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振動覚 (進撃の巨人・エレアル)



位置覚

 静か過ぎる家、それが最初の印象だと記憶している。敷地の限られたシガンシナの一般家庭にしてはやや手広なのだが、そこにあるべき人の気配はあまりにも微かなものだった。古びて埃っぽく薄暗い廊下をのろのろ歩く。父親がこの屋敷の主人である老人を診ている間、エレンは患者の孫だという少年を探さねばならなかった。老人が言うには少年は書斎に居るらしい。

 どうも引っ込み思案で、なかなか友達ができん。どうか友達になってやってくれ。

 ベッドの上の老人の言葉に先に答えたのはエレンではなく父親だった。この子は逆にやんちゃ過ぎてなかなか友達ができない、そうやって笑った後エレンを振り返った。実を言えばこういうことは今まで何度となくあったので、何も言われないうちから頷きを返す。けれどそれは父親の言いつけを理解していることを示しただけで、その内容を歓迎しているわけでは決してない。そんな心情を知ってか知らずか、大人たちはエレンを怪我人の部屋から追い出してしまった。気は進まないが他にやることもない。教えられた通りに短い廊下の突き当たりにある書斎を目指す。

 ―――ドサッバサバサバサッ……

 ドアに手をかけた瞬間、その向こうから大きな音がした。重い物が立て続けに地面に落ちる音だ。驚きに硬直したのは一瞬で、首を振り気を取り直して注意深くドアを押し開ける。廊下と違い、大きな窓がある書斎は日の光で溢れていた。眩しさで目を細めながら部屋を一望すると、壁一面を埋め尽くす本棚のひとつ、そのすぐ下に本の山ができている。傍には倒れた椅子、うつ伏せになった少年――

「おい!」

 声を張り、慌てて駆け寄った。もちろん安否を確かめるための行動だったが、少年はびくりと体を大きく震わせ身を守るように体を縮めてしまった。エレンがどうすればいいのか困惑していると、そろそろと目だけを上げ視線を送ってくる。涙を溜めた青い目は病床の老人と同じ優しい色だ。

「……お前、アルミン?」

 少年は肯定も否定もしなかったが、エレンから視線を逸らさなかった。恐らく老人の言う孫――アルミンで間違いないだろう。しゃがみ込んで身を助け起こしてやる。乱れた金髪を乗せた顔を正面から覗き込んだが、今度は目がよそへ逃げてしまった。

「おれはエレン」

 お前のじいさんとおれの父さんがお前に会いに行けって言うから、簡潔に事情を説明するがアルミンはまだ黙り込んでいる。今にも泣き出しそうな顔で散らばった本を掻き集め始めた。見上げると、本棚の高い位置にある一列が根こそぎ無くなっている。恐らくそこには本がぎっしりと詰まっていて、その内一冊を引き抜こうとしたアルミンに雪崩れてきたのだろう。怪我はないのか、その問いにも返事はない。退屈だった。

 父親に連れられて診療に付いて行くことは珍しいことではない。そういう時には大抵訪ねた先に子供が居る。アルミンのように大人しくて引っ込み思案な子供、エレンのように手がつけられないなどと言われる子供、明るくてすぐに親しげに話しかけてくる子供、底意地が悪くてすぐに取っ組み合いになる子供。種類は色々あるが、退屈という点では全部一緒だった。エレンはふと考えてしまうのだ、こんなことをしている場合なんかじゃない。媚を売って誰かと群れたり、気に入らない誰かとくだらないケンカをしている場合じゃない。しかし、では何をするべきなのかはエレン自身にもよく分からない。だからこそ余計に誰かと居ると焦りと苛立ちが募るのだ。一体自分は何をするために、何をしたくて、何をほしいと思っているんだろう。

 ――ぺらり、

 紙をめくる音を聞いて、エレンはぼうっとしている自分に気がついた。本を床に積み上げていたアルミンが、その中の一冊を開く音だったようだ。開かれたページには細かな字がぎっしりと詰まっている。

「……よめるのか?」

 医者である父親は蔵書も多いし、普段からエレンに読み書きを教えたがる。だがエレンは文字を音読するくらいが精一杯で、まだその意味を理解するまでには至っていない。アルミンが開いている本はどう見ても童話や子供向けの教材の類には見えなかった。

「すこし」

 伏せた目元を強引にぬぐい、鼻をすんと言わせながらアルミンが答える。初めて聞いたアルミンの声は思うよりもはっきりした口ぶりだった。またじわりと滲む涙を必死に堪えつつ、目元に力を入れ口元を引き結びアルミンは本を睨みつけている。一体何を見ているのかと初めて興味が湧き、身を乗り出して覗き込む。何が書いてあるのかエレンにはさっぱり分からなかったが、本の隅々に描かれた草花の絵には見覚えがあった。どれも父親に頼まれ母親と共に探しに行く薬草に似ている。

