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彼岸恋 – ひがんのこい



※  2016/10/23 / 一期栄える恋月夜 弐 / A5コピー / 無料配布
※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

「長谷部殿」
「ああ」

 宵闇に沈んですっかり冷えた縁側を、ピシリと背を伸ばし、一分の隙なく男が歩いてくる。一期を一瞥したかと思えば、視線はすぐに正面へと戻る。審神者を前にすれば決して笑みを崩さぬ忠義者だが、仲間に対してはむしろ不遜な態度を取ることが多い。だがそれも気を許してのことなのだろう。戦においては、同じ部隊の刀たちの動きをよく見、よく読んでいる。同じ部隊に入ったことのある者は、概ね長谷部のそういった性質を理解しているようだ。一期もまた、その一人である。

「この時間まで近侍のお務めですか。ご苦労様です」
「主には明日の昼までお休みを頂いている。苦労などない」

 にべもない返答に思わず弱った笑みを漏らしてしまう。この刀は近侍の任に就いた晩、その翌朝まで審神者の部屋の前に控えている。審神者の霊力の粋たる本丸では必ずしも行う必要のない任だが、万一を主のために備えたいという思いはよく分かる。それは、刀剣の最も純粋な、本質のようなものだ。一期も他の刀剣も長谷部の行いを無駄だと斬り捨てることはとてもできず、むしろ好意的に受け止めている。では無理のないように、と当たり障りのないあいさつをして、止めていた足を再び動かした。寝間着の裸足には廊下がひやりと冷たい。

「三日月宗近のところか」

 目を剥いて思わず振り返る。と、まっすぐに審神者の部屋へと向かうのだろうと思っていた長谷部は、その場にまだ留まっていた。先ほどの無表情はどこへやら、揶揄するような斜に構えた笑みだ。

「ははっ、抜くかと思った」

 手袋に包まれた長谷部の手が柄に置かれているのを見て、自分がどんな顔をしているのか察する。思わず一歩下がると長谷部は笑みを深くした。偽悪的な笑みは、悪戯を仕掛ける悪童のような笑みにとって代わった。

「近侍の晩は主の傍に控えている。他の刀が知らんことを知ることもあるさ」

 この本丸では政府の作成した刀帳の番号に従って部屋が割り振られている。番号が若いほど審神者の部屋に近いということだ。三日月に政府が割り振った番号は三。なるほど、長谷部の言葉は疑うべきところがない。

「主に害がなければ、どうでもいい。下世話な話をよそに漏らす趣味もない」

 恐らくそれは、一期に対する長谷部なりの親切心だ。うまく隠しているつもりでも誰に見られるとも知らないぞ、という。確かに長谷部は他の刀剣について何かを吹聴して喜ぶような性根ではない。芯はまっすぐ通った男だ。その点は一期も疑いすら持たない。
 言いたいことだけを言って返事を待たないのは長谷部の悪癖である。さっさと廊下の角に消えていった後姿をしばし見送っていた。

「珍しいこともあるものだ」

 夜半の突然の訪問にも三日月は嫌な顔ひとつしない。布団の上に腰かけ、むしろ嬉しげに瞳を輝かせてみせるものだから、一期もどんどん礼を失してしまうのだった。部屋の隅の行灯の炎が揺れる度、瞳の底で三日月がちらちら光る。それをただ黙って見ていてどれほどの時間が経っただろうか。

「今日は、虫の居所が悪いらしい」

 呆れたような口調だが、やはり表情は陰らない。常ならぬ一期の様を楽しんでいるようだった。それが分かっているのだから、一刻も早く改めねばならない。無礼を詫びなければならない。それが多くの弟たちを率い模範となる長兄の務めだ。分かってはいるのだが、毎日見ても見飽きぬ美しい拵えを眺めるほか、何もする気が起きない。

「話もせずに俺の顔を見るのは、楽しいか?」
「ええ」
「おお、はじめて返事をした」

 しかし、どうせ長くは続かないと自分でも分かっていた。膝を打って伸びやかに笑う三日月を見てさえいれば、乱れて波立つ水面もたちまち鎮められてしまう。ふ、とついに根負けして笑みを零すと、三日月は嬉しげに目を細めて笑う。

