文字数: 20,200

柑橘類 (いちみか・博へしパラレル)



点と線

※ モブ中年男性視点

 ブレンドコーヒーの載ったトレーを背の低いテーブルにそっと置いた。一人掛けのソファにどさりと腰かけ、小脇に挟んでいた文庫本を開く。手芸が趣味の妻が手作りしたブックカバーの下にあるのは『点と線』だ。可愛らしい花柄やレースにまるでそぐわないが、ブックカバーに合わせて本を選ぶなど馬鹿馬鹿しいことだ。週末も口論になったばかりで、妻を喜ばせるような真似は尚更する気がしない。学生の頃貪るように読んだ松本清張が再び読みたくなって選集をまとめて購入したのがよっぽど気に入らなかったらしい。場所を取るとか、古本屋にもあったでしょうとか、読んだ本をリビングに放らないでだとか――はあ、知らず溜め息が漏れた。五十の大台に乗ったような男が、物のひとつも好きに買えないものなのか。だとしたら人生の何十倍も『点と線』のほうが面白いというものだ。

 残業も無いというのにまっすぐ家に帰らずこんなところで暇を潰そうとしているのも、そういった事情からだ。とっくの昔に諍いの熱は冷めきっているが、仕事で疲弊した体にはその温度があまりに冷たい。大学生の末の娘がアルバイトから帰る頃に帰宅して、夕飯のご相伴に預かってどさくさに紛れて寝てしまう、これがこの数十年で見出した喧嘩後一週間の最適解だった。

 ぺらり、愚痴っぽい思考を頭から引き剥がしてページを繰る。物語に没入しようとしたが、ページの先にふと人の気配を感じてちらりと目だけを上げた。

 すぐ真横のテーブルに紺色の細い腕がすっと伸びてトレーが置かれた。汗をかくグラスにはオレンジジュースが満たされていて、四角い氷が歪に積まれているのが透けている。その横にはクリームのたっぷり載ったイチゴショートケーキが鎮座していた。すとんと重みを感じさせない軽い音で対角線上のソファに腰かけたのはセーラー服姿の少女だった。それも相当に美しい。

 早朝の晴天を浸して染めたような空色の髪は細い顔の輪郭に揃えて短く整えられている。細く形の良い眉や通った鼻筋には涼しさがあり、陽に透かした琥珀のように輝く瞳が嵌め込まれた目元や、柔らかく閉じられた薄い唇には優しい印象を覚える。細身な体躯だが、ピンと伸びた姿勢や膝丈のスカートから伸びる白い脚には弱々しさを感じない。それらのアンバランスが目の離せない魅力を少女に紗のように纏わせていた。

 少女が身じろぎし、スマートフォンを取り出したところで慌てて視線を一行目に戻す。露骨に首を上げて見つめていたわけではないから、少女は視線に気づいていなかったものと信じたい。最近の世の中は中年男性に厳しいのだ。少しでも不審な動きをして彼女が不快に感じようものなら、残りの半生を痴漢や変態といった汚名を背負って過ごさなければいけなくなる。しかし何も対角線上に座らなくても良いだろうに。多くの客はテーブルを挟んで壁際の席に腰かけているが、少女は迷わず壁に向かい合う席に腰かけた。これでは嫌でも視界に入ってしまう。おじさんにだって言い分はあるのだ。

 無理に意識を本に戻して20ページほど進み、ようやく話の情景が懐かしい記憶と共に脳裏に描かれ始めたところで、また人の気配がした。いや、初めに感じたのは鼻先を掠めた春先の花のような匂いだ。ふわりとそれが薫って、その心地よさに目を上げて動きを封じられたというのが正しい。座っている美少女の背後にもう一人、ジャンパースカートと白いシャツという制服姿の少女が立っていた。これもまた相当に美しい。

「やあ、待たせたか」

 伸びやかで艶のある声。小首を傾げると宵闇から紡ぎ出したような髪がさらさらと揺れた。こちらも短髪だが片頬にだけ長く横髪がかかっていて、それが危うい色香を作っている。少女は空色の少女の肩に両手を置いてにっこりと微笑んだ。古来から人間は曲線に美と神秘を覚えてきた――というのはどこの本で読んだのだったか。長い睫と薄紅の唇が作る微笑みは非の打ちどころのない美を描いている。

「いちご」

 いちご、唐突にケーキの上に鎮座するそれを認めたのかと一瞬勘違いしたが、恐らくそれは空色の少女の名だ。凛とした涼しさに見合わぬ随分可愛らしい名だが、これは世代差というものなのだろう。時折娘ももう少し可愛い名前もあったでしょうに、だなんて親の心子知らずなことを言う。

「さん、じょうさん……その御髪は……」
「こら」

 何に驚いているのか、首を上げたまま身を固めている空色の少女の薄い唇に、夜色の少女は咎めるように人差し指を当てた。ぱっと空色の少女の頬に朱が刷かれる。見ている方まで気恥ずかしくなるような初心な反応だったが、何故だか吸い寄せられたように目が離せなかった。

