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振動覚 (進撃の巨人・エレアル)



共感覚

 ―――ッド、ッド、ッド、

 寝台の上で、首筋に腕を添わせるようにして、皮膚の下で血液の流れる音を飽きることなく聞き続けている。やがてそのテンポは体内にある時計の秒針と調和し、起床の鐘の音が間もなく鳴り響くだろうことを知覚させた。同室の人間がまばらに身を起こす気配を鼻先に感じる。

「まだ……」

 小さく呟き身を縮めると、腕と指と首筋との間で黒髪が滑るのが分かった。目を閉じて音だけに集中する。連続する音の隙間からアルミンの声が蘇った。エレンのことを考えてみて。笑ったところ。嬉しそうに、得意そうに、馬鹿みたいに、強がるみたいに――。

「ミカサ!ミカサ、起きてくださーい!朝です、ついに朝食ですよ!」

 まだ、とまた口の中だけで呟いた。速くなった鼓動にしがみついたまま起床の鐘の音を聞く。心に溢れ返るエレンの表情の海を泳いでいる最中、ふと別の笑顔を波間に見つけた。ミカサの腕を取るアルミンも、そう言えば優しい微笑を浮かべていた。

「早く起きないとーミカサの分まで私が全部食べちゃいますよーいいんですか?いいんですね?いいってことですよね!それじゃ遠慮な……あっ、ごめんなさいもちろん冗談です!冗談ですからあ!」

 もうそろそろ、とエレンが目覚める頃合を見計らって身を起こす。簡単な身支度を済ませて食堂へ向かえば、重たそうな瞼を抱えたエレンが丁度そのドアをくぐろうとしているところだった。今日も時間通りだ。きちんとタイミングを見計らっておかないと、エレンより早くても遅くても損した気分になる。

「エレン」
「おう」

 まだ眠気を引きずっているのだろう、エレンはミカサを一瞥もせず億劫そうに短い返事だけをした。その後、今日は何も言葉が続かない。いつもならアルミンが呆れた様子で朝のあいさつを続けてくれるのだが。朝食を受け取る列に加わりながら、エレンの後方へ視線を動かした。

「アルミン?」
「あ、おはよう。ミカサ」

 うつむき気味だったアルミンは、今初めてミカサに気がついたかのような声を上げる。最早定位置となっている席についても、何かに思い耽って黙り込んでいるように見えた。エレンと目を合わせようとしないことにも気がついたが、対するエレンの態度に異変は覗えない。ケンカをしたわけではなさそうだが、それ以上のことを推し量ることはできなかった。

「本当だって!聞いたんだよ!エレンとアルミンが話してるとこ!」

 一日の訓練を終え、機器や設備の点検・清掃も終了したミカサは、姿の見えないエレンとアルミンを探していた。午後に入ってすぐの訓練までは一緒だったのだが、特別問題の生じなかったミカサと、まだ体重移動のうまくいかない二人とで別行動になってしまったのだ。夕闇に半身を沈めた訓練場の中を移動している最中、聴覚が探し人の名を拾った。

「聞き間違いじゃねーのか。エレンにはミカサが居るだろ」
「いや間違いないね。えーっと、そう、アルミンが……エレンのこと好きだって言ってたんだって!」

 声を頼りに進むと、数人の訓練兵たちが装置の点検の片手間に話し込んでいる姿を視認する。どの兵もほとんど手は止まっていて、口を動かすことの方に集中が傾いているように見えた。

「そう言われりゃ……あいつらいつも一緒に居るよな……」
「今も二人で残ってるしな」
「うわ、気持ち悪」

 眉根が勝手に寄るのが分かる。エレンやアルミンのことを何も知らない人間たちが、嘲笑を浮かべ好き勝手に分かったような言葉を吐いているのだ。素通りできるわけがない。足音が聞こえるような歩き方に変えたのはもちろんわざとだ。

「エレンたちはどこ」

 気まずさや焦燥が手に取れそうな表情が一斉にミカサを振り返る。そんな表情をするくらいなら永遠に口を閉ざしていればいいのに。演習林のほうに居るよ、ぎこちなく告げられた二人の所在に礼と共に頷きを返す。

