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海潮音 – うしおのおと



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 博多藤四郎にとって、一期一振はまさに「地獄に仏」、いや「暗闇に白波」、「地下に伊万里焼」とも言うべき刀である。

 吉光の銘を持つ短刀として、博多は様々な主の懐を渡り歩いてきた。ご立派な武家に居た時もあったが、商人の手に渡ってからは、取引の「信用」代わりとして扱われることも多かった。今思えば、刀の本分からはやや外れていたが――例えば長谷部などが同じ扱われ方をされれば、憤慨して末代まで呪いそうなものだが――命だろうが信用だろうが、主を守っていることには変わりない。それに、性に合っていたと言うべきか、そんな来歴だからこんな性になったと言うべきか、強かながら華やかさのある商人の世界が博多は好きだった。

 そんなふうに流れ流れて博多の町までやってきて、一段の時を過ごしている内、「博多」と呼ばれるようになった。なるほど確かに博多の中には、数えきれない主との記憶よりも、博多の町の記憶のほうが色濃い。時に活気に溢れ栄え、時に大火や飢饉で廃れ、いつでも賑やかだったわけではないが、くるくると変化に富む面白い町だ。晴れの日は凪ぎ、嵐の日は荒れる、すぐ傍の博多の海によく似ている。博多はこの「変化」をこよなく愛している。

 ところが。一体どんな因果だろうか――長谷部あたりが聞けば「日頃の行い」だのなんだのと言ってお八つをネコババしたことをネチネチ言ってくるに違いない――博多は気づけば地中奥深くに居た。どうしてそうなったかはよく覚えていないし、どうでもいいことだ。そこには主は無く、人すら無く、喧噪ももちろん無ければ、潮騒も無かった。闇と静寂が変わることなくひたすらに続き、「変化」がない。これこそが一大事だった。それはまさに、博多にとっての地獄だ。そうとしか言いようがなかった。

 人の手を離れどれほどの時間が経っただろうか。交錯する人の念から生まれた博多は、次第に「自己」というものが薄れつつあった。博多藤四郎と呼ばれる吉光の短刀の一つが失われるわけではない。ただ、何の変化も無い場所で何の喜びにも悲しみにも触れないでいることは、人で言うところの「死」と変わりがない。

 博多藤四郎という「自己」がふっと蘇るのは、博多の海の潮騒を思い返す時だった。寄せては返す白波に、博多の商人の切った張ったが見え隠れする。もう一度あの場所に戻りたい、そう「考えている」のは確かに博多藤四郎の付喪神たる自分だ。しかし、長い時の中でその願いすら薄れ消えかかった頃――大波がざぶんと翻った。

「これは……」

 何か温かいものが柄の上から茎のあたりをなぞっていく。息を呑む音が、ぱっと目前を明るくする。

「やはり……私の、弟……!」

 弟、その言葉ひとつで何百年も渡ってきた時が怒涛のように逆流した。付喪神として世界を眺めるよりもずっと前の、炉の熱と鋼を打つ音が鮮明に蘇る。

「共に行こう。私はお前の兄、一期一振だよ」

 記憶の中で高値で取引されていた磁器の絵付けが描かれる様を、一筆目から眺めているようだった。世界に色が付き、影が落ち、白が抜け、柔らかい笑みが眼前に描かれ、金色の輪郭で彩られている。それは凄まじい変化だった。そしてその変化を起こしたのは、間違いなくこの「兄」だ。博多は己の柄に触れてしゃがみ込んでいる「兄」の首元に迷わず飛び込んだ。

「い、伊万里っ、ねこばばああああああ!」

 そこが大坂城の地下であったこと、その場には一期を隊長とした探索隊が居たこと、任務中に発見された刀が主の力を得ずに顕現することは稀であること、これら全て後から知ったことである。ちなみに、顕現の第一声は取り乱していたということで深く追及もされず事なきを得ている。やはり一期一振は神様仏様、伊万里様だ。

