文字数: 9,314

髪如雪



「おや」

 声をかけられたのは、未だ慣れぬ人の身に戸惑いつつ、「本丸」の庭を散策しそろそろ屋敷に戻ろうかという時だった。のんびりとした伸びやかな声は濡れ縁に腰掛ける一口のものだ。名を今宵の空に浮かぶものと同じくする、天下五剣の一振。先日、出陣に備える部隊へ慌しく挨拶を交わしたが、その隊長でもあった。世に聞くその名と、どことなく月夜を連想させる容姿が、難なく胸の内で結びついていた。

「新しい刀だったな。付き合え」

 持ち上げられたのは徳利だ。いつもは岩融とやるんだが、と続けつつ杯を差し出される。一期が断ることなどまるで思ってもいないような態度だ。だが、気分を害すほどの傲慢さも感じず、断る理由も見つからず、一期は男の隣にすとんと腰を下ろした。注がれる酒を素直に受け取る。躊躇わずに口を付け、かっと喉が熱くなる感覚に驚いて咳き込んだが、男は慌てる様子もない。俺もそうだったなどと笑いつつ一応は一期の背をさすってくれている。かつての主たちはこの酒というものを皆好んで飲んでいたように思うが、何かの間違いだろうか。まだらに焼け落ちた記憶に思いを馳せた。

「お強いですな。そのように杯を空けるとは」
「うん。この酔いというものがなかなか面白くてな。人が好む理由がよく分かった」
「ただ、何でも過ぎれば毒です。酒で身代を崩した話は尽きません」
「そう言うな。今は飲みたい気分とやらだ」

 舐める程度にちびちびと口を付ける内に、多少は刺激にも慣れてきた。だがこれを美味いと思うまでには随分と時を要しそうだ。隣の男はそんな一期に構わず、片膝を立て、三日月を愛でながらのんびりと杯を傾けている。弟であれば叱り飛ばすような所作でも、そのひとつひとつがゆるやかで、えも言われぬ品を感じる。盗み見るようにしてそれを眺めては無礼かと目を逸らし、酒に口をつけ顔をしかめ、と我ながら滑稽な挙動を数度繰り返す。言葉は無い。それが酒の味以上に不味い。

「弟たちは、」
「は……」
「随分喜んだろう」

 しかしその均衡はふと崩れた。月を眺めたまま男が気まぐれに口を開いたからだ。焼け落ち、再刃され、己のこともおぼつかぬ一期だが、兄弟たちのことは却ってはっきりと覚えがあった。兄弟たちも同じようで、皆一期の顕現を喜んでくれている。一斉に話そうとするのを押し留めながらこちらでの生活についてあれこれ聞く中に、この男に良くしてもらっていると何度か耳にしたことを思い出す。

「愚弟たちがお世話になっているようで……」
「はっはっは、世話になっているのは俺のほうだな。よくできた兄弟だ」

 兄弟たちの話をきっかけに、途切れがちだった会話が一言、二言と続くようになった。酒の力もあったのかもしれない。相変わらず一期は舐める程度だが。兄弟たちの話から再刃されてからの身の上話、その際縁のあった刀たちとの再会や審神者との会話などに話題が移り、今はつい先ほどまで出かけていた散策の話に落ち着いている。考えてみれば、稀に見る名刀と肩を並べのどかに庭の様子について語らうというのもおかしな話である。

「そう言えば池の奥のほうで鈴蘭が咲いているのを見かけましたな」
「ほう、鈴蘭か」
「ええ。弟たちに教えてやろうと思っております」

 皐月の夜風には怜悧さの中にも蒼い草木の息吹がある。一陣吹いた風に目を細め、ふと隣に目を遣った。すると、月を愛でているとばかり思った瞳がひたと一期に向けられていることに初めて気づく。細い月明かりが茫洋と照らすのは、どこか呆れたようにも慈しむようにも見える不思議な笑みだ。戸惑ってそれを見つめ返している内に気づく――瞳の中にももうふたつ、三日月がある。

