山桜が慎ましくたおやかに地べたへ腕を垂れている。先に主が催した花見では、各所からおなごと共に百とも千ともつかぬ桜を集めたと聞く。主の佩刀たる一期も当然それに付き従った。しかし、主に代わりこの城を背負う女を見守るが如く、そっと立つこの桜のほうにこそよっぽど趣を感じる。そう言うと、この城から離れられぬ身の刀は穏やかに笑って見せた。そういう、誰も思いもせんことをするからこそ、人に喜ばれ尊ばれ、そしてその胸に深く残るんだろうさ、と。
「儂もようけ歳を取った」
薄紅がちらちらと白い天道の光を浴びながら舞って落ちる。その隙間から一期の主はぽつりと呟いた。空は青く高く、雲は白く薄い。人の目に映らぬ付喪神として主を見守る一期にも、春日の暖かさが感じられるような陽気だ。くれ縁を横切った光が間を照らし、主の日に焼けた面に刻まれる無数の皺に影を与えている。
「ええ、わたくしも。随分と歳を取りました」
澄ました様子で答えるのは一期の主の妻たる女だ。夫と同じように半身に光を浴び、どこか呆れたようにも慈しむようにも見える笑みを静かに刷いている。それから、このめおとは言葉を重ねなかった。その場を去ろうともせず、ただ静かに、向かい合って春と桜を浴びている。
「めおと、というものは……良いものですな」
「嫁でも娶りたくなったか。それも主の影響かもしれんぞ」
山桜の下、その腕に絡め取られるように立ち並ぶ隣の男は、一期の聞き慣れたふうに朗らかに笑った。どこか古い時代の雅を思わせるような伸びやかな声だ。笑う度、金色の頭飾りがゆらゆら揺れ、ちらちらと桜と共に光って見えた。すっと通る鼻梁にかかる黒髪は夜半を思わせる藍色で滲んでいる。長い睫毛が上下し、その瞳の奥底に三日月を浮き沈みさせた。相変わらずだ、この男は相変わらずだ、と一期はその姿を見る度安堵のようなものを覚える。主が伏見に篭りきりになり、見える機会を殆ど失ってから尚更そう思う。
「からかわんでください。私は本心より申しておるのです」
「ははは……すまんな。からかったつもりはなかったが。骨喰にもよく笑い過ぎだと怒られる」
大坂に残る兄弟、中でも足利家で縁のある骨喰にこの男は昔から良くしてくれている。思えばそれがきっかけで言葉を交わすようになった。一期の主は稀有のものを収集し、仕舞い込む悪癖がある。刀もそのひとつで、この大坂には各地の名刀がひしめいている。一期が主の手に渡ったのはやや遅く、天下五剣の一とすら数えられるこの刀は驚くべきことに主の妻の手にあった。もしかすれば、一言も交わさぬまま時に流されていたかもしれないと思う。そうでなくて良かった、何度辿ったか知れぬこの考えの終わりもいつも安堵だ。
「側に寄ってもええか?」
「……まあかん、こっすい聞き方だぎゃあて」
身を乗り出しながらもその場を動かぬ主は、ぎょろりと飛び出た目玉に天下人とも思えぬ遠慮を滲ませている。まるで母親にひどく叱られた後の童のようだった。実際、寄るなと激昂したこともある妻の激しい気性を慮っているに違いない。苦笑して隣に目を遣ると、やはりそこに立つ男も愉快げに笑っている。
「ですが、憧れる気持ちのあることは、あながち空言でもないかもしれませんな」
「あれは怖い女だぞ。身はおなごだが心はおのこだな。それでも羨ましいか」
物好きだな、とまた笑われる。しかし一期が羨むのは「妻」という言葉でも、「おね」という女でもなかった。
「ええ、羨ましいですな」
主はゆっくりと畳を膝で進み、妻の目前までにじり寄る。妻の顔色を伺いつつ、その皺だらけの手のひらを両手で包み、労わるように撫でた。その姿は仲睦まじい夫婦のようであり、長年共に戦った友のようでもある。主に仕えるこの国全ての家臣の中で、恐らく誰よりも早く一期は気づいていた。主は、己の死期を悟っている。
「寄り添い、助け合い、苦楽を共にし、髪が白くなるまで添い遂げ、こうして……」
澄ました顔を作ってはいるが、それでも決死の思いだ。主もこのような思いで妻の手を取っただろうか。だらりと体に沿わせていたその腕を丁寧に取り、手のひらを両手で包み、祈るように額の高さまで持ち上げた。
「手を取り合うというのは」
ちらりと表情を見遣り、見開いた瞳の中に真昼の月を見つける。この男がこのように驚いてみせるのは本当に珍しいので、思わずまじまじと眺めてしまった。しばしそうして見つめ合う内に、次第に男の表情がいつもの緩やかな笑みに戻る。からかうなと怒るべきかと問われ、すぐにいいえと否定した。ここで戯れだと思われれば、悠久を後悔で費やすに違いないと確信していた。
「名を呼んでください」
また時代が変わろうとしているのを日に日に強く感じる。一期自身は、兄弟たちは、そしてこの目前の刀は次の世は誰に柄巻きを取られるのか。会えなければ焦り、会えれば安堵する。打たれてからの時間を思えばほんの一瞬、人の瞬きよりも短い時間しか縁を重ねていないというのに。
「貴方ほどの刀に、他と同じように忘れられては堪らない」
あるはずのない心臓が震え、上がるはずのない熱が上がり、人の写し身であるはずの心が怒涛のように堰を切るのが分かる。かつての主やその周りの者たちが言葉で、歌で、文でと綴った、たったひとつの言葉が一期の胸にぱっと浮かんだ。
「……一期一振」
「はい、」
「呼べと言うから呼んだ」
「……はい」
思わず硬く強張っていた面が緩んでしまう。両手にもう少し力を込めてその手のひらを握り込むが、相手に引き抜こうとする気はないようだ。伏し目がちの笑みを飽かずに眺める。
「俺たちは刀だ。後の世に千代八千代と残るか、あるいは明日折れるかも分からん」
「はい」
「俺はもうすっかりじじいの類だが、見ろ。白髪のひとつも無いぞ」
「はい」
どこか言い訳じみた言い回しがおかしく、我慢できずに一期は肩を震わせて笑った。散った桜のあたりを眺めていた男も愉快げな笑みと共に顔を上げた。いつもの穏やかな笑みとも少し違う、生気の溢れた、輝いて見えんばかりの笑みだ。
「お前は、誰も思いもせん、面白いことを考える」
「そうでしょう」
「やあ、愉快だ。一期一振、この名は忘れんぞ」
伸びやかな声が、薄い唇が、一期の名をなぞる度に胸がぐっと詰まる思いがする。ここで全てが終わっても悔いがないと思うのに、ここで時が止まればいいと願うような愚かしい考えが何度も去来する。こんな無様をどう表すか、一期は知っている。
「三日月宗近」
音のひとつずつを、壊れやすい舶来のガラス細工のように慎重に口にした。するとまた、相変わらずの笑顔をより輝かしいものにして男は――三日月が笑う。
「どこに居ても、何をしても、私もこの名を忘れんでしょう」
これは恐らく、人の言うところの恋だ。