 その来歴のため博多はあまり吉光の兄弟たちと馴染みがない。だが、そういった事情を経て本丸へ入ったもので、「この本丸に顕れた博多」は一期一振を我ながら熱烈に慕っている。博多の主は一期だもんなあ、などとからかわれることもあるくらいだ。博多としては今の主を当然仕えるべき主君として認識しているが、顕現した状況を考えればあながち冗談でもない気さえする。

「いち兄、どこ行きようとー?」
「ああ、博多。今日は畑当番なんだ」
「俺は今日非番!手伝ってよか?」

 今日も今日とて、背をピシリと伸ばし足音無く廊下を歩くその背を目ざとく見つけ、ためらうことなく駆け寄った。服装は畑仕事のしやすい軽装だが、一期の身のこなしには相変わらず隙が無い。博多の気配を気取った時には既に左足に重心が置かれていた。仮に一閃でも打ち込もうとしたなら、先手を打ってこちらの間合いまで踏み込んでくることだろう。ここは本丸、主の力に守られた堅牢な城だ。そんなに気を張らなくてもと最初は呆れもしたが、今では一期がそういう兄なのだと理解できている。無理をしているわけではなく、そういった振る舞いを普段着のように着こなしているのだ。それでいて、博多を見下ろす表情はひどく柔らかい。

「本当に非番だろうな?」
「あーいち兄チェックこわかー!今日は本当に非番やけん!ね?よかろ?」
「しょうがない……好きにしなさい」

 以前、こう言って馬当番をすっかり忘れていたことがあり、一期の笑みには呆れの色が濃い。ちなみにその際は秋田藤四郎と共に兄との手合わせを満喫していたのだが、本来馬当番の組だった長谷部が道場に怒鳴り込んできたため、あえなく中断となってしまった。念のため特筆しておくが、わざとではない。

「非番の日は英気を養うことも務めだよ。博多」
「いち兄には助けてもらった恩があるけんね!24時間働いてでも返すばい!」
「またそんなことを……兄として、弟を率いるのは当然のこと。お前が気にすることはないよ」

 並んで薄暗い廊下を抜け、表へ出た。むっと湿り気のある熱が肌に迫る。日はまだ中天に足をかけたところだが、肌を突く陽光は既に強い。空は陰り一つなく青く、縹色一色に染め抜いた反物を皺なく広げたかのような空だ。そうなってくると、白く光る太陽は大粒の真珠だろうか。何やら高値がつきそうな夏の空である。軒下にぶら下げてある麦わら帽子をジャンプでひっつかみ頭に乗せる。鍛錬に励む何口かの刀と挨拶を交わしたり無視されたりしつつすれ違い、本丸の裏手の畑に入った。畑と言っても田んぼと合わせても広さは一反も無く、その日の畑当番が好きなように手を入れるため、庭との境が分かちがたい。

「今日は誰と組まされとうと?」
「不動殿だ。姿が見えなかったから、先に来ていると思ったが……」
「あー……不動ね。昨日も飲んどったけん、多分まだ布団ん中ばい……」
「だあーれが布団の中だってえ?……っひく、」

 突然割り込んできた声に目をやれば、鶸色に輝く葉桜の下に寄りかかる影がある。寄りかかるというよりも最早木の根を枕にしているといってもいい体勢だ。そのすぐ傍には小さな酒瓶がひとつ転がっており、既に空のようだった。目を白黒させている一期を一瞥してから、博多は大きなため息を吐き出した。

「朝っぱらから飲んどったら、布団の中におるより悪かろうもん」
「なんだぁーどいつもこいつもぉ、ダメ刀だから除け者にしようってのかあ?」

 不動行光とは小笠原にいた頃付き合いがあり、この本丸でも何かと絡まれることが多い。管を巻いている時は近寄らないのが一番だということもよく知っている。今にも介抱へと動き出しそうな一期を、放っておけばそのうち酒も抜けるからと押し留めた。どうせ甘酒だ。

「じゃあ、今日は田の草を刈ろうか。皆、夏野菜に夢中になって手入れを怠っているようだからね」
「まーかせときんしゃい!」
「こらぁー無視するなー!博多、ここに来い!ここにぃ!」
「はいはい、後で行くけんねー!」

