博多藤四郎が三日月宗近に初めて抱いた印象は、「高価そう」であった。
思うだけでなく、実際に口にも出した。心からの感嘆だったため、何の衣も着せず一言、「うわあ、高そう」。本丸の案内をしてくれていた兄、一期が目を見開いて見下ろしてきたが、礼儀には一際厳しいその口が叱責を飛ばす前に、伸びやかな笑い声がその場に響き渡った。声ひとつ取っても楽筝が弾かれているかのように雅やかで艶がある。頭の中のそろばんがパチパチと天文学的な数字を弾き出していた。
「はっはっは、そうだろう?人も刀も大きいことはいいことだ」
幸いにも、三日月は博多の「高そう」を丈についてだと解釈したようだった。そうやねえ、と適当に相槌を打ちつつ手早く自己紹介を済ませる。うまく切り抜けたと思ったが、一期の視線が突き刺さるように鋭い。確かに、商談を有利に運ぶ印象づけは名刺交換――つまりあいさつからがびじねすまんの基本。御社の株価は高そうですねえ、なんて一言から始まるはずもない。いやでも、目覚ましい業績で……お噂はかねがね……なんて決まり文句を使えばアリな気もする。ちなみに、こういった知識は主のたぶれっとから得たものであって、一期はあまりいい顔をしない。
「はは、また一期の弟か。粟田口は兄弟が多くていいな」
「不肖の弟ですが、どうぞ宜しくお願い申し上げる」
先ほどから出会う刀出会う刀に見事な角度の美しい一礼をしている一期に合わせ、博多も上目遣いのまま頭を下げる。人を値踏みしない実直な笑みだった。それでいて、本人が「じじい」と表現する悠久が目前に横たわっているのを感じさせる。
「不肖、か。だが、お前の弟だ。きっとよき刀に違いない。よろしく頼むぞ、博多」
「任せときんしゃい!」
ぽん、と頭の上に一期の手のひらが乗る。打たれたわけではないが、ぐぐっと重い。さすがに大先輩に対して目に余る行いだと思ったのか、他の刀の時よりも一期のお咎めが厳しかったのを覚えている。それから、長い時を渡ってきたと一目に分かる名刀が兄――吉光の渾身の一振を認めていることが誇らしかったことも。
「ありがとうございます。三日月殿」
「うん」
一期の言葉に、嬉しげに目を細める。その時は、誰に対してもこんな笑顔を大安売りをしているのだろうかと思ったものだった。高価そうな見目で、なんともお買い得な話である。
「まあ……そげんうまか儲け話、あるわけなかよねえー」
馬を歩かせながら竹藪を進む。隊長として先頭を行く三日月が博多の呟きに反応をして振り返った。言葉なく、わずかに笑みを傾げている。その動作一つとっても流れるような美しさがある。美しさがある、ということは隙が無いということだ。長い時間がそうさせるのか、所作の一つ一つに崩しがたい理が染みついている。
「なーんもなか!」
「そうか?また何か拾ったかと思ったが。博多は付喪神というより、むしろ福の神だな」
はっはっは、三日月が笑う。周囲に敵の気配こそないものの、あまりにいつも通りの声色だ。さすがの博多も少し呆れたが、諫めるほど相手の実力を見誤ってはいないので話を続けることにした。
出陣してはいるが、既に一度敵を下した戦場だ。鍛錬を重ねた三日月が隊長、しんがりは岩融。中には本丸に入ったばかりで錬度の及ばない博多、不動、物吉貞宗が並ぶ。制圧した戦場の見廻りと鍛錬を兼ねているのだ。ちら、と後ろを振り返ると、酒を呷る不動と止めようとする物吉、それを愉快げに笑い飛ばしている岩融が目に入る。三条の銘がつくと笑い上戸になってしまうのだろうか。
「いち兄のこと考えとっただけ!」
いち兄、その言葉を聞いた時の三日月の「変化」は大きくはない。だから初めは違いに気が付かなかった。だが、何度も見ている内にそれが「変化」だと気づくのだ。三日月は確かに笑みを大安売りしている。笑みでない時のほうが少ないくらいだ。むしろそれは、三日月宗近という刀の拵えの一つなのだと思う。しかし、一期の名を聞いた時、それは拵えでなく表情になる。
「そうか、俺と同じか」
目元が柔らかく緩み、口角が上がり、精気のようなものが瞳をきらりと走る。相手にごまかしや嘘を使う必要もないほど鍛えられた刀だからこそ浮かぶ、素直な笑みだ。
「本当に、じーちゃんはいち兄のこと好いとうねえ」
