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大喝采 (パラレル)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 初夏の朝の庭は、緑がよく薫る。季節に形は無いが、息をするだけでそれと分かるのだから不思議だ。柔らかな薄絹で包まれたかのような朝日を喜ぶように鳥たちが歌う。できるだけ気配を殺さなければならないが、三日月も朝日に歌い出したいような気持であったから、鳥たちが代わりに美しい鳴き声を競わせてくれるのはありがたい。

 都の直中にありながら、庭のために広い敷地を有している三条邸の朝はあまりに静かであまりに穏やかだ。平時は愛でるそれも今ばかりはもどかしい。逸る気持ちを抑え抑え、そろそろと歩みを進めていると甘やかな香が体を包んだ。足を止める。

「おや、これは」

 白く滑らかな花弁に、黄金の花芯が映える。柚子の花が開いていた。深く息を吸い、また吐く。甘い香が体中に満ちるのが分かった。誘われるように指を伸ばし花弁を撫でる。円く並んだ花糸の先に飾られた鮮やかな黄色は恋しい瞳を思わせた。

 そう、朝からずっとこの色の瞳を持ち、今朝の空の髪色を持つ男のことを考えている。目につくもの全てが勝手に彼の男に集約されていくのだ。いや、逆かもしれないとさえ思う。初夏の朝の香を、しろい朝日を、朝鳥の音鳴くのを、柚子の花が開くのを、その甘い香を、美しく快いと思うのは全て、あの―― 一期がいるからこそかもしれないとさえ。

「ふふ、」

 忍ばなければならないはずなのに堪えきれずに笑ってしまった。我ながらなんと熱烈で「ませた」考えだろう。「この身」はまだたったの十六だというのに。

「いや、だからこそかもしれんな」

 広い庭にも必ず終わりはある。古風な土壁に触れ、ざらざらとした感触を楽しむのもほんの一瞬だ。遠くにざわめきが聞こえた。猶予はそうないと見える。高い塀を一度見上げ、あまり気負わずに土を蹴った。傍の木を一度足場にして塀瓦に着地する。

「若者は、恋に身をやつすものだろう?」

 誰にとも知れず問いかけて、三日月は猫のように外の道に降り立った。人影が無いことをこれ幸いと学生鞄を小脇に抱えたまま肘から上を広げる。ちょうどその両手の間に朝日が丸く収まった。

「あれのおかげで朝日もありがたく見えるなあ」

 夜が惜しいとさえ思う楽しい一日が今日も始まるようだ。三日月は今日も力強く両手を打ち合わせる。まるで天照にでも祈るように。

 ―――パンッ

 殺気にはっと目を開き、腹筋を使って飛び起きた。無論片手には無意識に得物の木刀が握られている。今にも短い木刀を振り下ろさんとしていた影に体当たりして寝台を飛び出し、その影を床に押し込める。躊躇わずに首元に木刀を突き下ろした。が、寸でのところでそれを止めてやる。

「おはよう、包丁」
「あいったあ~!」

 恨みがましい声と表情に思わず笑みが浮かんでしまう。物心ついた時から鍛え上げてきた弟の一人だ。これしきのことが堪えるわけがない。この弟も、他の弟たち――そしてその長たる一期と同じで負けん気が強い。口惜しさを紛らわすための格好に過ぎないだろう。

「くっそーまた負けたあ……これじゃ人妻人気はほど遠い……」
「またそんなことを言って」

 身を起こして立ち上がると、不貞腐れた表情の包丁は人妻の良さを滾々と語り始めた。剣と礼のほかは基本的に弟たちに任せているが、さすがにそろそろ道を正してやるべきだろうか。ひとまずは話を遮るために頭に手を乗せて髪を乱した。

「ああ!人妻モテセットがあ!」
「眠っていたとは言え、あんなに近くまで気配が分からなかった。よくできました」

 口内では何かもごもごと文句を燻ぶらせているようだが、紅潮した頬が包丁の本心を雄弁に語っている。思わず上がる口角を隠さずに包丁の背を押して部屋の外へ出た。そのまま食堂へと向かう。

「おはよういち兄!」

 食堂へ顔を出した一期に真っ先に気がついたのは乱だ。その明るく華やかな声につられて次々とあいさつが続く。それにひとつひとつ答えてやりながら、上座のすぐ隣の定位置へと腰を下ろした。朝餉の準備に奔走する者、身支度に時間をかける者、まだまだ眠そうな者など様々だが、皆一期の弟である。正確に言えば血縁の寄せ集めなのだが、最早誰もが互いを実の兄弟として認めている。