「みかづき、と呼んでくれと言わなかったか?おまえにはそう呼ばれたい」

 みかづき、三日月か。珍しい名ではあるがなるほどこの少女の姿を体現しているように思われた。空色の少女はもごもごと何かを口の中で何かを咀嚼し、潤んだ瞳で途方に暮れたように夜色の少女を見上げている。頬も耳の先もかわいそうなくらいに赤いのだが、夜色の少女は無邪気な微笑みをわずかに傾げ、その名を呼ばれるのを行儀よく待っている。

「み、三日月……」
「うん」

 喜色が波のように笑みに浮かび、周囲の空気さえ華やいでいるように見える。美しさも過ぎればここまで猛威になるものか。「傾国の美姫」などという言葉があるが、どうやらそれは悠久の生んだ幻想などではないらしい。同じようにその笑みに見惚れていた空色の少女は、はっと何かに気付いて立ち上がった。目をぱちりくりと丸める夜色の少女の両腕を取りその美しい面を覗き込んでいる。

「何かありましたか」
「何か?」
「ええ、その髪……あんなに美しく伸ばしていたのに」

 ひどく惜しむような声音と顔色で、空色の少女はその涼しげな首筋に手を伸ばし、触れるか触れないかのところで白い指先をこわごわと彷徨わせている。少しからかうような色で夜色の少女はそれの手に己の手を重ねた。それをそのまま頬に撫でつけさせたもので、かわいそうに空色の少女は大げさに体を跳ねさせている。

「似合わないか?」
「いえ!いえ、そんな……まさか。あなたはどう在っても美しくて……いえ、だめですな、私にはあなたの美しさを正しく描く才がない……ただ、あなたにもし何か辛いことがあって、それが誰かにもたらされたものなら、そうだとしたら、私は」
「いちご」

 どこか真夏の太陽の熱にでも浮かされたような声音が、次第に冬の夜の温度のように涼しく冴え始める。空調が適度に調節している室内に何故か肌寒さを感じたところで、夜色の少女が何も気負わぬ様子で頬に触れさせていないほうの手を伸ばした。ゆるやかで優しい仕草で空色の少女の頭を撫で、また美しい曲線で微笑む。

「揃いにしたかった」
「え?」
「おまえと」

 これ以上は赤くなるまいと思っていた空色の少女の頬は最早熟れた林檎の如きだ。ぐるぐると目線を彷徨わせた挙句にばっと体を伸ばし直立不動の姿勢を取ったかと思うと、己の学生鞄を勢いよく持ち上げた。

「まっちゃ」
「うん?」
「抹茶!いつもの、フラペチーノでよろしいですか!?すぐにお持ちします」
「うん、よく分からんからおまえに任せる。だが……今日は少し肌寒い。暖かいものが飲みたいな」
「ラテですね!分かりました!しかと!」

 流れるような仕草で鞄から校章の入ったカーディガンを取り出し、夜色の少女の肩に優しくかけてから、きびきびとした身のこなしで空色の少女はレジへと歩き去っていく。それを見送る少女の肩は小さく揺れていた。くすくす、くすくす、呼気が漏れる度花弁が舞うように笑う。

「かわいい」

 音もなく先ほどまで空色の少女が座っていたソファにふわりと腰かける様は妙に大人びている。伏せられた瞳は不思議な色味だ。無理に例えるなら黎明の空だろうか。ちらちらと何かがその底で光っている。一瞬で人の目を惹きつける何かが、姿のひとつひとつに宿っていた。最早本の内容など何ひとつ頭には残っていない。わざとらしくページを繰って、その角から少女の一挙動を追ってしまう。少女が湿ったグラスの中でオレンジジュースをかき混ぜる、なんてことない所作をただじっと。

「おお、はやいな」
「どうぞ奥へ」
「いいや、大切な相手と話す時は奥へ通すほうが慣れていてな」

 言葉通りすぐに戻ってきた空色の少女は、己の座っていた席が陣取られていることに戸惑っているらしかった。しかし、夜色の少女の言葉にまた顔を赤くして、ついにはふらふらと奥のソファ――こちらの隣へと腰を下ろしてしまった。それにしても夜色の少女には言動の端々に年相応の娘らしくないものがある。着ている制服も都内の名門女子校のものだ。もしかするとどこか名家のお嬢様なのかもしれない。例えばかつての貴族の家の出で――などと考えるのは本の読み過ぎか。ぺらり、ぺらり、ごまかすように進んでいたページを記憶を頼りに戻していく。

「待たせてすまんな」
「えっ、いえ。私も来たばかりでしたから」
「氷が溶けている」
「あ、」

 つ、とストローに口をつけて、夜色の少女はトレーにそれを戻した。少し眉尻を下げた微笑みに、空色の少女は膝の上で拳を握り、気まずそうに身じろぎをしている。最後にはピンと伸びていた背筋を丸め赤い顔を伏せてしまったようだ。首を巡らせるわけにもいかないので気配だけでそれを予想する。

