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君の香に (進撃の巨人・エレアル)



※Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=2862663

「むせ返る花の……においが……なんだっけ……」
「……え?」

 どちらの声も覇気が無く、重い疲労がじっとりと滲んでいる。見れば周囲の誰もが似たような有様で、朝焼けの気配に白む空の下、ぐったりと座り込んだり寝そべったりしていた。中には先輩訓練兵に担架で運ばれていく者もおり、紙一重で同じ運命を辿ることを免れたアルミンの肝を冷やしている。野外訓練終了を言い渡す教官の虫けらでも見るような冷たい視線がまだ突き刺さっている気分だ。壁外作戦を想定した夜通しの持久力訓練は過酷の一言に尽きる。別日程に振り分けられてしまったミカサの不安げな表情を思い出した。こういう場合、大抵ミカサはエレンに自制を促してほしいとアルミンに頼み込んでくる(そしてエレンに反発されている)が、今回は特に何も言い渡されなかった。察するに、今回は逆の現象が起こったに違いない。そんな推察すら容易な自分の体力がアルミンは恨めしい。

「すごい匂いだろ……さっきから……」
「ああ……」

 エレンとアルミンは互いに寄りかかるようにして荒い呼吸を共有している。そのすぐ鼻先には薔薇が咲き乱れていた。全く人の手の入らない薔薇たちは大きく重たい頭を垂れており、太い茎が差し出された数多の手のようにうねっている。美しさより不気味さが目に付いた。闇夜と疲労に視力と注意力を奪われ、薔薇の中に身を預けてしまい、太い茎にびっしり揃う棘にとどめを刺された者も少なくない。

「息を止める……むせ返るような花の……、花の香に……?」

 荒い呼吸の隙間から、うわ言のようにエレンがアルミンの記憶の1ページを辿ろうとしている。どうしてエレンは突然そんなことを思い出したのだろうか。鼻先には確かにくどいぐらいの薔薇の香が迫っている。しかしどちらかと言えば今は互いの汗の匂いの方が強い。

「私は知る、むせび泣くような……恋の情を……だっけ」

 エレンの後を継いだ。体温の熱気がむっと首元までに迫り、衣服と肌をべったりと密着させている汗の匂いが鼻を突く。はあ、大きなため息を吐き出し全体重をエレンに預けた。なんだか笑い出したい気分だ。

「汗の、匂いしか、しないや」
「恋がどうとか、あったもんじゃないな!」

 案外ロマンチストな幼いミカサには悪いが、アルミンもエレンも苦しい呼吸の隙間で笑った。過程はどうあれやり遂げた。そしてこの訓練は必ず将来の、人類の明日の糧となる。その達成感がやっと、指先まで染みた疲労を凌駕し始めていた。

「アルミン。何があった」

 扉を開けた瞬間、青い顔をしたエレンと目が合った。もしかするとそれを受け止めるアルミンも、巨人化の影響で眠り込んでいたエレン以上に青い顔をしているかもしれない。ウォール・ローゼが巨人に突破された恐れあり、壁内を震撼させた一報を受けてから既に一時間が経っている。エレンを見守っていたはずのミカサの姿もそこには無い。上層の会議に紛れ込めたアルミンと違い、今ようやく他の兵たちと一緒にその事実を知らされているのだろう。

「エレン、目が覚めたんだ。良かった。体の具合は……」
「アルミン!」

 部屋の外を往来する不穏な気配をエレンは既に感じ取っているらしい。名を呼ぶ声は鋭い。更には未だ歩けもしない体でベッドを出ようとするので、アルミンは慌ててエレンに駆け寄った。いつもは意志で本来の何倍の力をも発揮してみせるエレンだが、今ばかりはアルミンが軽く押さえるだけでもベッドに逆戻りしてしまう。無念そうな呻き声にどうしても情けない表情を返してしまう。

「ごめん、エレン」
「やめろよ……俺がいじめてるみたいだろ」

 不機嫌を隠さずにエレンは舌打ちした。無理の利かない自分の体に苛立ちが募っているのだ。腕を上げ額に当て、一刻も早い事情の説明をアルミンに求めている。しかし咄嗟の判断がアルミンの言葉を阻んだ。もしここで事実を話せば、エレンに与える衝撃の大きさ、そしてその後繰り出される無茶の大きさは想像に難くない。