 振り返りもせず返事をして、青々とした水田へ鎌を片手にべちゃりと足を踏み入れる。さわさわ、と稲が揺れる音の隙間に、ほんのかすかな笑みが忍んでいることにふと気が付く。一足先に作業を始めている一期の顔は見えないが、どうやら兄から笑われているらしい。

「なんば笑いようとー?」
「いや、はは……仲が良いもんだと思っただけだよ」

 しゅっ、しゅっと、手際よく畦草が刈られていく音がする。後れまいと手を動かし、拗ねた声を出しながら博多も笑みを浮かべた。珍しく愉快げな兄の声についついつられた形だ。

「仲が良いってよりも腐れ縁やねえ……。それよりいち兄、なんかいいことあったと?」

 少し目を上げると、空の色を薄く染み込めたような頭がわずかに上下しているのだけが見えた。真面目な兄らしく、やるべき事を放り出してまで振り返り弟に視線を合わせてくる気配はない。

「いいこと?さあて……」

 意外の指摘に動じた様子も声には滲まない。赤子をあやすような柔らかい声音だ。気恥ずかしさと、兄の一筋縄ではいかない気性に鼻のあたりがむず痒くなる。手で軽くこすって鼻先を汚す。

 一期はことさら、眷属たる「弟」たちには甘い顔をする。博多もそうやって扱われる一人だ。だが、だからといって無条件に何もかもを与えたりはしない。厳しさという名の、それも優しさの内の一つで、身近にいるものほどその「優しさ」に晒されることになる。

 しかし、ほしいもの――知りたい情報がある時は退いてはいけない。そこに商機があるなら尚更だ。それは前の主たちが博多の柄巻に幾度となく滲ませた教えである。そして、暖簾に腕をかけてしまったと気づいたら、すぐに引く。攻め方を変えるのだ。こういう時には、沈黙を選んでしまうのがいい。不自然な沈黙は何かをごまかしたい者にとって圧になる。まさに、押してダメなら引いてみろ。

 畦草を刈る音は不規則にこちらとあちらで重なったり離れたりする。風がひとつ疾れば、さあっと萌黄色の稲が鳴る。不動行光、つくも髪……と遠くからいつもの口上が聞こえた。機嫌を少し持ち直したらしい。その内千鳥足で田んぼに入ってきて作業を始めることだろう。

「腐れ縁でも、縁のあるのはいいことだよ」

 一期が動いた。声はいつもの張りのあるものではなく、ささやくように低いものだったが。返事をしたい気持ちを抑え、草刈りを続ける。

「縁というものは、案外強いものかもしれないな。刈っても、根が残るように」

 焼け落ちたりはしない、と続いたように思うが、次第に声音が小さくなっていったので定かではない。何故だかその囁き声に、晴れた日の穏やかな海が思い返された。声色が凪いだ海の潮騒に似ているのかもしれない。とぷとぷと小さな波が胸裏の岸で遊ぶ。

「それだけで、血潮が沸き立つ」

 ざばん、しかしここで突然の大波。呑まれた博多は思わず手を止めてしまった。咄嗟に立ち上がったが、そしてその気配は兄にも知れただろうが、一期は相変わらず背を向けたままだ。あー、空が青い――不動の呟きがやけに大きく聞こえる。なるほど、確かに青い。

 一大事である。

 色恋というものは、太古から現在に至るまで、歌に、楽に、舞に、語りにと様々な形で取り上げられてきた。そして大抵は流行し、商機を生む。つまり色恋は優秀な商材である。しかも神様仏様伊万里様、あの一期一振が。これほどないまでの投資時だ。別に兄を売り払おうというわけではないが、端的に言えば非常に興味がそそられる。逸る気持ちをなんとか抑えつつ畑仕事を終え、三人揃って湯浴みへ向かう。昼餉を取った後、一期は遠征に出る予定らしい。時は限られている。

「あーあー……ついには見てくれまでダメ刀かあ……信長公の愛刀がなあ……」
「では早く汚れを流してしまいましょう。ご心配召されるな。元の威光は何を以ても汚れませんよ」
「そうそう!不動イケメンやけん、心配せんでよかよか」

