけじゃない。それを思い出している。今あの人は、炭治郎のこれまでの積み重ねごと禰豆子をこわごわと壊さぬように受け止めてくれている。

 思えば義勇は、炭治郎の願いを出会った時から聞き入れてくれていた。本当に仕方のない帰結だった。炭治郎はこの不器用で優しい人を、まるで息をするように愛しく思っていた。

「誰だ?」

 気配に気づいたのか義勇がゆっくりと首を巡らせた。風のない日の湖面のような静かな瞳が、炭治郎を認めて少し柔らかくなる。嬉しくなって思わず微笑んだはずだが、眉間に妙に力が入っていてきっとおかしな顔になっている。

「……炭治郎?」

 きっと言わない。でも想うことは諦めない。それで幸せだから俺は。寂しい時、苦しい時、辛い時だけじゃなくて、いつでも自分を思い描いていてほしい。そんな願いを。

(2019-11-17)

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