文字数: 5,788

石頭城・蘭亭序 (パラレル)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8143395
※ ほんのり中華風パラレル。痛い表現有。

石頭城

 踏、踏、馬蹄が重く聞こえるのは気のせいでもないだろう。刀を片手に血煙の中を千里は駆けた。馬は病れている。馬の腹を蹴り激してやって前へ前へと進む。その己の足の重さに一期は知らず覚えず笑ってしまった。一期もまた疲れている。しかし一期の心霊は却って、研いだばかりの刀のように霍霍と燿いていた。粟田口氏の祖宗が山を拓き築き上げた城砦がその姿を大きくすると、それが泰山よりも尊いもののように感ぜられる。不得手な詩も美しい一句が浮かびそうだ。

 馬を激し、兵を慰め、甕城を潜る。夷狄を討ち払いこの城の中に一歩たりとも踏み入らせなかった一期たちを、民たちは皆欣然として迎えてくれる。銅鑼に太鼓に鈴にと、節日の夜のように街は賑やかで、芍薬を飾った乙女たちが甘い香を纏いながら華やかに兵たちを迎える。馬を曳き、それを穿ち進み、なんとか城郭へと辿り着いた。気が急いている。恐らく、戦で勁敵に刀の先を向けられた時よりもずっと。

 厩に馬を繋ぎ、身を翻した。探す相手は、この城について太子の一期よりも遙かに詳しい。妄動すれば労を費やすことになろう。上には蔚藍の天があり、下にその光が垂れて玉台の如き粟田口氏の麗しい城を抱く。このように晴れた日は恐らく庭に出ているだろう。白く光る石道を大きく歩む。やがて城里を走る水の流れに臨み、池と為ったところで何かが頬を撫でた。薄紅が繽紛と一期の顔を滑り落ちていく。拾えば、ばらばらにされた芍薬の落英だった。

「君よ」

 探し人が、池を臨む楼閣から手を差し出している。一期がこの世を識った時から変わらぬ美しさで、一期に影を落としている。まるでこの世ならざる美しさであっても、楼閣に差し込む陽世の光が、瞳の中の月を閃燿させる。これぞまさしく、一期が、凍てつく北方で、砂埃の舞う戦場で、何度となく思い描いた姿だ。

「戻ったか。息災で何よりだ」

 柳のように欄干に枝垂れ、白地の袍に藍の大衣を纏う男はゆるやかに笑みを浮かべる。魁首が変わり、かつての盟を忘れた夷狄を抑える兵たちを率いて、もう三年だ。既に慈しむような笑みに悦びを覚えるだけの童でもない。求める姿を得たというのに、止め処無く焦がれる。

「ますます魁梧のなりだなあ。もはや幼君とも呼べんな」

 全てを見透かすように、男は芍薬の落英と共に喉を鳴らして笑う。一期がわずかに漏らした不興すら愛でるように、おいでと手招きをした。きっとその言葉に従えば、その手のひらが一期の髪を撫ぜるのだろう。まるで幼子を宥めるが如く。

「着物を着替えて参ります。万が一にも貴方を血で汚したくはありません」

 初めからそのようにすれば良かったものを、いよいよ己の不肖を晒すようだ。王たる父よりも先にその笑みを探した不孝の罪もある。だが礼を失ったことよりも、三年の時がまだあの美しい男に手を届かせない落胆のほうが大きい。嘆息して道を戻ろうとする。

「何故笑うんです」

 男は伸びやかに、肩を揺らして大笑している。不興を隠さずに見上げれば、男はまた一期を慈しむように見下ろした。

「俺には千秋万代の血が染みついているんだがなあ」

 その声も、笑みも、瞳も、今までと一糸の差さえ無いようでいて、何もかもが変わっていた。蔚藍の天の下、初めて見る色が楼閣の陰の中に光っている。やはりこの方は何もかも知っている、と思った。それを恥ずかしく、しかし嬉しく思う。

「別れれば三歳も千秋となります。共に在れば千秋は三歳ともなりましょう」

 足元に散った芍薬の花の一つを拾い上げ、口を付けた。何もかもを擲って、乞うようにまた男を見上げる。

「貴方を眷恋することに歳月など」

 氏も、姓も、名も全て、粟田口が興る前の千古に捨てたという、その男を呼ぶために一期は口を開いた。その美しさに、瞳に、何より相応しい名を一期は生まれ落ちた時から知っていた。

 精神よりも先に体が動いていた。無遠慮に触れようとする手を掴む。眼を開き、横たえていた身を素早く起こした。空いた手で腰元の刀に触れる。意識の無い間に刀を奪われることは無かったらしい。

「目覚めたか」

 よもや鬼の類かと疑うような、人ならざる韶秀を誇る男が一期に腕を捕られている。殺気を感じることは無いが、暗がりに白く浮かぶのは知らぬ顔だ。油断をせずに周囲を見渡す。虫の声すら無いあまりに静かな闇が広がっていた。一天を星星が占めている。

「貴方は」

 辺りがあまりにも静かで、大声を出すことを忌う。掴んだ手をそのままに、利き手とは逆に刀を抜いた。この距離ならば、利き手でなくとも十分斃せる。

「お答えを」

 呆呆と一期を見つめるだけの男に焦れて、首元に刃を押し当てる。私室でも営地でも無い場所で身を横たえていた経緯がまるで思い出せない。これまでのところ、この男の他に怪しい者は無い。

「お答えを、ここは。戦場のようだが」

 少い火で獣を焼いたような鼻を刺す香気と、風吹く度に濃くなる血の匂い。嗅ぎ慣れた戦の匂いだ。火攻めは、兵法を好くする中原の国国がよく使う。悪い苗頭が揃っている。上に下にと心が安まらない。

「哀れな」
「何を、」
「己が封土も分からんか」

 男は夜の闇と同じように静かな声と顔で、するりと衣を滑らせた。肩から煤けた藍色の大衣が落ちる。慢慢とその指先を目で追った。

 そこにはひとつ、亡びた国があった。己は、亡国の太子である。それが思うよりも静かに、しかし冷たく暗く一期の胸に染みついた。

 己は、粟田口氏の正当な嗣子である。守るべき民があり、城があり、弟がある。それを全て光復しなければならない。それだけが分かっている。そして、その他は恐らく、達せられるまでは要らぬものとして国と共に亡びたのだろう。

「俺の手を取るか。粟田口の太子よ」

 男を顧みると、そこにあるのは笑みだった。捕られたままの手をわずかに掲げて見せる。一期の冷えた胸を突き刺すような殺気に、迷わず刀を振り下ろしていた。しかし男はそれを避けることもせず、体を開いてむしろそれを受け止めた。低い呻きと共に白い袍から血が溢れ出す。

「玉璽、と、共に在ること、の意する所が分かるのなら」

 流れ出た血が、星の光に藍い。受命於天既壽且康、流れ出た血が地に自ずから字を形していく。その身を以て天命を受けた皇帝を証す玉璽の話を、この九州で知らぬ者は無い。

 傾く体を抱き止めた。興奮も畏敬も無い。ただ凍てついた心霊を以て、血に塗れたこの男を美しい、と思った。血に塗れてこそ美しいと。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。