「今は休んでくれ、エレン」
「は……はあ!?」
「あと一時間……二時間は休めると思う。だからそれまでは体をしっかり休めて、体力を少しでも回復させるんだ」
「馬鹿言うな、何かあったんだろ!?気になったまま寝てなんかいられるか!」

 やっぱり憲兵団が何か言ってるのか、新しい動きがあったのか……制止も聞かず再び身を起こし、エレンはいくつか考えられる限りの悪い想定をアルミンにぶつけ、最後にアニの名を出した。それはエレンの心情をよく表している。そして同じ同期兵であるアルミンの心情をも。

「エレン、これは団長の命令でもある」
「何があったかさえ教えてもらえないこともか?」
「それから、僕の願いだ」

 怒りを通り越して呆れの表情さえ浮かべていたエレンが目を丸めた。その反応はアルミンにしても意外で、同じように目を丸めてしまう。当然のことを口にしたに過ぎないのに、何か言ってはならないことを言ってしまった気分だ。どうすればいいか分からないまま二三歩その場で足踏みし、仕方なくベッドへ静かに腰を下ろした。エレンと目線の高さが同じになる。

 短期間、短時間に様々なことがあり過ぎた。それはやはり得た記憶より失った記憶のほうが色濃い。衝撃や苦悩の方が色濃い。こんな状況下で場違いなことは痛いほど分かっている。しかしアルミンは少し休みたいと思ったし、短くともエレンに安らかな眠りが訪れてほしいと思う。両手を伸ばし身を乗り出した。丸くなったままのエレンの目を横切り、その肩に額をつける。一瞬硬直していたエレンも、しばらくするとアルミンと同じように手を回してくれた。近い距離によく見知った体温とにおいがある。明日に何の保障もないちっぽけな新兵ふたりのはずなのに、何故かそこに莫大な安心を感じた。

「アルミンの匂いだな……」

 エレンが首筋に髪と鼻とを押し付ける感触がある。奇しくもアルミンと似たようなことを考えていたらしい。こんなに近距離で互いを感じているのは何年ぶりのことだろう。

「休めそうかい、エレン」
「無理だろ……」

 自然と声量が落ちて囁くような声になる。恨めしげなような、疲れきったようなエレンの声も小さい。

「昔は何も考えずに眠ってたんだよな。起きれば……母さんと父さんと、ミカサがいて」

 『巨人』はただの知識で、言いつけを守らない子供しか狙わないことになっていた。世界は狭く、シガンシナの町と家族、エレンとミカサだけで完結だ。あまりに簡素で退屈な、だからこそ幸せな毎日だった。

「それで街に出て……アルミンと話すんだよな。わけ分からん話とか、小難しい話とか、有名な英雄の話とか昔から伝わる伝説の話とか……『外』の話とか……」

 ぐっとエレンの腕に力が入る。エレンの胸板で呼吸が圧迫される。鼻の奥につんとせり上がる痛みと熱さ、歪みそうになる視界には気づかないふりを貫き通す。

「あの楽しそうな顔が見れてれば俺も楽しかったんだ」

 エレン、堪えられず揺れた声でその先を制したつもりだったが、エレンは止まらなかった。いつかの懐かしい、「よく分からん」詩の一節だけを呟いてエレンはより強くアルミンを抱き締めた。本当はきっと、聞きたい言葉のはずだった。だがアルミンは目を強く閉じ意識の外にそれを追いやろうとすることしかできない。

 息を止める、むせ返るような花の香に。

 息を止める,
 むせ返るような花の香に
 私は知る,
 むせび泣くような恋の情を

 なんだそれ、エレンが怪訝げに呟く。どこか身構えるような様子に、アルミンは思わず苦笑を浮かべてしまった。アルミンが祖父の蔵書と共に運んでくる話を、エレンはきっと二通りに分類しているに違いない。想像力を掻き立てられ胸の高鳴る話と、微塵も理解できず何の興味も沸かない話だ。本に挟んであった黄ばんだ紙を丁寧に引っ張り出し、唐突に読み上げたアルミンに、エレンは後者の気配を感じたのだろう。

