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雨の掛け布



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8143395

 さあさあと柔らかい音は、衣擦れの音に少し似ていると一期は思う。

 早朝からずっと雨が続いている。肌の上に薄い布を幾重か重ねているように、湿った空気が屋敷の中にも外にも漂った。刀剣たちが所狭しと集う本丸は、雨が降ると少し普段の賑やかさを失う感がある。出陣や遠征で部隊が出払うと余計にそれを感じた。さあさあと細い雨音の向こうからわずかに、道場の手合わせの掛け声がえい、やあ、と遠く聞こえる。

 風に身を捻った雨が濡れ縁の半分ほどを文字通りしっとりと濡らしているようだ。後で弟たちに充分注意して歩くように言い聞かせようと決める。見上げた空は鈍色の重たげな雲が敷き詰められており、しばらく雨がやむ気配はない。しばらくは雨が続く、弟たちが悲鳴をあげて嘆きそうな事実を、一期は口の中でもう一度噛み締めた。そうしていなければ頬が緩んでしまいそうだ。

 湿った空気の中をそっと進んでいく。縁側には誰もいない。庭にも誰の姿も見えない。それを狙って中の廊下を使っていないのだから、そうでなくては困る。知らず雨の針がいくらか転がってきていたのか、足元に湿った感触を覚えた頃、ようやく目的の部屋の前に辿り着いた。右を見て、左を覗い、後ろを確認する。何の気配もない。それならもう、この表情を緩めてしまってもいいだろうと思うのに、何度訪ねてもこの部屋の前で背筋をピンと張り早い鼓動を抱えている自分に気づく。思わず苦笑が浮かんでしまった――しょうがないな。相手が悪い。

「三日月殿」

 雨の音に紛れるように名を囁いた。聞こえていない不安は最早覚えない。すぐに障子が細く開いて、低い位置から手招きが出てきた。それからズボンの裾をくいと引かれる。子供のような行いがおかしく、ふっと笑みが漏れ出た。それを手のひらで抑えながらするりと身を部屋に滑り込ませ障子を静かに閉じる。パタ、と小さな音が雨音をほんの少し遠くした。

「失礼、しております」

 もう部屋には入ってしまったからと思うと、妙な言い回しになった。障子のすぐ側に文机を置いて座っていたらしい部屋の主は、普段の伸びやかな笑いを潜めてくっくっと喉を鳴らして笑う。その普段にはあまり見せない静かな笑いが小雨のように一期の胸の奥を柔らかく弾いていく。

「うん、失礼された」

 文机に肘をついて書を読んでいたらしい。だらしのない格好だが、それが却って美しく見えるというのは稀有なものだ。一期もその正面に腰を下ろして座る。許可を取らないのは、もう何度もそうして来たからだ。

「雨だな」
「はい。雨ですな」

 文机に肘をついたまま、鈍い色に沈む障子に三日月は目を遣った。一期が目の高さを合わせると、まず三日月はそうやってよそへ視線をやる。それがこの刀なりの照れ隠しだということに気づいた時、一期はどのような顔をしていいか分からなかったものだ。

「弟たちはどうしている?さぞ退屈だろうな」
「朝から嫌だのつまらないだの嘆いていますから少し叱りました。今はそれぞれ本など読み好きに過ごしているようです」
「そうか。俺もあの元気な姿が見えんのは少しつまらん」
「そうですか。私はむしろ、雨の日は気分が弾むようです」

 視線がつ、と一期の元へ戻ってきた。いつもの笑みでもない、戦場で見せるきっとした表情でもない、何の意匠も見えない白い鋼の表情だった。それがゆっくりゆっくり解けて笑みになる様は、薄暗い雨の昼間の中にあっても澄んだ月夜を思わせる。

「そうだな。俺も、雨の朝は嬉しい」

 さあさあ、雨の音だけがする。そのはずなのに、鼓動の音ばかり耳が拾うのはどうしたことか。三日月に聞こえていないといいが。跳ねる心の臓の動きのこそばゆさに耐え切れず一期は笑みを浮かべた。少しだけ距離を詰め、三日月の目を覗きこんで雨の音を聞く。

 本丸が雨に濡れ、雨に沈む日は、その掛け布に隠れるようにして部屋を訪ねる。そうして一期と三日月は、何かを壊さぬように守るように育てている。

いちみかワンライ「雨」

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