 宗家、分家の子などという時代錯誤な寄り合いに、これだけの人数が暮らしても尚部屋の余る大豪邸。いかにも裕福な名家のようだが、それも数代前までの話だ。数々の不幸が重なって、今の粟田口家はこの家と日々の生活を守ることでやっとの状況である。

 しかも家業たる「仕事」のできる人間がこの家には今二人しかいない。長く家を空けて大仕事を担っている叔父の鳴狐と、一期と。その一期も十六になって初めて仕事を持ったばかりだ。しかも、その仕事というのが。

「ため息」

 声にはっと顔を上げた。心配げに覗き込んでくるのは一期の前に白飯の椀と味噌汁を置いた信濃だ。甘えたがりの気性を持つ弟の頭を撫でてやり、安心させるように笑みを浮かべる。

「今日の包丁がなかなか上出来だったからね。私も修行が足りんと思っていたんだ」

 大人しく撫でられながら、しかし信濃は全く納得していない顔だ。それに弱った笑みを返せば、引き下がってくれる気になったらしい。俺のほうがうまくできるよ、などと冗談めかして配膳に戻っていく。

 いかん、とひとつ首を振った。弟に心配をかけるような真似はしてはいけないと思う気持ちが半分、悠長に考え事をしている場合ではないと我に返ったのが半分だ。「仕事」のことを考えたのをきっかけに、何やらざわざわと胸騒ぎを覚え始めたのだ。嫌な予感がする。

「じゃあみんな、あの、手を……」

 朝餉と夕餉の席はできるだけ共にし、あいさつは皆一緒に。それは家を空けることの多い叔父が定めた決まりだ。自分が居ない間にも寂しい思いのする者の出ないようにとの気遣いだろう。今日の号令係の声に従い、朝餉の湯気の前に皆手のひらを持ち上げる。

「いただきます!」

 輪唱と共に両手が勢い良く打ち合わされる。一期はそこに今日一日の平穏という願いを重ねた。どうかあの方が大人しくしていてくださいますように――儚い願いだと分かってきている自分が悲しい。

 ―――パンッ

 注意を引くために打ったかしわ手の音に、弟たちに囲まれながら家の門を出た一期は鋭く反応する。だが三日月を振り返った瞬間に化け物でも見たかのように目を見開き体を硬くしてしまった。見たい表情と少し違ったな、と思いつつもやはり朝一番に見る想い人の顔は格別だ。

「おはよう一期。弟たちも」

 兄の常に無い反応に驚いたらしい、戸惑いを隠せない様子だが、粟田口の子らは皆礼儀正しい。口々に挨拶を返しきれいにお辞儀をする。そんな愛らしい弟たちを掻き分け、油の切れたカラクリのようにぎこちなく一期は三日月に歩み寄ってきた。

「三日月殿」
「三日月でいいぞ、と言ったはずなんだがなあ」

 「今は」歳も同じ、通う学び舎も、その教室さえ同じくする級友なのだ。気安く呼んでほしいと思うのも自然なことだろう。しかし一期は三日月の言葉など全く聞いていないように険しい顔で左右を見渡している。

「まさかとは思いますが、もしや……ここまで、お一人で?」
「うん!だが思ったより遠くてな。行き違いになるかと思ったが……いや、よきかな。よきかな」

 なるほど、「青い顔」とはこういうことを言うのだなあ、三日月は一期の顔をしげしげと眺めた。想う相手の知らぬ顔をまたひとつ知ることができたというのは嬉しいものだ。ふ、と笑みがまたひとりでに浮かぶ。

「お前を待つ時間も惜しいと思った。すまんな」

 わっと声が上がり何事かと思えば、一期の後方に居る弟たちが何やら囁き合ってこちらを見ている。笑顔を傾け手を振ってやれば、きゃらきゃらと楽しげな声が上がった。「ここ」では初めて会うが、相変わらず個性豊かで美しく目を楽しませてくれる。

「行きましょう。遅れます」

 強い力で手首を掴まれ、体が傾く。好いた相手と触れあうのは好きだが、早足で前を往く顔がこれでは見えない。首だけ振り返って弟たちに再び手を振ってやり、足を数歩大きく踏み出して一期に並んだ。だが、口を引き結び難しい顔をした一期は頑なに三日月を見ようとはしない。

「一期?」

 答えはない。隣に並んでも掴まれたままの手首は嬉しいが、これではつまらない。

「一期。どうか答えてくれ」
「……」
「困ったな。声が聞きたくて早く起きたんだが」

 はあ、長く大きなため息だった。一期はがっくりと肩を落とし、惜しいことに三日月の腕をぱっと離してしまった。

「確認致しますが」
「うん」
「何か危ないことは」
「いや、何も無かったぞ。柚子の花が咲いている家をいくつも見た。あとは皐月だな。良い季節だ。たまに歩くのも悪くない」