「そうだな」

 そうしてするりと布団の中へ入ってしまった。ちらりと一期を見上げ三日月はまた笑う。悠久を感じさせる近寄りがたい神気を普段着のように纏う、悠然とした普段の姿からは想像できない、茶目っ気のある笑みだ。一期の前で三日月が笑う。その笑みのひとつひとつに違った意味がある。それを思うだけで心などすぐに凪いでしまう。

「一緒に寝るか」

 逡巡に費やした時間はごくわずかだ。持ち上げられた掛布団の誘惑に抗えるはずもない。まだ熱の伝わらない冷たい布団が三日月を冷やさぬよう、腕を回して身を近づける。三日月も心地良さげに宵闇色の髪の毛を一期の肩に押し付けてきた。それだけで何とも言えぬ喜びがこみ上げて、乱れた髪を丁寧に撫で梳く。

「誰の手にも触れぬようしてきたつもりでした」
「うん」
「それを知られていました」
「おや」
「寝ずの番をしていれば他の刀が知らんことも知れると」
「なるほど」

 三日月にもどの刀の言葉かすぐに見当がついたのだろう。しかし一期と同じように信を置いているようで、緩やかな笑みを崩さない。むしろそんなことで拗ねてしまう一期を面白がっているのは明白だった。子を見守る親のような目の色に落ち着かない。自分がひどく幼稚で分別のない存在になってしまったような気になり、今更ながらに恥ずかしさが込み上げた。忘れてください、と顔を布団に沈ませれば、喉を鳴らす笑みが耳をくすぐる。

「一期。何か、寝物語を聞かせてくれ」

 弟たちにそうしてやることがあると聞いた、三日月は笑みを引きずったまま続けた。どうやら一期に挽回の機会を与えようとしているらしいが、なんだか余計に居た堪れない。弱い笑みを浮かべ肘をついて三日月を見下ろした。

「寝入り端に本を読んでやっているだけですが……」
「書より、お前の話が聞きたい。そうだ、あの話がいいな」
「何でしょう」
「今日、博多に聞かれてな。兄に慕っている相手がいる、誰のことか知らないか、と」

 布団の上をころころと転がっていく笑みに、挽回の機会も奪われて撃沈する。可愛く利発な弟の猛攻に耐えかね、ついつい取り零してしまったことを早くも後悔した。勘づかれもするはずだ。隠しようもないほど、波々と心を満たしている。

「そうか、慕っている者がいるかあ。俺も知りたいなあ」
「意地の悪い方ですな」
「誰だ?」

 見下ろせば、そこにはもう違う色の笑みがある。一期の目の中にある時、男は風の強い日の三日月夜だ。叢雲がかかって朧に光ったと思えば、次の瞬間には冴え冴えと光っている。その度に見入ってしまう一期は観念して口を開く他に道が無いのだった。

「誰かが、私の想いをなぞってその方を見るのは、耐えられんのです。それが弟でさえ、惜しいと思う」

 ふ、と息が抜け、また笑みが部屋の中に溶けていく。身を捩って笑い始めた三日月にさすがにむっと顔をしかめる。両手をついて、その下に三日月を封じ込めた。

「笑いますか」
「うん、嬉しいぞ」

 目尻に涙まで滲ませている三日月を思わずじっと眺める。咄嗟に何か言葉にしようとして、それもできず、「やはり意地が悪いな」という結論に至る。本人にその気が無いことは間違いがないのでわざわざ口にもしないが。

「どなたのことか、知りたいですか」
「惜しいんだろう?」
「自慢したい気のあることも、また確かですな」

 両肘をついて唇どうしを軽く合わせる。小さな音だけを鳴らしてすぐに離れる。

「分かりましたか?」
「いや、まだ。よく分からん」
「では、もう一度」

 手や、唇や、肌を合わせている時、いつもまず安堵する。三日月を「こちら」へ引き留めていることを、誇らしく得難いものだと思う。

「あなたにだけ、特別です」

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