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海潮音 – うしおのおと



「そういうわけやけん、相見積を頼もうと思ったとよ!」
「なに言ってんだよお前は」
「ま……酒の肴にしては、まあまあだったんじゃねぇか?」

 立ち上がり、興奮気味に演説を終えた博多の頭を、ぽかりと厚藤四郎が叩く。ただ、さほど力は込められていないようで、博多はへこたれた様子もなくへへへと笑うのみだ。そのすぐ横で酒壺を傾ける日本号に話を聞いている素振りは微塵もないが、合いの手を挟むくらいには意識を傾けているらしい。普段は正三位だなんだと鼻持ちならない言動が多い割に、随分付き合いの良いことだ。

「けど……いち兄の好きなやつ、気になるのは分かる。俺たち兄弟の誰にも絶対教えてくれないもんな」
「五虎退の目力もかわした時は、吉光の名は伊達じゃないって思ったとよ」
「やっぱりあれけしかけたのお前だったのか……」

 粟田口の刀たちがこぞって一期を包囲していたことは記憶にある。だが、目に入れても痛くないほどに弟刀を可愛がっている刀だ。どのような理由で弟たちに囲まれたとしても、普段よりやや上機嫌になっただけのようだった。

「それにしてもあの天下五剣がなあ……そんな可愛いらしいタマには見えねえが。にわかに信じられる話じゃねえな」
「いや!あれはいち兄をばり好いとう~!誰が好きでも好いとう~!って目やった!絶対そうやった!」
「博多が話すと、みんな博多弁になるんだよな」

 三日月の心情を表したらしい、博多の素っ頓狂な声に文字がよれ、眉根の皺が一層深くなったのが自分でも分かる。しかもそんな時に限って、博多の爛々とした瞳はこちらに向かってくるのだ。

「長谷部は?なんか知らんと?」

 早くに主に見出され本丸に入っているへし切り長谷部に、何らかの情報を期待しているのだろう。だが今、長谷部は主に任された戦績の整理を自室でこなしている最中なのだ。主はゆっくりで構わないと言うが、主命に早急かつ正確に応えるのが臣下の務め。許可もなくどかどかと人の部屋へ入り、騒いだりくつろいだり酒盛りを始めたりする奴らに答える義理も余裕も無い。無視を貫くことにする。

「長谷部ー?は、せ、べー!」
「この面子で黒田の話が出ないんで拗ねてるだけだろ?放っとけ」
「ああ……そう言えば、今日はまだだもんな」

 今度は字が乱れた。この三口が長谷部の自室に入り浸るようになったのは、どうやら日本号に前の主の話をこぼしてしまったことが原因らしい。その際はとにかく話を終えるべく口を動かしただけだったのだが、へし切り長谷部の刃生の内、一番の不覚と言わざるを得ない事態を引き込んでしまった。思い出せば思い出すほどに腹が立つ。ぐしゃり、書き損じを拳で握り潰した。

「俺は主に頼まれた仕事中だ!そもそも、部屋に入っていいと許可を出した覚えもない!さっさと出ていけ!」
「悪い悪い、今日は孝高様の軍略の話にしようぜ。戦に役立てたいしな!」
「俺の前で黒田の名を出すなと何度言ったら分かる!」
「待って待って、先に俺の話やろうもん!なあ、長谷部はどう思うと?」
「下世話な話をする暇があるなら主のために鍛錬でもしていろ!」
「うぃー。酒はのめーのめー……」
「自分の部屋で飲め!」

 長谷部ってほんとしけとう、博多の悪態にじゃあ帰れと返したくなったがぐっと押し黙る。剣戟が続けば続くほど主命は遠のき、奴らの思うつぼだ。一度は日本号との飲み比べになった失敗を二度は繰り返さない。

 そもそも、博多の話は白波の間の泡沫よりも儚く取るに足りない無駄話に過ぎない。

 本丸に入ってからというもの、主は長谷部を近侍に命じることが多い。その日もまたそうだった。近侍の命を受けた日、長谷部は決まって明朝まで主の部屋の前で控える。主の強力な加護があるこの本丸では無用な仕事とされているが、長谷部にはどうしてもそれが主命を疎かにしているように思われるのだ。初めは気にせず休めと命じられていたが、最近は主も何も言わなくなった。

 夜半、刀たちは皆人の身を得た以上、人の子のように眠りにつく。小さな風ひとつでも大きく響くような静かな夏の夜だ。普段は耳につかない虫の音がじりじりと静寂を縁取る。

 ふと、大きな気配を感じて目を開けた。手が勝手に柄にかかっているが、すぐに殺気ではないことに気づく。柔らかい囁きが耳をくすぐり、夏の虫の音に絡んだ。敢えて思い出さぬどこかで聞いた、遠い潮騒が思い出された。気配を消し、主の部屋を視界に収めながら動く。

「起きていましたか」

 心から安堵したような声は、誰のものだかすぐに分かった。戦場での苛烈さとは真逆で、この刀は空気に溶けるような淡い声をしている。

「眠っていた。だが、お前の気配で目が覚めた」

 答えは障子が阻んでいるためかくぐもっている。それでも夜によく馴染む艶のある声音は、一度聞けば誰しも忘れることはないだろう。

「ご無礼を承知で、お伺いしました」

 長谷部から見ても好ましく映る、礼儀を重んじる刀の姿はそこにはなかった。丁寧な言葉の裏には少しも臆するところがない。そこで、先ほどのわざとらしいまでの気配は、障子の向こうにいる者を起こすためのものだったことを悟る。

 それから、沈黙。虫の音が耳元に蘇る。気配が動いた様子も、障子が滑る音もない。だが、そこには夏の夜の蒸した熱が冷めることなく横たわっている。根競べと言うには、顔をしかめたくなるほどに空気が甘すぎる。

「貴方の顔が、見たくて」

 先に折れたのは、荒城探索の長い任から戻ったばかりの男だ。ほんの数刻前の帰還だったので出迎えた刀は少なかった。声音は、最早さざ波とは言い難い強さだ。普段の振る舞いらしからぬ、何もかもを相手に差し出すような声だ。

 ふ、空気が震える。笑みだろう。夜にまた波が立つ。

「俺もそう思って、目が覚めた」

 障子が滑る音を合図に、長谷部も主の元へ戻った。そのまま盗み聞きを続ける無粋も、馬に蹴られる趣味もない。実のところ、この波の音を聞くのは一度目ではなかった。だから今更感慨もない。

 思うに、色恋は白波だ。誰も知らぬ間にも寄せては返す。

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