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東流水 (三日月宗近)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5343102

 ふっと体が浮き上がるような感覚に誘われて目を開いた。部屋に満ちるものが暗闇ではない。目玉だけをころりと転がして障子を見遣ると、黎明の光が格子の間を淡く染め抜いているのが見えた。今にも顔を出そうとする朝の気配が三日月宗近の鼻先をほんのわずかに掠め、それをやや敏感に感じ取ったがために目が覚めたらしい。

 ふ、と笑みを含む呼気が知らずに漏れた。目覚める時のあの不思議な浮遊感をもう一度、今度はしかと意識を持って感じてみたいと思い試みる。けれど、ただ目を瞑って開いてを繰り返しているのとはどうにも違う仕組みらしい。うまくいかない。失敗すらおかしく、瞼を下ろしたまま笑みをこぼし、仰向けの体をのそりとひねる。枕の上で乱れた髪の幾筋かがざらりと頬にかかるのが分かった。薄く目を開いて格子に貼りついた夜明けをぼうっと眺めることにする。

「ううん……」

 しかし、四半刻もしない内にひとつ唸る。これはどうにも退屈だ。白く濁った和紙は始終淡い光を透かすのみで、移ろいもない。恐らく、三日月以外の誰もがまだ眠りの中にあるのだろう。体の下敷きになっている腕に力を込め、のそりと半身を起こす。そのままの姿勢でしばし動きを止め、やはり何の変化も起きぬことを確かめた。うん、誰にともなくひとつ頷く。ずるずると布団ごと足を引きずる不精をして、腕を伸ばし障子に手をかけた。

 人が一人やっと通るほどの狭い隙間から、湿った空気がひやりと三日月の額を頬を鼻を舐めた。桜もすっかり散ったような時季だが、外は夜を通うとすっかり昼のぬくもりを忘れてしまうものらしい。天道の先触れが薄く色付けした庭が、掛軸のように縦長な視界の中で、木々の蒼も太鼓橋の朱も水面の藍もみなすべてぼんやりと明るく、薄墨のように描かれている。すん、目を閉じ鼻で息を吸うと水気を伴ってむっと草木が香る。夜露の匂いとでも言おうか。 口角がゆるやかに上向いた。

「よきかな」

 昼間の喧騒が嘘のような本丸では、小さな感嘆もはっきりした響きがする。片手を障子の前について身を乗り出した姿勢のまま、三日月は夜明けに燃え始める庭を熱心に観察した。時代ごとに本拠を変えるこの本丸においても、三日月がその刀身に重ねてきた日々と同じように朝日が昇る。庭の奥からちらりと覗いた光が淡い色をした庭に黄金の輪郭を与える。垣間見た先にあるのが夕顔でなく三日月なのだ、天道はさぞ落胆していることだろう。そんな自分の考えにまた笑う。そう言えば、自分で言った言葉に自分で笑うのは年寄りの証拠だ、と言っていたのは一体誰だったか――

「なにやってんだ、じいさん」

 いつの間にか、掛軸が画山水から姿絵に変わっていた。すらりと細く繊細でありながら、しなやかな力強さをも併せ持つ筆致が、鋭い切れ味のこの刀を美しく描いている。訝しむ視線を隠しもしない薬研籐四郎を見上げ、三日月は笑みを深めた。

「おはよう」
「ああ、おはよう」

 挨拶を返して薬研は呆れたような苦笑を浮かべた。黒い手覆に包まれた細い指を障子にかけ、躊躇いなく開け放つ。一幅の掛軸はたちまち一枚の絵画になった。

「考え事か?」
「いやなに、庭を眺めていただけだ」
「寝間着のままか。しかもこんなに狭い隙間から」
「うん。早くに目覚めたらしい。障子を開ける者が居なくてな」

 はっはっは、と声を上げて笑ったが、薬研がそれに続く気配は見えない。むしろ苦い笑いを深め、だらしなく座している三日月と目の高さを合わせるようにしゃがみ込む。朝陽を背にしているため、庭と同じようにその刀身を黄金色が細やかに飾り立て、その一方でぼんやりとした影が涼しい鼻梁と艶のある黒髪に沿って落ちていた。

