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懐中の恋



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8143395

 頑張ってみたけど落ちなかったよ、などと燭台切から申し訳なさそうに差し出された布を、三日月はしばし呆けたように見つめた。美しい浅縹に染め抜かれている小さな布には萎れかかった花のように茶色い染みが広がっている。我に返ってそれを受け取り礼を述べると、燭台切は他の三日月の洗濯物を置いて去っていた。洗濯も内番のひとつだが、ああして一人一人に届けて回るまでは仕事ではない。手巾にそっと鼻を寄せると、男の熱心な仕事ぶりを示すように石鹸の匂いだけが鼻孔を占めた。思い返せば、三日月が手入れ部屋に入った時、審神者の補助を行ったのも燭台切だった。その時に見つけて洗濯へ回してくれたのだろう。

 仲間の厚意に、落胆している。そんな人の身の心が奇怪で不気味で面白い。ふ、浮かぶに任せて笑み、手巾を指先で摘み上げると、はらりと茶色に汚れた浅縹が広がった。その藍さがつい昨日の戦場を想起させる。

「戦果の報告を」

 敵本陣を制圧し仮本陣へ戻ってすぐ、隊長を任じられている一期が指示を出した。はい、と気味良く返事をして堀川が淀みなく状況を報告する。その横では和泉守が刀装兵の様子を見ているようだ。蛍丸と博多は楽しげに拾い物を検めている。損なったものはほとんどなく、疑いようのない勝ち戦と言えた。一期が総員を見渡し口を開く。

「三日月殿」

 帰還の号令がかかるものと信じていたが、思いの外に名を呼ばれてしまった。首を傾ける三日月に構わず、一期は無言で歩み寄ってくる。そして、懐に手を入れて、取り出したものをそのまま三日月に差し出した。浅縹の染めが美しい、この男が持つのに相応しい手巾だ。

「手入れで治るとは言え、痛まんわけではありますまい」

 それは三日月が博多へかけた言葉をそのままなぞっている。

 一期の目は三日月の左肩の傷にあった。博多へ迫る敵の槍を受けた際に付いたものだが、自分でも忘れる程度の小さな傷だ。手入れさえ必要ないように思われたが、一期は焦れたように三日月の右手に手巾を押し付け、肩にそれを当てさせた。いつもは穏やかに光霞む銅鏡の瞳が戦の最中にあるように強い。

「兄として、感謝致します。ただ、あれも吉光の刀。それだけはお含み置きを」

 なるほど、と三日月は胸の裡で独りごちた。まだ戦力のおぼつかぬ頃、敵の槍は主に短刀にとって脅威だった。長く短刀や脇差と隊を組んできた三日月には、それが戦振りに染み出てしまっているらしい。見れば、じわじわと手巾にも紅い血が染み広がっていた。

「すまんな。ならいで勝手に体が動く」
「いえ、こちらこそ」

 一期は小さく頭を下げたが、上げられた面にはまだ黄金が燃えている。

「これは弟を鈍にしたくない私の一念のみです」

 一期は隙の無い動きで身を翻し、今度こそ帰還を宣言する。三日月を覗うように見上げる博多の頭を撫でてやりながら、三日月もそれに続いた。手巾を口元に引き寄せると、三日月の血の匂いに混じりわずかに香が聞こえる。金木犀を思わせる甘い香だ。一期一振という男を三日月に思わせる香だった。

 否やなどあろうか、あの目が見られるものならば。

「一期、邪魔をするぞ」

 夜半、灯りの漏れる障子に声をかけた。初夏らしい水気のある風は夜に至ると冷え、開け放って眠るにしてはやや肌に寒い。隙間なく閉じられた障子に影が躍った。間髪入れずに大仰な音を立てて障子が桟を滑った。