 うつむく一期を覗き込むと、一期はちらりと目を上げた。どこか呆れたような色の瞳で三日月に手を伸ばし、我に返ったようにぱっと一歩分三日月から離れてしまった。ぱちぱちと目蓋を瞬かせる。

「ひとまずお屋敷にご連絡を」
「俺はこの、携帯というやつがよく分からん」
「……では私が」

 何やらちかちかと忙しなく点滅している電話を差し出した。一期はまた難しい顔になってそれを操作し、耳に押し当てている。もしもし、はい、そうです、ええ大丈夫です、いえこちらこそ、ええ、はい、三日月殿は間違いなく私の隣に。そんな一言でも嬉しくなってしまうのだから、恋うる心とは面白いものだ。

 とはいえ、何も一期を困らせたくてこのような思いつきをしたわけではない。穏やかで細い雨のように柔らかい声を電話だけに向けさせるのも面白くなくて、三日月は両手を一期の前に差し出した。突然のことに一期がきょとんと目を丸める。そうしていると少し幼く見えて、また愛しい。笑みを傾げてその顔を覗き込む。両手をその前に掲げた。

「許せ。この通りだ」

 ―――パンッ

 端的に言って、粟田口の家業とは「用心棒」だ。その歴史は古く、戦国の世で大将の懐刀を務めたのが始まりと伝わっている。一時は後を継ぐ者が絶え没落の途を辿りかけたが、それに歯止めをかけたのが叔父だった。叔父は既にその腕で名が高く、各界の要人から重宝されている。一期もそれに続き家を支えるべく高校への入学と同時に一つの任を得た。それが三条家のご子息の護衛、という顛末だ。

「わっ!」

 朝には広がっていた晴天が、夕方には雲で覆われる。この季節にはありがちな天気だろう。明日には、もしくは早ければ今夜にでも雨が降り始めるに違いない。良くない潮目だ。陽が隠れれば陰が力を増す――ぼんやり見遣っていた窓の外の風景が唐突に「COOL」の四文字に差し替えられた。正しくは、その文字を象ったサングラスをかけた男の顔に、だが。しかし一期には最早言葉どころか表情ひとつ動かす気力は残っていなかった。じっと凪いだ心で男の顔を眺めていると、その顔は気まずげな笑みに取って代わり、サングラスも引っ込められた。

「俺が驚かされるとはなあ。随分お疲れじゃないか」

 全体的に色素が薄く、細かく彫り込まれた金細工のように美しい造形を持った男だ。黙ってさえいれば、その繊細な容姿が「儚げ」だの「危うげ」だのと言った魅力を以て華のようにこの男を飾るだろう。黙ってさえいれば。しかし残念ながら、人の感情を大きく揺り動かすことに命を懸けているこの級友に一期がそれらの表現を試みようと思ったことは一度たりとも無い。思い返してみれば、初対面である入学式の日、この男が堀った落とし穴に落ちかけ、咄嗟に手を前方に付き前転し回避したのは失敗だった。あれから何かとちょっかいを出されている。

「今日も若君はご機嫌だったなあ」

 自由奔放な三日月にぴたりと寄り添い、漏れなく巻き込まれている一期を級友たちは影で側近やら参謀やらなどと呼び、その延長で三日月を若君などと揶揄しているらしい。果ては騎士と姫などとまで囁かれていると聞く。始めの頃はいちいち立腹していたが、ふた月も経てば最早諦めの境地だ。この名家のご子息が多く通う学校の学費も経費の一部として一括で計上されている以上、それを享受している一期にはこれから二年半、その称号に甘んじる覚悟が必要なのだ。

「あの方はご自分がどれだけ危険に身を置いているのか分からんのです」

 ただの気ままなお坊っちゃまなら良かったのだ。それなら一期もここまで気を揉まなくて済む。問題はあの三条の家、それからその血の宿縁にあるのだから。思い返すだに肝を冷やす数々の記憶に深いため息がこぼれる。まだ出会って二ヶ月だというのに、先が思いやられ胃が痛む。

「厄介なのに惚れられたもんだなあ、きみも」

 鶴丸の生家である五条家と三条家とは古くから交わりがあり、鶴丸と三日月も幼等部に入る前からの旧知らしい。それなのにと言うべきか、そのためと言うべきか、大抵の場合で鶴丸は一期に同情的だ。しかし実のところその憐れみの中には明らかに愉快げな色が混ざっている。からかわれていることは分かっているが、やはり怒る気力もなく深いため息しか出てこない。