「ありがとう。でも――見えないところでコソコソ汚い言葉を吐き出している貴方たちに、人を気持ち悪いと笑える資格は無い」

 言うべきことを口にした後はもう何の興味も残っていない。すぐに踵を返して二人の元を目指した。無心に歩いている内に、名前もよく覚えていない同期生の言葉が脳内に反芻される。しかしその話のどこに、エレンとアルミンのどこに、奇妙を覚えればいいのかミカサには分からなかった。

 演習林、とは言うものの実際は広い敷地に太い柱が乱立しているだけの空間だ。立体機動装置を使った体重移動の初歩訓練に使われている。エレンとアルミンは一言も言葉を発さずひたすら柱と柱の間を縫っていた。元々の身体能力の差からどうしてもエレンの動きが目立つが、二人とも飛躍的に上達しているのが分かった。しかしじきに夕飯の時刻になる。夕陽も壁の向こうに沈もうとしている。ミカサは声をかけるために口を開けた。

「あっ」
「わっ」

 しかし金属同士がぶつかる鈍い音がミカサの発声よりも早くに響き渡る。エレンとアルミンの装置のアンカーが同地点を目指し、互いの勢いを相殺してしまった音らしい。バランスを崩した二人はほぼ同時に地面に倒れ込んだ。一見したところ、どちらにも大きな怪我は無さそうだ。

「ごめん、エレン!」
「いや、悪い……俺こそ……大丈夫かアルミン」

 二人が地に尻をつけたまま肩を震わせ、徐々に笑みを大きくしたのもほぼ同時だった。エレンが無邪気に笑う姿を見たのは久しぶりだ。しっかりとそれを目に焼き付ける。それからその先にあるアルミンの笑みは、記憶にある別の言葉と結びつく。笑顔は人を引き付け、縫い止める。昔からミカサはアルミンの笑顔を見る度に安心を覚えていた。ミカサがそうなのだから、それは必ずエレンも同じだ。今、その理由が少しだけ理解できた気がする。

「エレン。アルミン。怪我は」
「っげ、ミカサお前いつから居たんだよ!」
「……二人が体重移動に失敗するところから」

 たちまちへそを曲げるエレンを少し惜しみながら、苦笑を浮かべるアルミンと共に三人連れ立って道を戻る。いつの間にかアルミンから異変は立ち消えてしまっているように見えた。

「よおエレン」

 馴れ馴れしくエレンの名前を呼ぶくせに、テーブルの前に立ったのはほとんど覚えのない顔だ。それでもミカサの頭の隅に印象が残っているのは、その男が夕暮れ時に訓練場に出会った軽薄な人間たちの内の一人だったからだ。

「……なんだよ」
「俺はてっきりお前とミカサが付き合ってるとばかり思ってたが……誤解だったんだな」
「はあ?」

 付き合ってる、その言葉の生々しさにたじろいでしまい、反応が一瞬遅れる。対してエレンは一切動じず、最後の一口のスープを飲み干したスプーンを乱暴に皿の上に叩き付けた。男の口元は見苦しいエレンへの挑発の笑みが浮かんでいるが、目だけはミカサを得意げに見下ろしている。先程のことを根に持ったのだろうか。心底下らないと思う。

「まさかアルミンとだったなんてな」

 また反応が遅れてしまった。男が何を言いたいのかミカサにはよく理解できなかったのだ。しかし男がエレンとアルミン、そしてミカサを馬鹿にしていることだけは理解できている。エレンが立ち上がるのを止めようとしたが、音もなく立ち上がったのはアルミンのほうだった。青い目で男を静かに射竦めている。一見気性の穏やかなアルミンの反撃は予想していなかったのか、男はただ怪訝げにアルミンの顔を凝視していた。

「君には、大事な人はいないの」

 アルミンの落ち着いた声がよく通るので、周囲の人間もアルミンの声を聞いていることに気がつく。

「家族や、友人や、恋人。いないなら物でも構わない。故郷や財産や、そんなもの。……それから想像してほしい。それが全て一度に永遠に奪われることを」

 ふと目線を下ろすと、テーブルの上のアルミンの拳が小さく震えていた。しかし男はそんなことに気づく余裕も無いようだった。必死でアルミンに返す言葉を探しているようだが、きっと永遠に見つからないだろう。