「なに、お前らしいと思ってな」
「つい、また……弟たちのことを。お恥ずかしい」

 不躾に見つめてしまってはいけないと思うのに、その笑みを、その瞳をじっと凝視したまま動けない。相変わらず、という言葉が胸の内に湧き出て戸惑う。相変わらずも何も、出会ってたったの数日だ。焼け落ちる前に既知の仲だった刀も当然あるとは思っていたが、兄弟たちや他の刀剣、当の本人ですらそんな素振りを見せていないのだから、そのはずもないだろう。何より、この刀と親しくしている自分というものがどうにも想像できないでいた。

「どうした?」
「……いえ」

 気遣いに柔らかく砕かれた声音を聞き、ごまかすように手元の杯に目を移す。未だ尽きない透明な水面にゆらゆらと月が揺れた。ひとつ意気込んで杯を傾け、舌や喉にぴりぴりと伝播する痺れに顔をしかめた。また笑われるだろうか、と隣の男に視線を送ったが、顔色を見る前に男はさっと立ち上がっていた。

「鈴蘭が見たい」
「えっ」
「お前の弟たちには悪いが、一足先に見せてくれ」

 はあ、と思わず気の抜けるような声が出る。それを返事と取ったか、そもそも聞いていないのか、男はもう縁側を降りて庭を歩き出している。慌てて後を追うと少しよろけた。なるほど、頭の奥がぼうっと滲むこの感覚が酩酊らしい。ひとつ首を振って意識をしっかりと保つ。今度はまっすぐに足を踏み出した。飲んだ酒の量が違うはずだが、前を行く男もしっかりとした足取りに見える。

 池の奥としか伝えなかったはずだが、男の足に迷いはない。その肩に追いつくために、一期は少し小走りにならなければならなかった。どんな顔色をしているのかと思えば、少し見上げた先にあるそれはやはり笑みだ。月夜に染まるその青白い頬をふっと小さな光が照らしていく。草をがさがさと踏み分ける度に、ちらちらと曲線を描いて光が舞った。

「蛍か」

 独り言に返事は無かった。元より期待していたわけではないが、再び舞い戻った沈黙をどう埋めていいか分からずひたすら歩く。池を半周ほどして朱色の太鼓橋を過ぎた辺りで立ち止まった。橋の袂に鈴蘭の花が大きな葉に隠れるようにひっそりと連なっている。

 男は笑みのまま、しゃがみ込むこともせず、鈴蘭のように頭を垂れてそれをじっと眺めている。その周りを絶えず蛍が行き交い、長い前髪のかかる横顔をぱっと照らしたかと思えばたちまち宵闇にぼかしてしまう。

「すまんが」
「……はい」

 返事が遅れたのは男が微動だにしないまま呟きを発したからだった。その刀身に見合った端正さを持つ男が蛍に照らされ鈴蘭を眺めていると、よく描けた姿絵でも見ている錯覚に陥る。

「名を呼んでくれるか」

 男がふと顔を上げた。金糸の頭飾りも一緒になって揺れる。ちらちらと蛍の光がその面を照らした。やはり笑顔なのだが、途方に暮れたような目をしているように思えた。思わず足を一歩踏み出しその瞳を覗き込む。

「お前ほどの刀に、他と同じように忘れられては……堪らない」

 一期にも己という刀に対する誇りや自負はある。むしろ人よりも強いくらいではないかと思う時すらある。だが「新しい刀」と呼び止めるような男に突然下された評価に居心地の悪さを感じた。それから、矜持を多少くすぐられたような気分にもなる。

「身に余るお言葉……ですが、私の名もお呼びください。そうでなければ、呼べません」

 男はひとつ、ふたつ、ぱちぱちと長い睫毛を上下させた。その表情を何故だかもどかしく思う。焦燥のような安堵のような、どこかで覚えたような感覚が胸を激しく往来するのだが、それを確実に掴み上げることができないのだ。

「一期一振」

 男は何か、壊れものでも扱うかのようにそっと一期の名をなぞった。人の身として得たばかりの心の臓を柔らかく撫でられているようなこそばゆい心地がする。表情に困って、勝手に浮かぶ笑みのまま一期も口を開き、その名をなぞる。

「はい、三日月宗近」

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。