「いつもはどうしてるんだ?」
「いつもか。はて、どうしていたかなあ」

 思い返してみれば、初めはその日に同じ部隊へ編成された者たちが出陣や遠征の前に三日月に声をかけてくれていた。特に三日月と同じく早くにこの本丸に顕現した加州清光などは、主に迷惑かけないでくんないなどとこぼしながらも、よく世話を焼いてくれたものだ。そのうち、それを目にしていた他の刀剣――特に遠征先と本丸を往復することの多い粟田口の短刀たちがあれこれと手を貸してくれるようになった。長兄の影響だろうか、粟田口の刀剣には手先が器用で面倒見の良い者が多い。

「兄弟たちがか。そいつは初耳だな……なんとなく想像しちゃいたが……」
「今日は薬研が来てくれたか。やあ、嬉しいな」

 鍛錬所が動き始めたのか、新たな刀の打たれる音が耳に心地よく刺さる。薬研が黙り込むものだから、いつもより大きく響いて聞こえる気がした。

「今回の遠征は調査が主だ。用心するに越したことはないけど、まあ気楽にな」

 部隊長に任ぜられた御手杵が出発前にかけた言葉通り、今のところ至って平穏に時は流れている。ただ調査すべき場所が多いためにどうしても長丁場になってしまうのだ。審神者の加護で身なり身分を怪しまれることもない。審神者の買い物に付き合う時のような気楽さで、活気ある街並みを眺めながらそぞろ歩いている。

 三日月にとってはその鞘に映した懐かしい記憶のひとつであるはずだが、道沿いにずらりと並ぶ土壁の平屋も、道端に菰を広げて物をひさぐ商人も、泥だらけで駆けずり回り三日月を壁にして鬼ごっこに勤しむ童たちも、どれも馴染みがなく物珍しい。三日月の周りで二重三重円を描いた童たちを笑いながら見送っていると、濛々と白く濁った風が無遠慮に目元に飛び込んできた。どこかで火を炊き昼餉でも作っているらしい。無意識に瞼が上下するのがまた愉快だ。

「おい、遅いぞー!こんままじゃ日が暮れたって本丸に帰れやしねぇ。さっさと行くぞ、じーさん!」
「兼さんもせっかちだからなあ。大丈夫ですか?三日月さん」

 声に顔を上げれば、本丸を共に発ったはずの仲間たちがいつの間にか一里ほど離れて先を行っている。おや、と目を丸めていると、身軽な小夜左文字が足音も立てずに駆けてきて三日月の袖先を掴み取った。ぐいぐいと引っ張られるままに足を速める。なるほど、これならばはぐれることも無さそうだ。

「礼を言うぞ、小夜」

 返事はない。この短刀は、見た目こそ先ほど三日月を取り巻いた童子とそう変わらないが、底知れぬ物静かさを抱え他の刀剣と交わることを避けているようだった。しかし少し遅れて宗三左文字が現れてからは、以前より幾らか己の思うところを表すようになった。

「はっはっは、そうかそうか。兄が恋しいか。あいわかった。俺も急ごう」

 やはり返事はないが、袖を引く力が一層強くなったのは返事の代わりだろう。あっという間に、三日月に気遣わしげな視線を送りつつ先頭に立つ御手杵と、その後ろでせっかちとは何だと不満げに文句を垂れている和泉守兼定、そしてそれを宥めているのか煽っているのか飄々と躱す堀川国広の三口に追いついた。

「ちょっと早いか?」
「いやいや。目に慣れん物が多くてどうにも目移りしてしまってな。だがこうして小夜が引いてくれれば迷うこともない」
「そうか?じゃ、頼むな。小夜」