 一期と博多の言葉を聞いているのかいないのか、不動はまだブツブツ言っているが、酒は抜けたように見える。この後は共に出陣なのでピシャッとしてほしいものだ。明太子の味のように。

 体を清めるのみでさっさと身支度へ向かおうとする一期をなんとか引き留め、湯船につかる。昼前だ。季節柄水浴びでもおかしくないのだが、加州清光や和泉守兼定といった刀の強い要望によって、風呂はおおむね一日中沸いている。出陣や遠征は帰還の時間が読めないことも多い。刀に甘い主のはからいには感謝の念しかないが、博多としては光熱費込みの採算が気になるところだ。

「いち兄って、好いとうもんがおるんやねえ」

 敢えて回り道をせずに本道を通る。しかも相手に余地を与えない断定だ。雑談の間を突いて、構える暇を与えない。組み討ちの基本である。目端の不動は湯舟の端で今にも眠りに落ちそうだ。のぼせそうになったらさすがに声をかけてやろうと決める。

「突然だな」

 一期はここにきて初めて、少し困ったように眉尻を下げて見せた。それで引き留めたのか、と咎めるような口ぶりだ。しかしここで折れるわけにはいかない。

「誰かくらい教えてくれてもよかろ?ね?誰にも言わんけん!」

 畑仕事に加わった不動とやり合いながら、考えたのは様々な可能性だ。どこぞの名品の付喪神か、はたまたかつての主である姫君か――悲恋の場合はよく流行り、よく売れる。だが、兄の口ぶりから見るにここ本丸で顕現した刀という線が有力だ。

 審神者が刀剣をこの世に顕現させた姿は男性ばかりである。しかし、付喪神は元々物だ。元来番うことは無く、現在の姿かたちにさほど意味は無いだろう。ただ、物であるがため、主に執着はあってもそれ以外に意識を向けることなどほとんどないものだ。だからこそ博多の興味も尽きない。向き合う一期の瞳の中には、爛々と目を輝かせる博多がいる。はあ、一期はひとつため息を吐き出した。

「誰にも言わないか?」
「言わん!ぜーったい言わん!お櫛田さんにも言わん!」

 パンパン、なんとなくかしわでを打ってお参りする。二礼二拍手一礼、海を渡っても高値で取引される伊万里様への最大限の敬意である。やれやれと呆れたように笑った一期は、そうだなと腕を組んだ。相手のことでも考えているのか、表情から呆れが消えてどんどん甘みが加えられていく。弟にも向けたことのない糖度に差し掛かったところで、突然一期はざばりと立ち上がった。熱い波が立ち博多の胸元を打つ。

「いち兄?」
「お慕い申し上げている」

 呆然と見上げる兄の顔は、もういつもと変わらぬ笑みに見えた。だが、よくよく見れば黄金色の瞳は強い光で輝いている。小さな格子窓からしか光の入らない薄暗い風呂場の中では余計にそう見えた。先ほど一期の瞳の中に見た、答えを熱烈に欲しがる博多の目とそっくりだった。

「誰かに話してしまうのも惜しいほど」

 しばらく呆然と兄を見上げていたが、ばしゃっと怪音がして目玉だけを動かす。不動が湯船の縁からずり落ちてしまったらしい。ぽかんと口を開けた間抜けな表情だが、博多も似たような顔をしていることは間違いない。どうやら不動もしっかり一期の言葉を聞いていたのだろう。しかし一期は素知らぬ様子で脱衣所へ向かっている。

 一期に思い人がいること、案外にそれが知れ渡っていること、しかし誰も肝心の相手を知らぬこと、これら全て後から知ったことだ。さすが神様仏様、伊万里様とでも言うべきか。

 凪いだと思えば、荒れ狂う。「変化」のるつぼ、今の一期は白波だ。だがそれが一期の気性なのか、そもそも色恋がそういうものであるのか、博多にはよく分からない。色恋は優秀な商材だが、色恋自体は太古から商人の手に余るものなのだ。

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