「なにもできない。けどなにもしないよりマシだ」

 本から目を離してアルミンの横顔を見つめる。その言葉はエレンにではなく、アルミン自身に向けられているように聞こえた。ついに目からぼろぼろこぼれる涙と金の髪とを、窓からの陽が白く照らしているのを眩しく見つめる。

「……うん、そうだ」

 ひとつ強く頷いて、不思議そうな表情を浮かべているアルミンの顔を覗き込んだ。こいつは引っ込み思案だけでも、大人しいだけでもない。エレンはそれを知った時、アルミンのことを退屈だと思わなくなった。アルミンのおかげで退屈ではなくなったのだ。

「ちがわない」

 何かできることを探し続けなければいけない。それをしていないエレンが退屈で不安なのは当たり前だった。アルミンはきっとその時、幼いエレンが一番欲していた言葉を当ててみせたのだ。
 後から考えてみれば、エレンはその時初めて、本能の外で誰かに信用を預けてみようと考えたのだと思う。

 演習林を抜け、巨大樹林でより実践に近い訓練を重ねるようになってからエレンの実力は飛躍的に伸びた。座学と違い点数化されているわけではないが、立体機動装置をまるで新たな手足のように思う。日に日に不自由に思うことが減り、今では身体能力を遥かに超えた力を制御している実感があった。その理由はきっと単純で、喜びだ。待ちに待った立体機動の実践訓練なのだ、嬉しくないわけがない。ミカサやライナーたち、前を行く者の背はまだ越せていない。けれど確実にエレンの前方を阻む者は少なくなっている。どこへ行くべきか、どこを狙うべきかが見える。どこまでへも素早く跳べる、肉迫できる。深く、より深く削ることができる。これで駆逐できる、一匹残らず。やっと殺せる。殺せる。殺せる。殺せる。エレン!殺せる。エレン、聞こえないのか!殺せ――

「エレン!」

 はっ、はっ、はっ……何か耳につくと思えばそれはエレン自身の荒い呼吸だった。ワイヤーが巻き取られる音と共にアルミンが目の前に降り立つ。その目の中にある困惑を不審に思い、エレンは自分とアルミンの間に横たわる物を見下ろした。巨大樹林の各所に設置された巨人型の標的、だろうと思われる。断言できないのはそれが無残に切り刻まれていたからだ。深い呼吸を繰り返しながら確認する刃はガタガタにこぼれてしまっている。

「……そろそろ宿舎に戻ろう。暗くなると危険だし、夕飯を食べ損ねるよ」

 翌日の訓練に影響させないという条件の下、教官に自主訓練を許されアルミンなど幾人かの訓練兵たちと林を駆け始めたのがどれくらい前のことだろうか。遠い巨大樹の頭の向こうにある空は宵闇に侵食を許した暗い茜色をしていた。風でざわざわと揺れる木影が連なって、地面を夜で塗り潰し始めている。

「空きっ腹で眠りたくはないだろ?今日はクリスタたちが当番だから、きっといつもよりマシな味……」
「俺は……駆逐しなきゃならない……。あんな害獣一匹だって逃がさず、全部全部駆除されるべきなんだ……」

 そうだろ、アルミン。間違ったことは何も言っていないはずなのに、漏れ出た声の色は何故だか弱々しいものだった。偽の巨人の残骸を乱暴に踏みながらアルミンに一歩一歩と近づく。アルミンの目の中にはまだ困惑がある。その瞳に写っている人間の目にも困惑があるからそう見えるのかもしれない。

「エレン……?」

 時折、本当に時折、幼い頃何故あんなに焦燥と不安に駆られていたのか分かるような気がする時がある。それはエレンが普通の人間と違って、何かよく分からない異質の物を腹の底に住まわせているせいなのではないだろうか。悪魔だろうが化物だろうが、エレンは巨人を駆逐さえできるならそれでもいい。そいつだって利用してやる。だけどこれは……正解なんだよな、アルミン。

「エレン」

 アルミンがエレンの手首を掴んでいた。夕日は遠くからわずかに差し込む程度のはずだが、アルミンの目は強い光を湛えているように見える。ごとり、と心臓の音が大きくなった気がして慌てて手を引き抜き、アルミンを苦笑させてしまった。

「これ……は訓練中、僕がアンカーのポイントを誤って体当たりしたってことにしとこう。もしかしたら罰があるかもしれないけど……明日は区長が視察に訪れるって言ってたよね。多分そう厳しくは追求されないはずだ」
「待てよ、これは俺がやったんだぞ!なんでお前が罰なんか……!」
「まずは一緒に帰ろうエレン。それから考えよう、一緒に」

