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通い路



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 ここは、どこだろう。

 一期は静寂の中、一人どこか見知らぬ地に足をつけている。それまで何をしていたかまるで思い出せず、しかもそれを訝る気持ちが一向に深くならないから、早々にこれは夢なのではないかと思い至った。刀の化生たる己が、人の身を得て、人のように夢現をさまようというのは、なんとも奇妙な話であるが。

 夢だと思えばすべての奇妙に納得がいく。ここに他の刀剣の姿が見えないことも、朱色の提灯が点々と軒下に連なり、その果てが見えないことも。しかしひゅるりと街を流れていく風にはやけに湿っぽく質感があった。額がひやりと冷え、朱色が小さく、めいめいに揺れる。

 しばらくぼうっと突っ立っていたが、随分緩慢な夢を見ているらしい。待っても何かが向こうからやってくることは無いようだ。一歩、二歩とゆるりと歩を進めた。ざらざらと靴底が土を滑る音が大きい。やはり静かだ。

 数十間歩いて、そう言えば提灯には何も書かれていないのだなと気付く。客を引き込むような文句も、屋号もない。それが静謐な印象を強めているのだが、格子窓やちょっとした渡し橋などの欄干の艶めいた朱色がただの町人街でないことだけは匂わせている。

 また数十間歩いて、ふとひとつの提灯が目に付いた。相変わらずの朱色、字も紋も見えない。しかしその提灯にだけは、魚の尾ひれのような飾り房がゆらゆらと揺れていた。この夢で初めて訪れた変化に、興味よりも安堵を感じる。戸口は開いていて、これも朱色の暖簾がかかっている。橙の光が漏れているが、賑わいは零さない。やはり静かに風に煽られてたまに膨れて見せるだけだ。

 どうせ夢と割り切れず、刀の柄に触れながらそっと半身を戸口の向こうに忍び入れた。橙の光に溢れる店内には何の姿も無かった。直感的に店だと思ったが、それが正しいかも分からない。四人掛けの卓が六つ行儀よく並んで、赤い千代紙で作られた飾りが壁を鮮やかに彩っている。物音を立てずに店内に入り、それらをまじまじと見分し──結局何も分からず、朱色の布の張られた長椅子に腰を下ろした。きし、と小さく木が鳴った。

「夏が終わってしまったなあ」

 静寂に初めて波紋ができてはっとする。天井から垂れ下がる紙垂のような飾りを眺めていた目をぱっと卓に戻すと、卓の向こうに笑みがあった。微笑むと月が西の果てに沈む、何度見ても見飽きぬ笑みがそこにある。

「すみません」

 小さく笑って咄嗟に謝ると、三日月は一期の記憶と寸分違わぬ様子で不思議そうに首を傾ける。金糸の飾り房も傾いて揺れる。夢でも現でも想い人を手放さぬ己に付き合わせたような心地だった。だが、心の奥底ではそれを当然だとも思っている。寝ても覚めても、心の片隅にはこの姿が、この声が、この笑みがある。それを恥じる気持ちが多少あっても、悪だとは思わない。

 言葉を重ねない一期をもちろんこの男は問い質したりしない。どこから現れたのか、硝子の水差しを傾けて、丸いうすはりの杯に水を注いでいる。世話を焼かれている姿をよく見かけるから、こうして手ずから水を注いでいる様がなんだか珍しく思えておかしい。気が利きませんでしたな、と声をかけると、なに、俺がやりたいからだと朗らかに返る。

「夏が惜しいですか」
「うん、惜しい」
「初耳ですな。何が惜しいんでしょう」

 季節の移ろいや年月の瞬きを喜びこそすれ、惜しむ姿は見たことがない。やはりこれは夢なのだなと思う反面、普段見かけない姿を堪能したい気持ちも湧いた。愉快を隠さずに白い面を眺めると、また二つの小さな月が笑みに沈んでいった。

「この夏はこの上ないほど幸いだったからなあ。終わるのが惜しい」

 今度は一期が首を傾げる番だ。それほど嬉しいことがこの夏にあっただろうか。同じ主の下、いつしか隣で時を重ねるようになってふたつ年を超えた。春には花を、秋には紅葉を、夏は夜を、冬は朝を、どれも美しく一期の中に錦を織っていて、夢の三日月に特別夏を挙げさせる己の記憶に心当たりがない。

「一期」

 三日月は武人らしく筋のある、長い指をうすはりの中に入れて水を波立たせた。朱色の尾ひれがひらりひらりと舞って、いつの間にかそこに金魚が泳いでいることを知る。主の勧めで人の世の祭りに紛れたのは、そう言えば今年が初めてだった。皆はしゃいで出店を練り歩く中、三日月も興味津々で一期の肩を叩いたのだったか。見ろ、一期。小さいが、随分美しいものだなあ──

「夏を過ぎたら、金魚はどこへ行く?」

 はっと目を開くと、穏やかな笑みがさかしまに映った。その向こうには見慣れた天井が薄暗い闇を抱えている。鼻先を舐めるのは秋の朝の冷気だ。

「もう起きたか。まだ眺めていたかったぞ」

 ふふ、と三日月はひそやかに笑みを降らせている。それをじっと眺めているうち、脳裏に赤い血潮が尾ひれのように舞うさまが閃いた。そうだ、昨日は出陣していたはずだ。新たな任務では監査官殿の御眼鏡に適ってからというもの強い敵との交戦を指示されている。とは言え普段なら決して傷すら負わぬ敵だった。慢心があったか、長引く行軍に知らず疲れが出たか。何にせよ情けないことに違いはなかった。思わず目元を手で覆った。

「……お恥ずかしい」
「なに、そういうこともたまにはあるさ。帰ればまた勝てる」

 ふふ、とまた笑みが降り、目元に置いた手のひらに温かい手が重なる。宥めるように手の甲を撫でさすられ、情けなさより面映ゆさが勝った。思わず一期も笑い、目元から手を外して三日月の手のひらを包む。

「どうした」
「いえ、その通りだなと」

 夢の中とまったく同じように三日月はきょとんと首を傾げ、それから一期の好きなあの笑みを浮かべ、うんとひとつ頷く。こういう時に、贅沢をしていると思う。こんなに近くでこの笑みを見上げていられるのは一期のほかには居まい。

「三日月殿」
「うん?」

 なんとなく指と指とを絡ませながら、仰向けからもぞもぞと体を動かした。瑕は完全に手入れされているが、手入れ上りはしばらく気だるさが残る。その感覚を懐かしく思い、これ幸いと自分への言い訳に使いながら三日月の膝に頭を置いた。三日月はまたふふふとくすぐったそうに笑う。

「夏を過ぎたら、金魚はどこへ行くんでしょうか」

 突拍子もない問いだとは分かっていた。夢の中にいたのは、一期の想いの中にある三日月だ。夢の問いの答えなど知るわけもない。またきょとんと首を傾げるだろうかと、少し愉快な気持ちで片目を寄越したが、三日月は穏やかな笑みのままだった。

「それはな、一期。お前の部屋だ」

 内緒話でもするように、身を屈めてこそりと告げられる。三日月夜の瞳はどんな暗がりでもきらりと金環の淵を見せるから、いつでも美しい。何故だか嬉しげに輝く目がほら、と動いた。その先には一期の文机があり、そこに鎮座する金魚鉢があり、その中を悠々と泳ぐ赤い尾ひれがある。興味津々な三日月を喜ばせたくて掬ったものだった。

「あいつらも主人の帰りを喜んでいる」

三代目いちみかワンライ「赤提灯」

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