文字数: 20,200

柑橘類 (いちみか・博へしパラレル)



斜陽

※ 博へしメインのいちみか

 もし恋というものが、ある日突然に、それこそ「人間はそのために生まれてきたのだ」と悟るような革命的なものであるとしたら。

 長谷部はそれを、憎まざるをえない。

 教養のためにといやいや手に取り、斜めに読んでいた本を閉ざし、長谷部は深いため息を吐き出した。確かに名著なのかもしれない。だが、少なくと今、この種の悩みに頭を痛めている時に読むのではなかった。始終詩的で薄暗く何か益体もないものに陶酔したような筋書き。ああ、気分が悪い。どうか誤解しないでください主、と長谷部は脳内で高らかに主張する。「この種の悩み」というのは、誓って長谷部が誰かに恋をしたとかされたとかいう浮ついた話ではない。悩みの種は歴史と伝統ある本校の女子剣道部主将、粟田口一期のことだ。

 少し話を遡りたい。長谷部は幼いころ、古武道の道場を営む親戚に引き取られた。そこに至るまでには様々な紆余曲折があったが、今となっては正直どうでもいい。ろくでもない親の話を伝え聞くにつけては、尊敬すべき師に囲まれ鍛えられ真っ当に育ってきた幸運に感謝と恩しか覚えない。ちなみに先ほどの「主」は長谷部がこの世で最も尊敬し、長谷部が身を置く道場を率いている養父のことである。たまにもっと別の呼び方があるだろうと何故か寂しそうに言われるので、これ以上に主への敬愛をうまく表現する呼称を模索している最中だ。ともかく、そういった経緯もあり、長谷部にとって己の剣の腕というものは、まさに己の幸運の証明のようなものだった。しかし高校に上がって早々、この証明は綺麗に叩き折られることになる。

 一期との最初の対峙は、長谷部にとって今でも忘れられない鮮明な記憶だ。面に一本、雷のような一撃。単なる地稽古だというのに、完膚なきまでに「負けた」と思った。その上で、バランスを崩して座り込んだ長谷部へ爽やかな笑みで手を伸ばしたりなどする。何が「驚きました。こんなにお強い方がおられるとは」だ。その手を払ったのは言うまでもない。

 それから長谷部は己を鍛えに鍛えた。もし己が負けたままであれば、それは主の名をも汚すことになりかねない。ついに長谷部は一期から二本のうち一本は必ず取るようになったが、ここ一番というところで一期はどこまでも冷徹に、相手を怯ませるほどの執念で必ず勝ちをもぎ取っていく。当然の流れとして、先代の主将が次代に指名したのは一期だった。悔しかった。何より悔しかったのは、副主将に長谷部が指名されたと知るなり、柔らかく相好を崩して漏らした言葉だった。

「良かった、貴女以上に信頼をおけるひとはない」

 その頃には長谷部も、一期がどれだけ己を厳しく律し、どれだけ真摯に剣の道に打ち込んでいるかを重々知っていたので、差し出された手を以前のように払うことができなくなっていることが心底腹立たしかった。一期は厳格だが、必要な時には適度に手を緩め、部員たちをよくまとめている。どの部員も公平に扱い、常に沈着冷静、不満の気配にも敏く衝突の取り成しも見事なものだ。しかし独断で何もかも進めるのではなく、重要な判断には長谷部の意見を必ず加味する。この隙のなさが益々気に食わないところだが、切磋琢磨し一年半、主将・副主将として半年。クラスが同じこともあり、大抵の互いの事情や状況は常に共有している──いえ、あくまで部のためです、主。

 それがだ。
 ちらり、と長谷部が上げた目の先には、ドーナツショップの椅子に腰かける一期の姿がある。付き合いの短い者なら、涼しげな顔で長い足を組み、思索にでも耽っている姿にでも見えるだろう。現に今も多くの者の目を引いているのが見て取れた。その目線の元は老若男女を問わない。頬を染め凝視する顔に老若男女を問わないのもどうかとは思うが、少なくとも今のやつはそんなことなど頓着してもいまい。少々親交を重ねた者から見ればあからさまに、一期はそわそわしていた。店の奥に座った長谷部に微塵も気づいた様子はない。ここ一か月で見慣れた浮かれ顔だ。