返事はなく、ふっと愉快げな小さい笑みが零れて馬の鬣のあたりで消える。心なしか、ぱかりぱかりと地を蹴る馬の足音も陽気だ。当然だということなのだろう。
今回編成隊での出陣は今まで何度かあり、そのおかげで博多と三日月は随分親しくなった。しかし一期と行動を共にしていれば、遅かれ早かれ三日月とは親しくなったことだろう。三日月は本丸で一期を見かければ必ず声をかけ、あの笑みを惜しみなく投げ売りし、何かと言葉を交わしたがる。この本丸に三日も居れば誰でも、「一期は三日月のお気に入りである」と頭の刀帳に刻まれることだろう。おかげで一期と共にいることが多い兄弟たちも三日月と交流のある者が多い。
思い返せば三日月と初めて言葉を交わした時も、一期を三日月が呼び止めたところから始まっていた。
「じーちゃんは分かりやすいけんよか……」
「うん?」
馬の足を遅らせ、横に並んでいた三日月は先ほどと逆の方向へ首を傾けた。さらりと黄金の組紐が揺れる。波間の三日月のように瞳の淵に打除けが浮かぶ。まだらに落ちる木漏れ日が馬の歩みと共にそれをちらちらと光らせる。どこまでも値の張りそうな見事な拵えだ。
それを目にして、頭をよぎるのは風呂場で見た燃えるような瞳の色だった。ううん、博多はひとつ唸って腕を組んだ。本丸へ入ってからこっち、博多はでき得る限りの時間を、一期の背を追いかけ回し恩返しの機を窺うことに費やしている。恩義も怨讐もニコニコ現金払い、借りっぱなしは良くないものだ。そのような商人魂を理解されないのは心外だが、ひよこだヒナだと揶揄されることもあるくらいである。だというのに一期の想い人に全く見当がつかないとは一体どういうことか。
「いち兄のことなんやけど……、」
いち兄、その言葉に三日月は珍しく反応しなかった。笑みも声音もいつも通りのゆるやかなものだが、博多を押し留めるように手のひらを見せ、視線を前方に流している。気づけば空気の質ががらりと変わっていた。のどかな常盤色の世界が、紺青の一色に塗りたくられてしまったかのようだ。息が詰まる。間もなく、慌ただしい蹄の音が耳を掠めた。
「物見が戻ったか」
博多へ伸ばしていた三日月の手のひらが彷徨い、思案するように指先を口元に引き寄せる。物見の報告を聞き、三日月はゆったりと振り返った。いつの間にか後続の刀たちも静かになっている。
「勝つ戦だ、好きにやれ。案ずるな。岩融も好きにやる」
声をかけているのは、鍛錬を主な目的とする三口にだろう。博多たちが何か返す前に岩融が豪快に笑った。相変わらずだなあ、その言葉を受け止める三日月はどこか嬉しげだ。しかし先ほどまでの笑みとはまるで違う、言うなれば抜き身の笑みだった。
「こぼれは……俺が拾う。なに、それぐらいは仕事をするさ」
声は伸びやかだが、身のこなしは豪快だった。ずらりと刀身を抜き、ひとつ払う。それに応えるように三日月の馬が大きく前脚を上げた。こぼれどころか、露払いとでも言うべき疾駆だ。ばさりと大袖が揺れ、翻る。まるで大波だった。
「さあ、俺たちも狩場へ行くぞ!うかうかしていると狩り尽されるわ!」
どう、と空気を塊ごと引き連れるようにして岩融も馬を駆る。しんがりにも先を越され呆然とした視線を交わしていたが、物吉がすぐに我へ返った。いきましょう、力強い声に慌てて馬を駆り、既に小さい背を追った。
「じーちゃん、今日は、珍しかねえ……」
三日月は何も変わらぬ様子で――まるで戦などなかったかのように、木漏れ日の中をゆったりと振り返って首を傾げた。黄金の組紐がまた揺れる。瞳の三日月も浮かぶ。木漏れ日がそれをちらちらと光らせる。出陣からほんの数刻、夕陽の赤みはまだ見えない。
一方の博多と言えば、往きとは随分違っている。傷すらないものの、刀装はほとんど剥がれ、何より半ば競うように戦場へ繰り出す錬度の高い二口の背を追いかけるだけで息も切れ切れだ。続く不動や物吉も似たような有様で、しんがりの岩融だけが満面の笑みで口笛など吹いている。きっと今回の誉は岩融が授かるだろう。
三日月は博多が本丸へ入る前から、鍛錬を兼ねた編成で岩融と共に隊長をこなすことが多かったと聞く。錬度が高いということもあるが、博多が思うに三日月は一種の「理想の上司」なのだ。一期のように時に厳しく、時に優しくしっかりと見守ってくれるわけではないが、任せどころがうまい。まいぺーすに巻き込まれたかと思えば、ふと気づくと難所をくぐっている。うっかり取りこぼした時の助け舟も思う以上に大きい。親と上司は選べない。数多のじゃぱにーずびじねすまんの苦労を思えば、何とも有り難いことだ。
