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髪如雪



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150
※ 転生パラレル

 長く緩やかな坂をゆっくりと時間をかけて上る。同世代でも体力はあるほうだが、夏の盛りの日光と乱暴な蝉の合唱を全身に浴びながらの行軍はなかなか苦しい。じわりと滲む汗を拭い拭い、やっと目的地へと辿り着いた。タクシーでもバスでもなんでも使えとよく助言されるが、坂の下にある花屋で花を選んでからこの坂を上る、というのが最早習慣と化してしまっていた。昔からゆっくりと景色が流れていくほうが好きだ。他の者が急かす中、これから見舞う友人だけはそんな性質をよく分かっていた。黙って、いつも笑顔で横を歩いていた。

 自動ドアをくぐると、強すぎない冷房が心地良く汗ばんだシャツを撫でた。受付にはすっかり顔を覚えられたらしく、親しげに挨拶をされるのでそれに笑みを返す。風邪を引かないようにしてくださいね、との助言をありがたく受け取り、ハンカチで汗を軽く拭う。病人を見舞いに行って病人になったのではさすがに呆れられてしまうだろう。

 エレベーターを待つ人の多さを見遣って階段を使うことにする。目指すは最上階だが、その階数は四階だ。段差の小さな階段にのんびりと足をかけ、やっとのことで目的地まで辿り着いた。やれやれとドアをスライドさせる。それからノックを忘れていたことに気づいたが、ベッドの上の男は今日も眠っているようだったので良しとする。なるべく音を立てぬよう後ろ手にドアを閉じた。丸椅子に腰掛けて一息を付く。

 柔らかく薄く優しげに形作られた顔の輪郭や鼻筋、唇に対して、目元は割にはっきりしている。どこか幼い印象はいくつになっても健在で、目を瞑っているとそれが尚更顕著だ。皺の増えた今でもそれは変わらない。窓からの光が白髪交じりの色素の薄い髪をきらきらと透かしていた。こうして見ると夏空のような色をしている。美しい男だ。随分と長い間親しく付き合ってきたが、見飽きることはない。白すぎる顔色と少しこけた頬を気にしながらじっと微かな息遣いに耳を傾ける。

 夕方までそのままで居てもいいぐらいだが、せっかくの見舞いの品を置いておくくらいはしておかなければなるまい。この男の弟の誰かに鉢合わせた時にまた怒られるか、呆れられるか、もしくは狼狽されてしまう。よいしょと立ち上がり、窓際の棚にバスケットに詰まった花束を飾る。ついでに窓から外を見下ろせば、山に囲まれた小さな町が望める。弟たちが長い協議の末景観でこの病院を選んだと聞いた。確かに見晴らしは素晴らしいが、彼らが最新の設備やスタッフを備える病院を選ばなかった理由を聞く気にはならなかった。

「いい香りだ……」

 おや、と思わず声が出た。振り返ると、鮮やかな色の瞳が見上げている。太陽の光を浴びると琥珀を通り越して黄金が誂われているようにも見えた。久々にその色を見た気がする。最近は見舞いに来ても眠り続けていることがほとんどだった。しゃがみ込むこともせず、それをじっと見下ろす。夏の強い陽射しが窓を通って背を灼き、ベッドに影を落としている。

「起きたか」
「はい」
「花の香に誘われたか。雅なことだ」

 持ち歩いていても匂いの分からないくらいの花だと思っていたが、もしかすると歳のせいで嗅覚も鈍っているのだろうか。花束に近づいてすん、と匂いを嗅いでみるがやはりよく分からない。

「俺の声ではぴくりともせんと言うのに」
「貴方の声は……あまりに耳に心地良いんでしょう」

 ふ、と思わず唇の隙間から笑みが漏れてしまった。この男は、生真面目な性質のくせして、時々こういう言葉を素面でこぼしては、女たらしだすけこましだのと友人たちに囃し立てられるようなところがあった。一体誰の影響やら。ふふ、と喉の辺りで笑みを燻らせながら花束と向かい合う。そう言えばこの外側にかかるフィルムは外したほうがいいのだろうか、手慰みに引き剥がしてみる。

