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あまりてなどか



 それを知らせた時、一期は腰を上げることさえしなかった。いつも通りに柔和な、どこか儚げな笑みを浮かべて「ありがとうございます」とだけ言った。この本丸では出陣部隊には必ずお守りが渡される。さすが吉光の刀たちを率いる太刀、冷静なものだかと思ったが、気づいてしまった。両膝の上で握られた両拳が、力を込めるあまりに小さく震えていた。

「歌仙殿」

 手入れ部屋には清めの香が焚き染められている。ぱちぱちと爆ぜる香木をぼんやり眺めてその番をしていた歌仙は、はっと顔を上げた。障子が細く開いて、一期が顔を覗かせている。表情が抜け落ちたかのような白い面だった。

「よろしいでしょうか」

 手入れには必ず手伝い札が用いられるが、遡行軍との戦いで厄介なのは刃こぼれや人の身に負った傷よりも敵の刀から注がれる穢れだ。傷の程度が酷い時は、手入れを終えてもしばらくは手入れ部屋で穢れを祓う。その間は、審神者の護符を持たぬ者以外はなるべく近づかぬようにしなければならないのが決まりだ。いかに親しい者でも、通常は近づけない。

 しかしこの番を任される時、歌仙にはいつも余計に数枚の護符が託される。そして傷を負って戻ることの多い弟刀を多く持つ一期は、それを恐らく伝聞で知っていただろう。返事を待たずに体を割り入れた一期に、嘆息して護符を押し付ける。表情の浮かばない顔を伏せ一礼を返された。

 音もなく、膝で三日月の元まで近づいた一期はそっと三日月の頬に触れた。手入れ自体は終わっているが、審神者の呪が込められた布が傷のあった場所に巻かれている。身を屈め、一期はそれを唇で丁寧になぞった。止めることも考えたが、見ないふりを貫くことにした。一期が唇伝いに送っているのは、自身の神気だ。

「いちご」
「はい」

 いつもの芯のある声とは程遠い、うわ言のような声に一期は身を起こした。再び三日月の頬に手を添えると、それに擦りつけるように三日月の頭が動く。

「ほんとうに、お前は俺のあつかいが、うまい」

 薄く目を開いた三日月が愛しげに笑む。それを見下ろす一期の表情は何かをこらえるように硬いままだ。

「もっと、尽きるほどくれ」

 その言葉を聞くか聞かぬかの内に、一期は身を屈めて三日月の唇に己のそれを重ねた。歌仙は香木にやれやれと目を落とす。仕事をこなしているだけなのに、完全に僕が邪魔者じゃないか。

「気が、澄む」

 一期が離れて、三日月は再び意識を眠りに落としたようだった。一期はその閉じた目蓋を飽きずに眺めている。澄む、か。おうむ返しの呟きを不審に思って見つめる一期の顔に笑みが上った。驚いて少し身を引く。

「私の内はこんなに醜い欲で満ちているのに」

 そろそろ、と歌仙は声を上げた。もうそろそろ腹がいっぱいだ。人が詠うに、色恋とはそういうものだろう。

痛い所はキスで消毒 / 口移しなんて当たり前?

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