 やはり返事はないが、御手杵は気にした様子もなく小夜の頭に手を置き、髪を乱すようにして撫でた。それに顔をしかめつつも、相変わらず三日月の裾は小夜の手中にある。まるで牛車にでもなった気分だ。そうなると小夜は牛だろうか。また己の考えを手前で笑ってしまう。振り返った小夜の、大きな笠越しの不機嫌そうな顔色が随分素直で、これがまたおかしい。

「楽しそうだな」

 横に並んで歩いているのは、小夜よりも寡黙な骨喰藤四郎だ。こうして自分から声をかけてくることは滅多にない。ひとつ、ふたつ、瞬きをして、楽しそうという言葉につい前方の和泉守と堀川に目を遣るが、あっちじゃないとすぐさま否定される。それにしても言葉の応酬がよくあんなにも調子良く続くものだ。

「俺のことか?」
「それ以外に誰が居る」

 誰が居る、と問われるとどうしても視線が前方に戻ってしまう。今朝、和泉守と同じ部隊に組み入れるよう、堀川が審神者へ直談判しているところにたまたま出くわした。曰く、堀川は和泉守の助手なので、できる限り共に行動しなければならない。離れて任務を行う兵略ならば納得できるが、今回もそうなのか、というようなことを鬼気迫る様子で尋ねていた。結局はこうして同じ部隊で和泉守と並んでいるのだから、願うところ叶って愉快に違いない。

「俺は少しも楽しくない」

 それは三日月にとって思いもしない言葉であった。そのため、すぐには何を言われたのか分からず、前方をじっと見据える横顔をぼうっと眺めることしかできない。火炊きの煙と土埃に白く煙る風がその刀身のように美しい白金の髪をふわりと掬い上げている。大きく円らな瞳も小ぶりな鼻も柔らかに形造られているはずだが、きゅっと引き結ばれた小さな口元が意思の固さを感じさせた。

「こんなところに連れて来ても……俺の記憶は戻らない。この遠征には前にも行った」

 本来、骨喰はこの遠征の部隊に編成されていたわけではない。堀川の熱心な申し出に折れた審神者に、ならば自分もと薬研と骨喰の交替を頼んだのは他ならぬ三日月だ。三日月までそのようなことを言い出すとは思いもしなかったのか、はたまた目前で堀川の願いを聞き届けた手前、無碍にもできなかったか。審神者は思いの外あっさりとそれを許した。

「ふむ、なるほど」
「落胆したか」
「いや、そもそも俺はそんなつもりなどなかったのだ、骨喰よ。だがすまなかった。お前をそのように思い悩ますとは」

 考えてみればなるほど、この時代は骨喰にも縁ある記憶のひとつだ。審神者もそれを知っており、失った記憶を気にかける骨喰のためをと思って三日月の願いをあっさり聞き届けたのかもしれない。

「今朝は薬研が身支度を手伝ってくれてな。その礼のつもりだったんだが……」
「……礼?」

 しかし三日月が交替を申し出たのは、堀川を見ていて薬研のことが頭をふっとよぎったためだ。実のところその代わりとなる刀剣は誰でもよく、骨喰である必要は無かった。しかし咄嗟に骨喰の名が口を突いて出ていたのは、遠い昔の付き合いが三日月の柄巻に滲んでいるためかもしれない。新しい友として迎えることを話した後だ、そういう意味では三日月にも咎がある。もう一度詫びるが、骨喰は怪訝げに眉根を寄せるのみだ。

「よく分からない。だが、これが薬研のためになるのか」
「俺はそう思ったが、どうだろうなあ。じじいの余計な世話かもしれん」

 言って、今朝のように呆れを隠さない顔色をしてみせる薬研のことを思い浮かべた。これが我ながらなかなかの出来で、喉がくつくつと鳴った。

「三日月宗近」
「うん?」
「自分で言ったことを自分で笑うのは、年寄りの証拠だ」

 骨喰たちほどではないにせよ、長い時を渡るとどうにも思い出せぬことが増えるのは三日月も同じだ。だがそれがふとした一時に、晩冬の中に梅が開くのを見つけるように、鮮やかに蘇ることがある。随分大所帯だった豊臣の元で、冗談ともつかぬいつもの様子でぼそりと呟かれたことをぱっと思い出す。