「助かったー!救世主の登場やん!いち兄チェック厳しかもん!」
「博多」

 部屋の奥で胡坐をかく一期の咎める声など聞こえていないように、博多は三日月に突進してきた。軽い体を難なく受け止め、柳眉を寄せる一期の足元にある紙を見遣る。墨書きで乱雑に走り書かれているのは恐らく兵法だ。一期の手蹟だけでなく、博多の手によるものもありそうで、随分と白熱して用兵の論が交わされたと見える。おかげで、三日月はすぐに博多の言葉が兄を慕うが故の揶揄だと悟ることができた。

「あーあ、いち兄がまた怒っとる。じーちゃん!」
「うん?」
「気をつけんと取って食われるばーい!」

 博多、一層強い声で名を呼ぶ一期に、いひひ、とお茶目な笑みを残して博多が駆け去っていく。つられるように三日月も肩を揺らして笑っていると、一期もとうとう困ったような笑みを浮かべた。行灯の光を受けた瞳は柔らかく、戦場の気配は無い。

「まったく。愚弟の無礼をどうぞお許しください」
「よきかな、よきかな。お前の弟たちは皆面白くて好きだ」

 一期は手元の紙をまとめ、博多の座っていた座布団を追いやって新しいものを取り出した。勧められるままに上座へと腰を下ろす。相変わらず礼節に怠りの無い男だ。

「いかが致しましたか」

 しばしほのかに部屋を満たす甘い香を楽しんでいたが、問いに答えるため寝間着の懐から浅縹の手巾を取り出す。

「これだ」

 はらり、また指先でつまんで赤茶けた花を咲かす。意図が汲めないのか、一期はそれをただ黙って見つめていた。

「血が落ちなかったようだ。良い藍染だが、勿体ないことをした」
「それしきのこと。わざわざご足労を」
「いや、それだけではないんだが」

 それだけではないし、それしきのことでもない。三日月にとっては由々しきことなのだ。膝を立て、早々に座布団を降りて一期ににじり寄る。

「みかづき、どの?」

 甘い香を辿るようにして畳に手をつき距離を詰めると、一期は戸惑ったようにわずかに身を反らせた。内番着の両腰のあたりに付いた隠し袋が目について、得たりと手を伸ばす。右の袋から留紺の手巾を引き出した。鼻先にそれを近づける。うん、と深く頷いた。甘く柔く身を包むようなあの香がする。思わず口角に笑みさえ滲む。

「これをくれ。こちらからは、お前の香がしなくなってしまった」

 答えを待つための目が下を向くのは、一期が身を反らしたまま畳に後ろ手を付いたからだ。小さく丸く口を開けて、ぽかんと三日月を見上げていた。それがまた可笑しくて、喉を鳴らしながら体を座布団へと戻そうとする。

「お待ちください」

 その腕を強く取られた。いつの間にか一期が先ほどとは逆に身を乗り出している。三日月を覗き込むのはあの目だ。あの傲慢で、それでいて冷徹で、しかし情念に磨かれた銅鏡の瞳だった。

「それがどのような意味を持つか、貴方は、ご存知なんでしょうか」

 しばし、それに見惚れていた。心ゆくまでそれを堪能し、腕を掴んでいる手をするりと撫ぜる。ぴくり、と小さな震えが伝わった。はっと一期の顔色が変わり、手の力が弱まる。

「いや、知らんな」

 するりと腕を逃がした三日月を一期は追わなかった。下座にきちんと座りなおして、また小さく頭を垂れる。

「ご無礼を」
「うん。ではな」
「はい、おやすみなさい」

 立ち上がる前に少し迷ったが、浅縹は置いていくことにした。それはもう三日月にとって無用のものだ。殊更にゆるりと一期の隣を横切り、そっと障子を閉ざす。どんな目を秘めて俯いているのか、それを確かめられないことだけ無性に惜しい。

「知らんさ。お前がどう思うかなど」

 三日月の手の中にはただ愛しい香だけがある。じりりと耳を甚振るような低い虫の声の中、取って食われなかったなあ、と独り笑った。

二代目いちみかワンライ「移り香」

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