「お戯れを。からかわれているんです。あの方は私の気など知りもせん」

 ただの護衛という立場の一期を、まるで恋い焦がれる相手のような顔で見、話し、触れてくる。一期が何か働きかければ、何もかもを受け入れて嬉しげに笑う。一期が何も動かなければ、何のためらいもなく身を乗り出して覗き込んでくる。

「私が簡単に惑わされるのが面白いんでしょうな。だがあのように無邪気に、素直に、ひたむきに笑われてはたまらん」

 くっきりと描かれた顔の輪郭に、黎明に中天に浮かぶ月のようにきらりと光る瞳。その力強い顔だちにして浮かぶ表情の柔さからか、不思議な艶やかさが見え隠れする。こわい相手だと思っている、一目見たその日から。

「何か」
「あー……いや……」

 呆れたような、憐れむような、苦いものでも口に入れてしまったかのような、甘いものを食べ過ぎてしまったかのような、何かを言い淀むかのような――鶴丸の表情は何とも表現しがたいものになっている。しかし最後はその全てをごまかすように左右へ首を振りわざとらしく辺りを見渡した。

「だがきみ、のんびりしててもいいのか?居ないぜ、きみのお姫様」

 何としてもごまかされまいとする心づもりだったが、さすがに捨て置けない言葉に慌てて周囲を覗う。日直だったと言って、組になった加州と共に楽しげにのんびりと日誌を埋めていたはずの姿がそこに無い。どうやら鞄ごと消えている。

「あの方は……!」

 部活動に励む学生の声の隙間にぱら、と軽い音が混じる。途端に湿った雨の匂いが窓から伝ってきた。最悪の状況だ。

「いやいや、苦労するな、きみも」

 今度こそ心からの同情から出た言葉だと知れた。何の慰めにもならないが。立ち上がるために一期は両の手のひらを机に打ち付けた。

 ―――バンッ

「なるほど、なるほど。押してダメなら引いてみろ……か」

 見たい表情がある。もう随分と長く焦がれているその表情をどうしても見ることができない。しかし諦めるほど絶望的な状況ではなく、幸運は既に手の中にあって、だからこそ焦れている。

 そういった気持ちを、級友である加州は楽しげに紐解いてくれた。俺も受け売りだけど、と断りを置いてあれこれと助言を繰り出し、ひとまずできそうなことからやってみろと背を押され今に至る。日誌は俺が出しとくね、と爪紅鮮やかな手が振られた。甘えたがりのなりをして、面倒見の良い男だ。心地良くその好意を受け取る。世話をされるのは好きだ。

「だが、押すも引くも、よく分からんなあ」

 いつになったら、いつかのあの目の色が三日月を舐めるように眺めるのだろうと思う。柔らかく細められた瞳の中で、真夏の陽炎のように光が揺らぐ様を。今でないことは確かだった。このところ一期の表情で見たものと言えば困惑を礼節で無理やり押し込めた無表情ばかりだ。

「まあ、またそれも良し」

 好いた相手の表情ならば、と自分の浮ついた考えにくすくすとひとりでに笑みが浮かんでしまう。学校の裏庭の樹々の間を風が疾り、ざああと三日月の零す笑みを追いかけるように騒いだ。ふと、足を止める。空には一分の隙なく曇天が敷き詰められ、風が随分と湿っている。樹々で重たげに揺れる深緑は朝と違って暗い色で濁って見えた。

 体から余計な力を抜き、目を閉じる。ざあざあと騒ぐ樹々の音も、下校や部活動にはしゃぐ学生たちの声も次第に遠くなっていく。ぽつ、と冷たい感触が跳ねたのは鼻先だ。その瞬間に、三日月はその場から跳びずさった。

 一瞬前に三日月が居た場所から、短刀をくわえた異形のものが見つめ返している。ぽた、と雨がまた一粒落ちたかと思えば、それは三日月の頬から滑り落ちた血の一滴のようだった。

「まだ慣れんな、この体とやらには」

 この世の怨嗟を煮詰めたような耳に不快な音は、どうやらこの異形の『声』らしい。思わず眉根を寄せていれば、短刀の妖の後ろから打刀を片手にした異形が現れる。

「仲間を呼んだか……はっはっは、仲良きことは麗しきかな」

 いや、笑っている場合でもないか。三日月は目前の敵に意識を置いたまま視線を左右に走らせた。校舎の裏にある細い道に人影は無い。背には壁、正面には敵。その更に背後には街中の学校とも思えぬような雑木林が続く。