「骨喰。川は東へ流れるものだ」

 骨喰は三日月が何を言っているのか分からないのだろう。初めて隣を歩く三日月をまともに振り返り、目を上げた。懊悩を抱えていても死ぬことの無い瞳が、あの頃と同じ陽の光を受けて輝いている。

「唐つ国では山が西にあり、川はみな東に流れているものらしい。永劫変わらん世の理のことをそう言うと聞いた」
「……それがどうした」

 誰に聞いたかはやはり思い出せない。かつての主が三日月を横につけて聞いたか語ったか。あるいはどこぞの宝物が蔵の中で暇潰しに三日月に語ったのかもしれない。

「俺はお前を一目見て骨喰と分かった。日が東から昇り、西に沈むように分かった」

 呆けたように表情をわずかに解く骨喰は三日月の記憶の中でも珍しいものだ。もう少しよく見ておきたかったが、足を止めてしまった骨喰に合わせてその場に留まろうとすると、小夜にぐいぐいと袖を引かれるので已む無く数歩先を行く。すぐに後へ続く骨喰の足音を耳が拾った。

「なに、じじいになれば忘れる気楽さもある。骨喰も時期に分かるさ」
「……年寄りはみんなそうなのか?」
「はっはっは、さあてなあ、俺ほどのじじいはそう居らんからなあ」

「おお、ここに居たか」
「ん?ああ、三日月か」

 御手杵の統率と小夜のおかげで早めに本丸に戻ったが、それでも本丸はどこもかしこも薄く茜色で色づいている。縁側にゆったりと腰掛けている眼下の鶯色の髪と白い面も、夕日の中ではいつもと違った美しさが見えた。しかしその美しさを鼻にもかけぬ様子で、鶯丸は三日月を認め気さくに笑みを浮かべる。

「今日も出撃か?俺が大包平なら張り合って悔しがっただろうなあ」
「遠征だ。楽しかったが、少し疲れる。俺としては代わってほしいぐらいだが……」
「それはそれで悔しがるのが目に浮かぶな」

 鶯丸はまだこの本丸に顕現する様子の無い兄弟を笑いつつ、三日月に手のひらを開いて見せた。隣に座しても構わないということだろう。よいしょ、と思わず声を漏らし遠慮なく隣に腰を下ろす。

「茶でも飲むか?」
「うん。そのつもりで来た。ほれ」

 夕飯の準備で忙しい台盤所で歌仙兼定に追い出されるようにして押し付けられた湯のみを差し出す。どんなに忙しなくとも風雅を忘れることはない様子で、紺瑠璃の上に山吹が滲むような釉がなんとも美しい器だ。鶯丸も嬉しそうにこれはこれはと呟いてそれを受け取った。鶯丸が手ずから急須を傾け注いでくれた茶を受け取る。すっかりぬるくなっているようだが、色も味も遠征での疲れに染み入るようだ。

 朝陽がよろずの物の輪郭に光を与えるなら、夕日は照らすもの全てに影を与える。赤、紅、緋色に臙脂と濃淡を使い分けながら、刻一刻とその色を濃く重ね宵闇に近づいていくのが分かる。ふわりと髪の毛先を弄ぶ風は凛と透き通って涼しい。

「どうしたんだ?俺を探していたようだが」

 しばらくは二口とも言葉を交わさずただ茶を啜っていたが、鶯丸がふと思い出したように呟いた。おお、そう言えばそうだったと膝を打つ。湯のみを脇に置いて体の向きを少し変えた。辺りが薄暗くなり始め、鶯丸の目元や頬に落ちる影が少し濃くなっている。

「いやなに、大したことではないんだが、ここで俺ほどのじじいと言うとお前くらいしか思いつかなかったのでな」
「じじいか、まあ間違いではないかな」

 面食らったようにしながらも声を上げずに笑う鶯丸に、三日月もつられて笑う。昼間の遠征で骨喰と話したことを掻い摘んで語って聞かせる。骨喰に年寄りは皆そうか、と問われたことが気になったわけでもないが、三日月と同じく長い時をその身に重ねてきた鶯丸の考えに興味があった。