「気に病まんでください。私がただ、貴方を待つ時間を楽しみたくて……」

 きょとんと大きな瞳を丸めた後、夜色の少女はまた夜桜がほろほろ散るように笑みをこぼす。そして身を乗り出して俯いている少女の顔を覗き込んでまた笑む。世界中の幸福を集めて煮詰めたようなとろけた笑みだった。もう建前でしかない文庫本を閉じて眺めていたくなるほど、見る者の心さえ溶かす笑みだ。

「やあ、嬉しいな」

 それを真正面から受け止めることになった空色の少女は、また身を固くしたようだ。しばらくそのままの姿勢でいた二人だが、とうとう空色の少女の体が小さく震え始めた。

「いちご?」

 長い睫が上下に開いて、そこに詰め込まれていた幸福が霧散し驚きに変わる。何が起きたのか思わず少しだけ首を動かしてみれば、少女の白くてまろい頬を透明な雫がぽろぽろとなぞっている。思わずこちらもぎょっとしてしまった。しかし夜色の少女は慌てた様子もなくゆっくりと己の学生鞄を開き、浅縹色のハンカチを空色の少女の目元に優しく沿わせた。

「どうした?泣くな。おまえに泣かれるとこちらも悲しくなる。ほら、」

 時折ほんの小さく苦しげに息を詰めながら静かに雫を零す少女の頬を、夜色の少女は甲斐甲斐しく拭っていたが、その内空色の少女がその手を取って己の頬に摺り寄せてしまった。

「あなたを好きな気持ちに際限がなくて、たまらんのです……」

 ぽろぽろとまた雫が落ちる様は何かの絵のようで美しい。それを呆然と眺める少女もまた美しい。ジャズ風の名も知れぬ曲だけが流れる店内はやけに静かだ。この空気を壊さぬよう息を潜めて守る、視線だけの野次馬はどうやら自分だけではないらしい。

「お揃いだな」

 くすり、先ほどまでの大人びた様子を全て脱ぎ落した、無邪気な幼子のような笑みだった。空色の少女もそれを見てくすりと笑った。ほっと溜息を洩らしたのは、やはり自分だけではない。

 その後、少女たちは年に見合った様子でくすくす笑いながらあれこれと会話を楽しんでいた。その心地よい音楽にすっかり酔いしれていたのだが、半分以上を譲られたショートケーキを夜色の少女が平らげたところで、空色の少女がもう遅いですからと立ち上がった。まるで姫をエスコートする騎士のように夜色の少女の手を取り、立たせ、その鞄を持ち上げた。夜色の少女もそれをにこにこと見守っている。そのまま歩き去っていくのだろうか、少しそれを惜しく思っていると、空色の少女がくるりと身を翻した。その場にしゃがみ込んだかと思えば、何かを拾って立ち上がり、すらりと長い脚をごく間近まで伸ばしてくる。

「あの」

 真横に座っていながら、ページの向こうの世界のように二人を眺めていたものだから、その登場人物に声をかけられて驚く。君は夢見がちが過ぎるねと、若手の頃上司に企画書を没にされた記憶がさっと脳裏をよぎった。可愛らしいブックカバーで文庫本を開いていたのがいけない。その角の先に夢幻かと疑うような美少女が二人だけの世界を作っていたのだから仕方がない。中身が例え清張だったとしてもだ。

「落とされていますよ」

 少女の手の中にあるのは白いレシートだ。ぱっと自分のトレーを見て、それが載っていないことにやっと気づく。礼を言って受け取ると、確かにそこにはブレンドと記載されていた。財布を取り出して丁寧にしまい込む。捨ててしまっても良かったが、少ない小遣いをやりくりするために記録を付けている。最近物忘れも多いから、記憶のよすがは多いほうがいい。美少女に声をかけられるという稀有な体験に気分が高揚し、ついついそんなどうでもいいことを話した。妻は倹約家でね。

 そう口にしてふっと思い出す。新婚当初は妻もそんなにしっかりしていなかった。二人であれこれ無駄遣いをして失敗した買い物に苦笑を見合わせたりしていたものだ。いつからか、そうだ、退職後に世界旅行もいいねという話をして――

「可愛らしいブックカバーですな」

 真夏のサイダーのような涼やかな声で空色の少女が言った。これも妻がね、と短く答える。結婚十三年目あたりに記念にともらったものだった。すると殊更に柔らかい笑みが返された。

「貴方が誠実そうな方で良かった。そうでなかったら」

 いちご、不思議そうに名を呼ばれ、少女は一層優しい声ではいただいまと答える。

「では、失礼します」

 そうでなかったら、一体どんな言葉が続いていたのだろうか。先ほど少女が髪を切った理由を訪ねた時に見せた冷たい琥珀金の色を見たのはきっとごく近くに座っていた自分だけだ。

 少女たちは寄り添いながら楽しげに去っていく。どんなに若い時でも、妻が好意で胸がはち切れそうになって泣くなどということは一度も見たことがない。まあ、今更見せられてもどうしていいかは分からない。何となく、花でも買って帰ろうかという気分になった。最適解が一つとは限らないだろう。

 明日はブックカバーに少しは似合った本にしてみよう、そう決めた。

(2017-10-01)

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