 そう、鬼神のごとき強さで男子剣道部にすら怖れられている粟田口一期は──ここ一か月見事に腑抜けている。しかもこの副主将に何の連絡も無しに。

 人の呼びかけに気づかないのは最早数えきれないほどで、止めなければいつまでも素振りを続けている。作りすぎたのでと押し付けてくるレモンの蜂蜜漬けの量が尋常でない。黒髪短髪の女子生徒とすれ違えば不意に振り向いてひとりで照れ笑いしたり、スマートフォンを眺めながらほのかに笑ったり。根性を叩き直してやろうと地稽古をすれば、他の生徒の制止の声も耳に入らない様子で壁際にまで追いつめて来たこともある。ぼうっとしていて、と慌てた様子で謝られたが、そんな腑抜け方があるかと怒鳴りたかった。おかげで今や部員──男子剣道部員含む──で一期と稽古試合を組みたがるものは誰もいない。長谷部じゃなかったら死んでる、という評をどんな顔で受け止めればいいものか。

 ともかく、この状態が長く続いていいわけがない。大会の予選も迫っているのだ。「ぼうっとして」相手校の選手を不必要にいたぶり、反則でも取られようものなら目も当てられない。しかし一期は全くそれらしき事情を打ち明けても来ない。仕方なく長谷部は行動を起こすことにした。つまり、日曜の部活を終え、そわそわと道場を後にした一期の後をつけたのだ。

 実のところ、腑抜けた理由には見当がついている。噂話が大好きな部の連中が姦しく話していた内容をまとめれば、
「これは間違いなく恋」だそうだ。釈然としない顔で珍しく無駄話に付き合った長谷部を興奮気味に取り囲んだ部員たちに小一時間ほど熱く語られたのだから間違いないだろう。正直なところ少し怖いくらいの勢いだった。相手校に審判に見えないところで姑息に挑発された一期よりも鬼気迫るものを感じた。しかし、この「恋」とかいう気味の悪い響きを持つものに対しては、長谷部はずぶの素人である。どうすればいいかと頭を抱えたところ、救いの手を差し出したのも彼女たちだ。大丈夫だよ、長谷部さん。相手をそれとなく聞き出して、あとは私たちに任せて──獅子身中の虫、これを知らない長谷部は不幸である。弁護しておくと、一期も長谷部も部員たちからは熱く──熱すぎるほど、なかば少年アイドルのように慕われている。

 「相手をそれとなく聞き出す」、そんな回りくどいことを長谷部はしない(後をつけるのは回りくどくないのかなどと聞いてはならない)。とにかく相手を確認し、不埒な輩であればその場で成敗、そうでなければ持ち帰って検討だ。何をするでもなく、コーヒーの液面を眺めたり窓の外を眺めたり、ゆったりとした所作で器用に浮ついていた一期がぴくりと背筋を伸ばした。卓上のスマートフォンを飛びつくように手にし、画面を確認した途端に花開くような笑みを浮かべる。周囲のざわつきなど気にしない様子でトレーを取って立ち上がった。移動するつもりらしい。長谷部も立ち上がろうとして──ぱしりとその腕を誰かが掴んだ。

「もちょっと待っとき」

 最初に目に飛び込んできたのは、赤縁眼鏡の奥にあり爛々と輝く藍色の瞳だ。それからふわふわと綿毛のように柔らかそうな髪。いつの間にか正面の椅子に腰かけていたらしい。一期の観察に集中するあまり気が付かなかったのか。不覚だ。

「センパイ、目立つけん」

 「先輩」、その言葉に眉根を寄せたが、すぐに少女の着ているセーラー服の胸元に長谷部の胸にもある校章を見つけた。違うのはリボンの色だけだ。長谷部たちの通う学校は大学附属の中高一貫校で、制服のデザインはほとんど変わらず、中等部は白、高等部は紺、とリボンの色だけで区別がある。

「おれ?おれは博多!」
「……どうでもいい。離せ」

 うっかり突然の闖入者をまじまじ眺めてしまった。そんな場合ではないのだ。早くしなければ一期を見失ってしまう。しかし小柄な少女の小さな手の平は、そう強い力が籠っているとも思えないのにぴったりと長谷部の腕から離れない。