しかし今日は、大しけの海を小船で渡るかのような荒行だった。しかもほとんどの敵を三日月と岩融が片づけてしまい、手元に何も残っていない。疲労感だけはたっぷりあるので、体力だけは多少伸びたかもしれないが、なんともぼんやりした投資対効果だ。
「また何か拾ったか?」
「それはもうよか……。じーちゃん、今日はどうしたと?オレもうきつかあ……」
馬の背に頭を預ける博多に馬を並ばせ、三日月はぱちぱちと星が零れそうな瞬きを落としてくる。あまりに理不尽な強行軍へ再三苦情を訴えて、やっと間延びした相槌を返してきた。
「ふむ、だが急がねばならなかったからなあ」
「なんで?今日のお八つ、好いとうもんやったと?」
「はっはっは、好きなものには違いない」
「ん?」
出陣する前に燭台切光忠から聞いていた今日のお八つはずんだ餅だ。お八つづくりをほぼ趣味として担っている燭台切の定番の品で、特に物珍しいものでもない。身を起こして尚、随分上にある二つの月夜を覗き込む。そこには笑みがあった。博多を見ているようで見ていない、慈しむような笑みだ。
「言っただろう?一期について、話があると」
あー、今度は博多が間延びした相槌を返す番だった。なるほど、合点がいく。要は仕方なく遮った博多の話の先をいち早く知るために急いでいたということだ。どしゃ、と怪音がして振り返ると、不動が力なく落馬した音だった。今の話を聞いて脱力したのだろう。物吉が慌て、岩融はまた笑っている。
「めーわくなじーさんだな!」
戦場の外で聞くには珍しく張りのある声だ。三日月の笑い声が岩融のそれと輪唱する。大丈夫ですよ、僕がついてます!と負けじと声を張る物吉の幸運が少しでも不動にも移るといいのだが。ついでに博多も少しばかり分けてもらいたい。主に金運を。
「ほんとよ、じーちゃん。めーわくなあ」
「それで?どんな話だ」
目を輝かせ、三日月が博多にもう一歩分馬を寄せてきた。低くした声色には内緒話を楽しむ幼子のような無邪気さがある。本人の自己申告に従って、敬意を払って「じーちゃん」などと呼んでいるが、果たしてそれが正しいのかどうか博多は時々分からなくなる。
「そーいえば、じーちゃんなら知っとうかもしれんねえ」
「うん?」
「いち兄の好いとう相手!知っとう?」
「高そう」な上背を博多に合わせて丸めている三日月の顔は今、ほんの近くにある。影が白い顔に下りて、美しい意匠を際立たせていた。珍しく笑みがない。それどころか、表情らしいものも無かった。呆けたような表情だ。しまったと思う。三日月は一期のことを甚く気に入っている。一期の話なら何でも喜ぶと思ったが、面白くない話だったか。
だが、すぐにそれが杞憂だと知る。手つかずの玉鋼のような顔色に、見る間に波紋が広がった。やはり笑みだ。だが、今まで見たことのある類の笑みではなかった。真昼間の中にあるはずなのに、夜の海に引きずり込まれた心地がする。何故だか目のやり場に困った。だが、薄暗がりの中でも美しく輝く三日月から目をそらせない。
「分かっているさ」
三日月が一期のことを気に入っている、ということことはほとんどの刀が知っている。だが、これほどの荒波をその三日月の下に隠していることをどれほどの刀が――一期が知っているのだろうか。
はあ、そろそろ海上に出たくなって大きく息を吐き出した。立て続けになんてことを知ってしまったのだろう。
「じーちゃん」
「うん。何だ?」
「それ以上高くなってどうすると」
三日月は丸くしていた背を伸ばし、また声を上げて笑った。なに、人も刀も大きいことはいいことだ。じゃあ小さいのは悪いのかよ、とヤケ酒を呷る不動が野次を飛ばしているが、もちろん丈の話ではない。三日月宗近、まさかの片恋──悲恋は売れるものなのだ。
呑気に首を傾げる三日月はいつもの笑みを浮かべ、相変わらず高価そうな佇まいでぱかりぱかりと馬を歩かせている。色恋は天下の逸品に価値を添えるものか、また損なうものか。どちらにしろ、やはり楽な儲け話はないのだろう。ひとつの波さえ立ちそうもない凪いだ水面の下には、荒れ狂う渦がある。最早そろばんを放り出すほかなさそうだ。