「美しい、」

 人の心にすっと染み入る水のような柔らかい声音が、細く感嘆を漏らした。ふっと視線を落とすと、男が目を細めてこちらを見つめているのに出くわす。

「美しい花ですな」
「そうだろう?」
「名を知らぬ無知が悔やまれます」
「うん。俺も美しさだけで選んだ。名は知らん」

 赤やピンク、オレンジや黄色の鮮やかな花は、羽毛のようなひだを広げていて華やかだ。確かに美しいのだが、これが見舞いに適した花なのかどうかすら分からない。そういうものを人に贈る必要がある時は、真っ先にこの男の面倒見を頼っていた。

「気分はどうだ」
「随分長い夢を見ました……これが走馬灯というものでしょうか」
「さあてなあ」

 それを見舞いに来た親しい人間に聞くというのも、酷なこととは思わないのだろうか。そういうところが「らしい」とも思いまた笑っていると、随分細く節くれだった手のひらが持ち上げられた。手招きをするようにひらひらと上下している。

「どうした?」
「もう少し近くへ。よく見えんのです」

 二三、瞬きをして苦笑しながらベッドに腰を下ろした。手をついて身を乗り出し、黄金色にぐっと近づいてやる。

「見えたか」
「はい。しかと」

 男は嬉しげに口角を持ち上げた。いつ見てもこの男は、人を慈しむような、それでいてどこか呆れているような、不思議な笑みを浮かべている。腕がそろそろと伸びてきて長い前髪の先に指が触れた。

「白くなりましたな」
「はっはっは、じじいだからな。白くもなる」

 男の弟たちはロマンスグレーだの何だのと誉めそやしてくれるが、実のところ己の髪色が何色だろうとどうでもいいのだ。ただ、この男が世話を焼いてくれる度に、良い黒髪だとこぼすことがなくなるのは少し惜しい。

「私も随分と歳を取りました」
「……ああ、俺も。随分と歳を取った」

 いつか遥か遠くで聞いたような言葉に一拍言葉が遅れた。そんな自分に苦笑が湧き上がる。この時に、再び見えたことのみを喜べばいい。また初めからやり直すのもなかなか愉快だ。長い時の流れの中で、そう思うようになっていた。

「お手を」

 男が髪の先に触れていた手をひっくり返して差し出してみせる。不可解な言動に面食らいつつも素直にそこへ手のひらを重ねる。思うよりも強い力でぎゅっと握られた。

「長く寄り添い、助け合い、苦楽を共にしました……髪が白くなるまで」

 息を吸い込んだまま吐き出すのを忘れる。何か言葉を探そうとするが見当たらず、らしくもなく狼狽し目を伏せる。ははは、と男は病床であることを忘れたように朗らかに笑った。

「良かった。覚えていましたか。私は思い出すのに随分時間がかかった……」

 長らくお待たせました、と詫びるような言葉だった。しかし男に悪びれた様子はない。物腰が柔らかいようでいて、そういうところがこの男にはあった。ずっと。遥か昔からずっとだ。眉根に力が入りうまく笑えている気がしない。それでも、もう一度黄金の瞳を覗き込む。

「三日月宗近」

 ガラス細工でも扱うかのように丁寧になぞられたその名は、魂の茎に刻まれた銘だ。どんな言葉よりも美しく、優しく、甘く体中に染み渡る。表情が思わず緩むのが己でも分かった。悠久の時に重ねたあらゆる言葉や想いがどっと逆流するかのようだ。

「一期一振」

 はい、と答える一期の笑みが夏の日差しの中光っている。その笑みを見下ろす時に込み上げるこの想いの名を、三日月はもう随分昔から知っている。

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