「そろそろよか。いこ」

 立ち上がった少女は長谷部の目の前にあるトレーを片手でさっと取り上げて、ぐいぐいと長谷部を引っ張っていく。こらだの、待てだのという長谷部の言葉はまるで耳に入っていない様子だ。臙脂色のジャージに包まれた足が紺色のプリーツの下で忙しなく回っている。「洗練」とか「垢ぬけた」とか、そういった形容詞を逆立ちさせて貼りつけたような後ろ姿だ。

「……中等部の生徒だな」
「おお、どこ中や?ってやつ?」

 耳に馴染みのある訛りは、道場に引き取られることが決まる前まで面倒を見てくれた親戚の住む街で聞いたものだろう。随分良くしてもらったとは思うが、その頃同時多発的に起こった様々なことが脳裏をよぎって素直に思い出す気がしない。顔をしかめて口を噤んだ長谷部をどう思ったのか、少女は小さく苦笑した。

「そんな警戒せんでよかって」

 ドーナツショップを抜け出た瞬間、強い風が吹いて目を細めたが、清く正しい伝統を刻んだプリーツはほんの少し揺れる程度で重い。しかし十数メートル先を足取り軽く行く一期のそれは、不思議と大きく浮き上がって見えた。これは、見知らぬ後輩に見咎められるような行いなのではないか。ふとそんな気がして足が止まった。

「おい、もう手を──」
「早くせんと!追いてかれるばい!」

 しかし少女は、満面の笑みで長谷部を振り返った。尚強い力で腕を引っ張るので、少女が小柄なせいもあり体が前のめりになる。それに困惑と不平を織り交ぜた声を上げれば、へへへと照れ笑いが返る。不思議だった。長谷部の周りにこんな変わったやつはいない。

 黄色い銀杏の葉がひらひらと舞う中、同じような明るい色をした短髪がふわふわ揺れる。腕を掴まれていたはずが、いつの間にか手の平を握られていた。どこか幼さの残る手の平は肌寒い空の下では温かく感じられる。銀杏並木の向こうで姿勢正しく歩く夏空色の頭を追いかけながら、気づけば長谷部はこの少女──博多が、長谷部もそれなりに知る街から越してきた後輩で、同姓の親戚があまりに多いので出身地であだ名されていること、それを面白がった級友たちにも呼称として採用されていることを知ることになった。

 どれほど歩いただろうか。一期は次第に人通りの少ない住宅街へと足を踏み入れていく。時々スマートフォンと通りの名前を突き合わせては立ち止まるので、その度に気配を悟られないように身を隠す必要があった。博多に止められず至近距離を追いかけていたらすぐに見つかっていただろう。その博多は、何が楽しいか電柱や塀の影に隠れる度にくすくす笑っている。静かにしろという意味も込めて柔らかい髪にぽんと手を置くと、またくすくす笑うので扱いが難しい。

 そうこう辟易と尾行の真似事などしている内に、一期はようやく目的地まで辿り着いたようだった。小さな公園の前で足を止めている。一方長谷部はと言えば、博多に引きずられるようにして緑の柵の向こうで身を潜めていた。中腰になれば、柵を超え街路に手を伸ばすように生い茂る低木が丁度良い死角を作ってくれる。しかし、通行人からすれば奇異に映るには違いない。幸い今のところ人影はないが。

「お待たせしてしまいましたか」

 一期は先ほどの早足が嘘のように、ゆっくりと無人の公園に足を踏み入れた。相手は公園の奥にあるベンチに座っているようだ。長谷部たちから見るとやや頬や首筋が窺えるぐらいでほとんど背になってしまっている。一期の視線がこちらに向くか向かないかの微妙な角度だ。

「いいや、早くて驚いたくらいだ。すまんな、急に場所を変えて」

 秋の夜露が草の上をすっと滑っていくような、しっとりと耳に馴染む声。声色は若い女性だ。紅色の頬に白い首筋。艶やかな黒髪は短く、細い首筋に色香すら感じる影を落としている。これか、と思った。何度も一期が足を止め、照れ笑いをひとり漏らした視線の先にあったものは。