 エレンの言葉を嬉しそうに聞き、アルミンの笑みが楽しげなものに変わる。これを見ていると安心する。この柔らかい笑みと視線が何を意味しているか言葉がなくともエレンには分かるからだ。そしてこの笑みをずっと見ていられさえすれば、エレンは自分が正解だと知っていられる。

「分かった。急ぐぞ」
「うん!」

 立体機動装置に体重を預けワイヤーに沿って木々を縫う。スタートは同時だったが、アルミンに少しずつ遅れが見え始めた。アルミンの身体能力は決して高くない。しかし、座学はエレンと違って同期生の中でもずば抜けている。アルミンに最も適した場所が自分の行き先と重ならないことをエレンは充分理解していた。

「エレン、ぼくはわるいやつだ」

 その日突然エレンの家を訪れたアルミンの言葉に、エレンはすっかり驚いて言葉を失ってしまった。内容に驚いたのは当然のことながら、その日は驚くべきことばかりだったのだ。

 今までは、エレンが父親についてアルミンの家を訪れる以外で一緒に遊んだことはなかった。家の周辺からほとんど出ないと言っていたはずなのだが、一人でエレンの家までやってきたことも驚きだ。先日訪ねた時に父親が最後の診療だと零していたから、次は一人で会いに行かなければならないと考えていた矢先だと言うのに。まさかアルミンに先手を打たれるとは思っていなかった。嬉しさを隠しきれなかったが、それ以上にアルミンの訪問を喜んだのは何故だか母親だった。浮かれてあれこれ世話を焼こうとするので少し腹が立つ。アルミンが会いにきたのはエレンなのだ。母親じゃない。

 子供部屋にアルミンを引っ張って来て、やっと落ち着いたところでアルミンは重々しく口を開いた。いつもは血色の良い白い頬が少し青ざめて見えると思っていたが、錯覚ではなかったらしい。

「……わるいやつ?アルミンが?」
「おじいちゃんが元気になったのに、すこしだけ、それをざんねんに思ってる」

 冗談か何かかと怪訝に聞き返せば、更に冗談だとしか思えない答えが返ってきた。アルミンが祖父を心から心配して、自分にもできる何かを必死に探していたことを、エレンはその目で見ている。アルミンのように賢いわけではないエレンは眉根を寄せて呟くしかなかった。どうして。エレンのその表情を一目見ると、たちまちアルミンの顔も似たような情けないものになった。

「……エレンとあそべなくなるから」
「べつにこうやってあそべばいいだろ?いっしょに」

 まるで重罪人みたいに小さくなっているアルミンに呆れる。祖父の病気だとか父親の診療だとかは、エレンとアルミンが遊ぶのには全く関係ないだろう。更に、こうしてアルミンが一人でエレンの家へやって来ることができると分かった以上、エレンには何か問題があるようには思えなかった。

「ぼくがわるいやつでも、ともだちでいてくれるの?」
「あたりまえだろ!だってお前はわるいやつじゃない。ほかのやつがそう言ったってしるもんかよ」

 その時のアルミンの表情は今でも忘れない。大きな瞳いっぱいにエレンを映して、幸せそうにアルミンは微笑んでいた。

「エレンはちがわないって言ってくれた。とてもうれしかったんだ。ぼくはエレンのことがすきだよ。だからいっしょにいたい」

 その笑みは、目の色は全て「エレンが好きだ」という意味なのだ。アルミンはエレンのことを好きでいる――エレンはこの表情から、この先いつでもそれを知ることができる。その時に感じた言いようの無い充足感を、エレンは未だに何と表していいのか分からない。

「アルミン、呼ばれてるぞ!」
「あっ、うん」

 消灯前だけにわずかに与えられる自由時間に、アルミンは人から呼ばれて部屋を出て行った。実践の要領を口で伝えるのは難しいが、座学は比較的それが容易い。加えてアルミンの教え方が分かりやすいとあって、しばしばアルミンにはこのような呼び出しがかかる。普段はあまり気にしないが、話し相手を奪われた退屈もあって、伝言を頼まれた同期に何とはなしに声をかけた。

「今日は誰の家庭教師やるんだ、アルミン」
「ジャンだよ、ジャン」

 ジャン、その名前にエレンは思わず顔をしかめずにはいられない。アルミンとジャンには大して親交は無かったはずだ。おまけにこれまでエレンと何度も衝突してきた男でもある。数ヶ月前、わけの分からないことをアルミンに言い募っていた件が頭をよぎった。何もなければそれでいい、念のためにアルミンの後を追うことにする。コテージを出て左右を見渡すが、もう後姿は発見できなかった。ひとまずジャンたちの居るコテージを目指す。