「引いてもいいが……報酬分は押してもみるか」

 ぽつ、水滴が踊り、ぽた、と頬を血が滑る。三日月は口角に笑みをのぼらせて両手を開いた。それを胸の高さに持ち上げ、打ち合わせる。

 ―――パンッ

 しかし、音はひとつではなかった。力強い拍手の音が遠く、三日月と重なっている。

 ―――パンッ、パンッ、パンッ

 拍を打つ音がまた大きくなり、速くなり、近くなる。その清冽な音と気配に気圧されるのか、短刀も打刀も様子を覗うように動きを止めている。

 ―――パンッ、パンッ、パンッ、パンッ

 八開手が打たれた。淀んだ空気を一掃する澄んだ静寂の中、がたりと頭上から物音がする。見上げれば、二階上の窓に足をかけ見下ろす一期とまさに目が合った。厳しい顔をした一期は、躊躇うことなくそこから身を投げ出す。そして三日月の目前にぴたりと蹲って着地した。屈めた姿勢をすっといつものように正しく伸ばして立ち上がり、三日月に一瞥もくれないままもう一度腕を上げ両手を開く。

 ―――パンッ

 一際強く打たれた短拍手がゆっくりと離れていくとそれを追いかけるように銀糸が一期の両手を結んで光る。ただの光はすぐに硬い質量を持ち、一期の手の中に美しい姿を現す。天下人の愛した、この一期に一振の名刀だ。三日月はそれを、阿呆のように放心して眺めていた。このふた月の間幾度見た、しかし幾百目にしようとも飽きる気のしない光景だった。

「この方は、たやすく折れたりはせん」

 ちら、と一期が振り返り、その目が初めて三日月を認める。そのいつになく険しい目は三日月の頬の傷に向いている。顔がくしゃりと歪んだような気がしたが、すぐに正面に戻ってしまって正しくは分からなかった。

「いや、万代残って頂かなければならんのです。私が何度燃え落ちようとも――傷つけること、まかりならん」

 一期は殊更ゆっくりと、丁寧に「己」を構えた。それだけで敵が滅びそうなほど強い殺気が空気を占める。

「お覚悟―― 一期一振、参る!」

 鈍色に光る刀身の上で、空色の髪の上で、異形の血と雨粒が跳ね踊る。短刀の異形の胴と頭が瞬く間に離れるような豪快な剣のくせ、その動きには無駄がなく舞のように流麗だった。それを三日月はこの「刀」らしいと思う。これをいつまでも永代見ることが叶うのならば、どんな主の下で振るわれるよりも幸いだ。

 ――ぱち、ぱち、ぱち、ぱち

 打刀の異形を見事に刀ごと斬り捨てた後姿に、三日月は思わず両手を打ち合わせていた。三日月しか観客がいないことが悔やまれる、見事な剣戟への喝采だ。

 ひとつ息を深く吸い、そして思い切り吐き出した一期の手から刀がすうと空気に溶けて消えてしまう。惜しいことだとそれを目で追っていると、ぐるりと勢い良く一期が三日月を振り返った。

「許せ。礼を言う」

 目を見開いた一期はきっと、三日月に何かを言い募るつもりだったのだろう。しかし口を何度かぱくぱくと開閉させたかと思えば苦しげに押し黙ってしまった。普段穏やかなこの男の様々な表情を三日月は愛でているが、苦しげなそれはあまり好きではない。

「貴方は三条のご子息です。そのご自覚を」
「うん、一期が言うなら、そうしよう」

 一期は「己」を振るっている時に口にする言葉をよくは覚えていないようだった。無意識に口にのぼるのだろう。少し寂しい気もするが、この男さえ知らぬ男の言葉を、三日月は知っている。そう思えば、少し愉快でもある。

「私が言わずとも、そうしてほしいものですな」

 一期は乱暴な手つきで己の学ランのボタンに手をかけ、手早く脱ぐと、それで三日月の頭をばさりと覆った。弱い雨脚ながら本降りの中、既に手遅れの感もあったが、思わぬ行いが嬉しくふふ、と笑みが漏れる。それを遮るように押し付けられたのは白いハンカチだ。これは頬用らしい。頬にハンカチを押し当て、一期の服を擦り寄せるようにする。

「……一期の香がするなあ」
「っな、なにを……!」
「惚れ直したぞ、一期」

 学ランの合わせからちらりと一期の表情を覗う。いつもの困惑がそこにあったが、しかしそれは珍しく柔らかく崩れた。梅雨を前にした弱い雨の中、一期の瞳が柔らかく細くなる。

「何を言っているんですか」

 ああ、そう言えば。こうだった。俺の一等好きな、この付喪神の顔は。

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