「少し、驚きました」

 責めるような言葉だが、そこには一欠けらの冷たさもない。角という角を落としたまるい声だ。たっ、たっとゆっくり一期はベンチに近づく。その正面に伸びる影が一期を先導している。

「お前をどうしてもここに呼びたかった」

 ついにベンチの前に辿り着いた一期は、とろんと蕩けた目でそこに座る人を見つめている。それが分かったのだろうか、女性はくすくす笑いながら一期の片手を取って握った。

「知っていたか?お前の髪には朱が合う。不思議だなあ」

 もう片方の手には紅葉がある。それを掲げ、一期の顔の角度でくるりと廻して見せた。

「うん、うん。やはりきれいだなあ。夕日も紅葉も一期も、みな好きなものばかりだ」

 夕陽を背にした一期の顔には影が下りているが、それでも分かるほどにその頬や耳は赤い。今までどんなに厳しい稽古や試合でも見たことのない表情だった。

「みかづき」

 熱に浮かされたような声で、ふらりともう一歩、一期はベンチへ近づいて紅葉を持つ手を取った。そして紅葉ごとその白く長い指先に頬を摺り寄せて、何かを言いたげに目を伏せる。

「……その、」
「おいで」

 それだけでベンチの人は一期の望むものを探り当てたらしい。両手を軽く広げて見せると、一期は意を決したような表情でその首にゆっくりと腕を回す。

「一期はかわいいなあ」
「……そんなこと」
「許しを請わなくていい。お前ならなんでも」

 中腰になってぎゅっと「みかづき」を抱きしめる一期「らしき」女と、万一にも目線が合ったらと思うと恐ろしかった。自分でも分かるほどに青ざめ、その場にしゃがみ込んだ。今、長谷部は確かに動揺している。あんな姿は本当に、一度だって見たことはない。いつだって一期は、剣道に真摯で、鋭く、憎たらしいほど何にもそつがなく──

「取られるとさみしかね」

 どきり、と大きく心臓が跳ねて動揺が深まる。あまりの映像に、すぐ隣の手の中にある熱のことを忘れていた。勢い良く首を回せば、じっと覗き込む藍色の目がある。

「ともだち」

 友達?

 そんな無駄なもの、人生で一度も必要と思ったことはない。長谷部の人生にあるのは救世「主」ただひとりだけだ。大体、友達の数で強さが決まるならまだしも、そうでないなら何の意味があるのか。食べる寝る学ぶ、それ以外の全てを鍛錬に捧げてきた。──粟田口一期もそうだった。誰よりも早く誰よりも遅くまで道場に居て、腕が上がらなくなるまで打ち合ってきた。長谷部に追いつくどころか凌駕さえする存在は、これまで身近にいたことはない。

「っお前に何が」
「分からんよ」

 夕陽が染める丸い頬も、大きな瞳も、先ほどとまるで同じ幼く無邪気だ。だが、そこにある笑みは不思議と大人びていてたじろぐ。三つ四つは離れているだろう後輩のはずなのだ。

「なんも分かっとらんけん、だいじょぶたい」

 小さな手の平が伸びて、先ほど長谷部がそうしたよりも優しく頭に載せられ、柔らかく髪を抑えられている。撫でられている、と気づくのに随分時間がかかった。かっと顔に血が昇るのが恥なのか怒りなのか分からず動転する。

「いこ?かえろ」

 へへ、笑みはまた無邪気なものに戻り、腰を低くしたまま公園から離れ引きずられるように夕暮れを駆ける。

 もし恋というものが、ある日突然に、あんな風な蕩けた声や目を作るものだとしたら。長谷部はそれを気味悪く怖れるほかない。だがこの胸にマッチの火のように灯る熱は何と呼べばいいものか。革命的な何かである可能性に長谷部は怖れと、少しの好奇心を抱いている。

 珍しく部活動からまっすぐ道場へ向かわなかったわけを誰かに、主に気にかけられるだろうか。そうでなければいいと思った。もしかすると長谷部はこれまで人間ではなかったのだろうか?「他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの」を初めて持ちたいと思っている。

(2018-09-17)

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