「忘れる気楽さか……」
「そのように考えることはないか」
「そうだな……俺は少し違うかもしれんな」

 鶯色のざらりとした肌の湯のみを両手で持ち上げ、鶯丸は思案するように目を伏せる。急ぐ問いでもなし、三日月はゆったりと鶯丸の言葉の続きを待った。

「長い時を経てここに来て、大包平のことばかり思い返す。俺にとってどうでもいいことは俺も知らないうちにとっとと忘れているらしい」
「どうでもいいこと、か」
「これだけ長い時を過ごしたんだ。持てる物も限られてくると思わないか。自然とそうなったわけではなく、自ずから大事なものを残して、後は捨てているのかもしれん……まあ、三日月が俺と違うというのは納得できる話だな」

 言った後で、それが思いの外自分でも得心のいくものだったのか、鶯丸はひとつ頷いて茶を啜った。しかし、鶯丸の言葉を未だ噛み砕くことができない三日月の顔に気づき、湯のみを膝元まで下ろし小さく笑う。

「何をするにも楽しそうだ。捨てるものを選ぼうにも選べんのだろうさ。見ているとまるで打たれたばかりの刀かと思う」

 三日月は思わず目を丸めた。瞳にあるという打除けの月もさぞかしきゅっと細くなっていることだろう。それを髪色と同じく鶯色の瞳が悪びれもせず笑みのまま覗き込んでくる。

「怒らせたか」
「いや……ここまで生きてそんなことを言われるとは夢にも思わなかった」
「俺も天下五剣の一振にこんなことを言う日が来ようとは思わなかったさ」
「はっはっは、やあ愉快だ」

 我慢できずに肩を揺らして笑う。鶯丸もそれを愉快げな笑みで見つめていた。その背後では天道が空の端で最期の輝きを燃やしている。今日も陽は昇り、また沈み、川は東へ流れ、三日月は笑っている。

 戦装束を解くのも程々に、三日月は自室の障子を開け放ち夜の庭を眺めていた。外した手甲を弄びながら、月明かりに濡れる艶やかな庭を楽しむ。どこかから他の刀剣たちの気配がするのも、朝と違ってまた趣がある。

「なにやってんだ。じいさん」

 今朝も聞いた言葉だったが、その言葉には既に笑みが含まれており、問いでありながら訝しげな様子はない。三日月も浮かべていた笑みをそのままゆるりと上げた。

「うん。薬研を待っていた」

 いつものように世話を焼いてくれようとする短刀たちに、今日は構わないと言ってはみたものの、いざ一人になると装束を解くのも億劫になってしまった。

「俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「このまま庭を眺めて朝を待ったさ」

 眠たくなればその時に装束を解けば良く、眠くならなければそのまま朝を待ってもいい。何となく薬研が訪ねてくる予感もあり、そのままでいた。てっきりまた呆れた顔色をするものだと思っていたが、薬研は堪えられないようにふっと息を吐き出して小さく笑う。

「余計な世話ではなかったか」
「そうでもない。が、礼を言う気もない」
「そうか」
「そうだ」

 風呂にはとっとと入っとけ、と栴檀板の組紐に手がかけられる。その兄弟たちに接するような口ぶりが、鶯丸の言葉を思い返させ笑みが込み上げる。動くなと制されながらも、手早く武装を解く薬研は今度こそ呆れたように呟いた。あんたは本当に、いつも楽しそうだな。

 蔵守や学芸員の手で気まぐれに光を浴び、時の流れを待つ日々も思い返せば悪くはなかった。だが、今のように誰の目にも分かるおかしみを毎日に感じていたかどうかは分からない。

「ああ、薬研。俺はどうやら、この毎日が随分と楽しいらしい」

 何せ俺は、打たれたばかりだ。口に出すと一層愉快で、また笑みがこぼれた。

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