「この本に挟まってたのを見つけたんだ。多分……別の本の1ページを破ったものだよ」

 この本、とアルミンは手にある本の表紙をエレンとミカサに掲げて見せた。アルミンにもほとんど読み解けない、古代文字に関する研究書だ。二人の表情が――エレンはあからさまに、ミカサはわずかに――嫌そうに曇る。アルミンはまた笑ってしまいそうになってしまった。アルミンだって最初からこの本に興味を持ち読みたくて手に取ったわけではない。詰まった本棚からお気に入りの冒険譚を必死に引き抜こうとして、二三冊の本を一気に引き抜いてしまった。背伸びをしていて咄嗟に避けられなかったアルミンの頭頂部にコブを作ったのがこの本である。痛みに涙を滲ませながらいかにも難解そうなその本を拾うと、ぺらりと一枚、黄ばんだ紙が滑り落ちたのだ。

「最初はこの本のどこかのページが破れたのかと思ったけど、内容が全然違う。これは詩だよ。作者もタイトルも書いてなくて詳しいことは一切分からないけど……」

 ほら、と4行の他は空白しかない1ページを差し出されても、エレンとミカサの反応は鈍い。思った以上に良い反応を得られず怯みかけたが、アルミンは話を止めなかった。時につまらなそうな顔をされたって、この二人に自分の持っている知識を全て使って何かを伝えることは本当に楽しい。エレンとミカサのためだけに何度も練られた言葉を送り出す一瞬、アルミンは全ての嫌な記憶を忘れ去ることができる。異端者と罵られ殴られる悔しさも、友人を危険な目に遭わせる恐怖も、結局は助けられてばかりいる自分の情けなさも。

「恋、の詩なの?」
「うん、そうだと思うよ」
「おれは……そういうのは、よく分からん」

 言葉を出すのをためらったミカサは、何故かちらりとエレンを見遣る。けれどエレンはそれに微塵も気づかずそっぽを向いてしまった。ミカサはエレンの家に住むようになってからほぼ四六時中エレンと一緒に居る。時折それをからかう奴もいて、エレンはそれを思い出して不機嫌になっているようだ。

「よくは、わたしも分からない。だけど、こういうところで寝そべると、草と土のかおりで体がいっぱいになる」

 珍しくよくしゃべるミカサはその場にばたりと倒れ込んだ。木陰が影を落とす草原の中にミカサの黒い髪が広がっている。突然のことに目を丸くしているアルミンとエレンにくぐもった声が聞こえてきた――こういう気持ちのことなんだろうか。

「ミカサ、すごいよ!なるほど、そういう意味だったんだ!」

 両手をついてミカサを覗き込む。マフラーと髪の毛の隙間から覗くミカサの表情はあいまいだ。どこか恥ずかしそうにも見えて微笑む。するとエレンがつまらなそうな表情で身を乗り出してきた。

「当たってるかどうかは分からないだろ」
「うん。でもそうだったらいいなって思うから。もしかしたらこれ、おじいちゃんがやったことかもしれないんだ」

 アルミンの祖父母は、かつてウォール・マリア内の小さな学術施設で古代の研究をしていたらしい。祖父の蔵書はこの名残だろう。アルミンはこの一枚の古い紙切れを見つけ出した時、色々な想像を試してみた。そのうち最も素敵だと思った仮定は、若い祖父が当時流行の詩集から1ページを切り離し、祖母に本を貸し出したというものだ。違っていたら恥ずかしいので祖父に確かめる勇気はないのだが。

「どうだろう、エレン!」

 いいや、もしかすると祖父よりももっと前の時代の誰かが愛の告白に使ったかもしれない。本はかなり古い年代のものだ。言葉に熱を増していくアルミンに押されるようにしてエレンが身を引いた。はっとして口を噤むが、エレンはもうつまらなそうな顔をしていない。

「やっぱり分からん。……でも楽しそうだ」

 放っておかれたことに拗ねたミカサに引きずり倒されるまで、エレンは笑顔だった。いつものやんちゃで攻撃的とさえ感じる笑みではなく、穏やかで微かな、眩しい光に目を細めるような笑みだ。エレンはいつも真剣に、時にはそんなふうな笑みでアルミンの話を聞こうとする。それに気づくとき、言いようのない感情が体中に溢れて息をも塞ぐ。

 ふと、手元の紙に記された詩が脳内でもう一度朗読された。

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