「幸い、僕には大切な友人たちが残ってくれた。僕は彼らのことを、どんな時でも、何があっても好きでいるだろう」

 食堂を沈黙が支配する。いつまで続くのかミカサには見当がつかなかったが、それは愚かな考えというものだ。規律の厳しい訓練兵団の生活において時間は最も厳戒だ。鐘が鳴り響けば人の流れが生まれる。男も結局一言も発さないまま食堂の外へ出て行ってしまった。はあ、大きな溜息を吐き出してアルミンは椅子に勢い良く腰を戻した。テーブルに肘をついて頭を抱える。

「……エレン、君のせいだ」
「はあ?なんでだよ!」
「なんでって!昨日……なんで君が怒ってるの……」
「怒ってない。つまらんだけだ」

 あからさまに不機嫌そうなエレンは、テーブルに頬杖をついてそっぽを向いていたが、アルミンに覗き込まれるのを厭うようにミカサへ目を向けた。既に食堂の中に人影はなく、三人だけで薄暗く広い空間を占有している。エレンの目が放つ強い光からも音が聞こえそうだ。

「ミカサ、アルミンの手を取れ」
「えっ、何をいきなり、」
「分かった」
「ミカサ!」

 逃れようとする動作が開始されるよりも早くアルミンの手首を捉える。先ほどまで纏っていた静けさはどこに放ってしまったのだろう、アルミンはたちまち狼狽して目を伏せ気味に彷徨わせた。

「アルミン」

 エレンが名を呼ぶ。しかしアルミンは不自然に目を逸らしている。ミカサなど呼ばれてもいないのに、エレンの声の強さに引き寄せられ目を動かしてしまうのに。手の中の鼓動に乱れを感じた。

「アルミン、見ろよ。こっち」

 テーブルに身を乗り出し、今度はエレンがアルミンの顔を覗き込む。逃げ場がないのは分かっているのだろう。アルミンは渋々エレンと目を合わせた。

 ―――ッド、ッド、ッド、

 手の中で心が跳ねる。心なしか頬が赤く染まったようにも見える。エレンは得意げな表情でミカサを振り返った。

「ほら、早くなっただろ」
「うん」
「アルミンは俺のことが好きなんだ」
「でも、エレンの方が早くなってる」

 一瞬、エレンは何を言われたのか分からなかったのだろう。しかし、テーブルに置いた右手首をミカサに掴まれていることに目線を落として初めて気がついたようだった。

「おっ、お前離せ!勝手に握るなよ!」

 エレンが大きく腕を振って無理に振り払おうとするので、ミカサは仕方なく手を離した。エレンは鼻白みながらそれを確認し、アルミンに視線を戻した。

「俺たちは……手の中に最後に残ったから、仕方なく一緒に居るわけじゃない」

 アルミンの大きな瞳がきゅっと丸く縮まる。そしてそれはまた彷徨うように伏せられるのだ。ミカサは反射的にアルミンの手首を掴む力を少しだけ強くした。言葉にならない、エレンと同調するこの感情が少しでも伝わるように。

「分かってるよ……そんなこと、分かってる。ただ、僕はあの場を収めたかっただけなんだ……でも、確かにもっと言葉を選ぶべきだった……ごめん」

 謝りながら、アルミンは上目気味にエレンの憮然とした表情を覗い、ミカサの手の上に自由になっている方の手を重ねた。エレンはしばらく黙り込んでいたが、ついにはひとつ大きな溜息を吐き出した。一緒に呟きも零れる。お前が俺のこと好きじゃないなら困るよ。

「だって、アルミンが俺を好きでいるうちは、俺は正解なんだ」
「正解……?」

 エレンのその言葉は、ミカサが感覚だけで理解していたものを美しく言葉に変えてくれた。アルミンが全く理解できていない様子なのが心底不思議だ。ミカサですら分かるのに。アルミンにはその場に最も適った『正解』を選ぶことができる。そのアルミンが選ぶエレンは正解だ。

「……うん」
「そうだろ?ミカサ」
「分かった、今。私も正解だってこと」
「はあ?」

 そしてそのエレンを思うミカサだってきっと、正解なのだ。手を伸ばして油断しているエレンの手首を取り返す。

 ―――ッド、ッド、ッド、

 片手ずつ握った手首が、それぞれ違ったテンポで速い鼓動をミカサに伝える。この音はミカサにとってエレンへの感情の証明だ。そしてアルミンがくれた保障だ。照れ屋のエレンが手首を引き抜こうとする動きも、もの言いたげなアルミンの目も無視をした。エレンの手首に頬を添わせる。

 私はこの二つの音に任せていればいい。

(2013-07-05)

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