 エレンとジャンとでは、そもそも入団の動機からして対立しているのだ。今更友好的な関係が築けるとは思わないし、したいとも特に思っていない。主張や考え方が違うから相容れない、それだけの話だ。ミカサと仲の良いエレンへ嫉妬しているだけだと仲間から囁かれたこともあるが、その可能性は恐らく無いだろう。ミカサと家族なんてやっていられるのはエレンくらいのものだ。その逆もミカサくらいしか居ない。

「……それに、ここの奴らはちょっと妙なことがあると話を好き放題捻じ曲げていきやがる」
「ええっと……ごめん、話がよく見えないんだけど……」

 耳がアルミンらしき声の端を拾った。それを頼りに歩くと、コテージのドアから離れた暗がりにふたつの人影を見つける。困ったような表情のアルミンと、仏頂面でそっぽを向くジャンの二人だ。

「だから!訂正するって言ってんだよ!考えてみりゃあのミカサがお前を眼中に入れるわけなんてないしな!」
「訂正?ミカサ?あっ、ひょっとして何ヶ月か前の話?でもそれ、今更の話だよ」
「悪かったな……今更でよ……」
「あっ、いや、別にそういう意味じゃなくて!つまりジャンは僕に謝ってくれるってことだよね?そんなこと『今更』気にしなくたっていいのに、ってことで……やっぱりジャンは……」
「違う!訂正だ!」

 ジャンは大声を上げただけで、腕を振り上げたわけでも足を出そうとしたわけでもない。だがエレンの体は知らず走り出しており、アルミンの腕を引いてジャンから距離を取らせていた。正面のジャンも隣のアルミンも、突然の乱入者に目を白黒させている。

「な……なんだよ突然。ここに巨人は居ないぜ、死に急ぎ野郎」
「アルミンは」
「あ?」
「アルミンは、俺のことが好きなんだよ」

 ジャンはしばらくぽかんと口を開けたままエレンを凝視していた。それから最大限に顔を歪めて不可解を表現し、おまけに首まで傾げて一音を吐き出す。

「……で?」

 で。それはたった一音ながら絶大な攻撃力を保有していた。何故ならエレンには防御の術が無い。その後に続く言葉など何も考えていなかったからだ。しかしジャンを前にして敗北の二文字を呑み込むことはエレンには決してできない。目を見開いてジャンを睨み上げた。

「ミカサもそうだ!分かったか!」

 ミカサもアルミンのことを信頼し、慕っている。エレンがそうなのだから、それはきっとミカサも同じだ。言葉が足りず目的語が摩り替わって伝わってしまったことにも、やっぱり気持ち悪いじゃねえかお前らというジャンの罵倒にも気づかないまま、エレンは大股で短い帰途を辿った。もちろんアルミンの腕は引いたままだ。エレン、と何度呼びかけられても立ち止まらなかった。

「一体……何を言ってるんだよ、もう……」

 もしアルミンがジャンにも「正解」を手渡したら。そうふと考えた途端に体と口が勝手に動いていたのだ。エレン自身にも自分が一体何を言いたかったのかもう分からない。ただ、何故だか少しほっとしている。

「ただ……なんて言うのかな、エレンはやっぱり訓練兵団に入って良かったんだ、きっと。そう思う」

 先ほどまでたっぷり込められていた呆れがその声からは霧散していた。どこか頼りない声音が気になって立ち止まり、振り返った。アルミンの表情は笑みだが、眉尻が少し下がっている。その笑顔は違う、と思った。その笑顔じゃ分からないだろ。腕を掴む手に力を込める。逃げを打たせないために目に力を込めた。

「ここに居ろ」
「エレン?」
「ここに居ろよ、今は」

 あの日、一瞬で全ての日常が壁と共に瓦解したように、何かが安穏と持続するわけがないと分かっている。あの時からエレンの目指すものは一貫して変わらない。その他を顧みる気もない。だがその濁流に飛び込む前に、アルミンの言葉と表情を息の変わりに溜め込んでおきたいと思う。腹の底に住む何かに呑まれないために。

「君や――ミカサが、いいと言ってくれるなら、僕は居るよ。そうしたいって思う。決めたんだ、そうしようって」

 理由は分かっているんだろ、そう続けるアルミンの言葉や表情の全てが何を示しているのか、エレンには当然分かる。アルミンの腕に触れている掌中に血流の振動が伝わる。どちらのものかは知らないが、大きく速い。

(2013-07-23)

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