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転回するILY



▼08/29/1982 01:05

 返事が来ないことは分かっていた。

 キース・グッドマンは大抵のことには勤勉に取り組む習性がある。そしてそれをいつの間にか日常として繰り返してしまうクセがあった。ただし、Eメールのチェックだけは、どうしても彼の習慣に馴染まないようだ。曰く、重要な連絡はPDAを通して、もしくは直接申し渡されるだろう?もちろん電話もある。距離と時間の離れた人から不意にもらう手紙も素敵じゃないか──いかにも彼らしい考え方だ。もちろんその意見を否定するわけではない。けれど、そんな彼の考えを少し変えたのは、他でもないバーナビーである。

「素敵な明日を、毎日僕にくれるんでしょう?」

 彼は青い目を点にして瞬かせていたが、すぐにそれを柔らかい笑みに変えた──記憶がやけに鮮明だ。

 最初は手紙よりも時間をかけて返事を寄越していたキースも、次第にEメールを日常に吸収するに至ったようだ。最後にもらったメールの日付は去年の十月三十一日。バーナビーの送ったメールにほんの一時間ほどで返信している。どんなことを考えながら、どんな顔で、どんな速度でキーボードを打ったのだろう?今、それをこの目で見たいと心底思っている。水を求めて砂漠を放浪する旅人のように渇望している。

 I LOVE YOU!

 誕生日を大仰に祝うにぎやかな文面の最後は、そう締めくくられていた。愉快げな、しかし少し照れ気味な笑顔が脳裏に浮かぶ。つい微笑んだはずが、目元と口元がわずかに歪んだだけだった。一文を指先でなぞろうとするけれど、投影型のディスプレイは感触さえ与えてはくれない。

 メールからとうとう一年が経とうとしている。しかしバーナビーの中の季節はまだ秋の終わりで、日付は誕生日の翌日の朝で、浮かれたメールにどんな言葉を返して彼を困らせ、笑わせてやろうかと懸命に考えている。

 君、このままでは本当に一周してまた秋になってしまうよ。

 困ったような声がする。彼は一度もそんな言葉をバーナビーにかけたことは無い。なのにいかにも鮮明に脳内で再生されるのだ。このままの状態をキースが決して歓迎しないだろうことを、バーナビーの頭はもう理解してしまっている。これはその証拠だ。本当はもっと駄々をこねていたい。いつまでも、このメールには返事が来るのだと堅く信じていたい──けれどスカイハイさん、僕はもう行かなければ。そうなんでしょう?

 I love you, too.

 わずか数秒で打つべき文字は終わってしまった。伝えたい感情は張り裂けそうなほど溢れているのに、文字にすればほんの一文にしかならない。もどかしいけれど、このメールは何億光年かかっても到達するべき相手を見つけることはできないのだ。これはただ、バーナビーの心に区切りをつける作業でしかない。だからこれ以上に加える言葉は無くていい。そう思っていた。振り切るようにディスプレイを消し去る。返事は来ない。分かっている。

 しかし五日後の早朝、バーナビーはメールソフトを立ち上げて息を呑んだ。来ないはずの返事を、来ないはずの差出人から、二年前の日付で受信していたからだ。

▼09/08/1982 02:30
Who are you?

 一文のメールの返事もまた、一文だった。しかもそれはバーナビーこそが問いたい言葉だ。キースは多くを語らないままだったが、彼の肉親は遠縁の親戚がいくらか居るだけで、彼の家や私物は今もほとんど手を着けられていない状態のはずだ。彼のメールアドレスが他人に譲渡された可能性はほとんど無い。

 ひょっとして誰かのいたずらだろうか?日付まで細工して。だとすれば、バーナビーは自分に少なからず憤慨する権利があると思う。とても情のある人間の所業だとは思えない。しかし、削除のために伸ばした指先はバーナビーの意思に沿って動いてくれなかった。たった三語の返事をそっと優しく撫でる。

「『誰』…」

 二年前なら、確かにキースはバーナビーのメールアドレスどころか携帯電話の番号すら知らない。まだメールチェックの習慣も無く、週に二度も確認していれば珍しい頃だ。彼は何気なく立ち上げたメールソフトに舞い込む、誰かも分からない差出人からの突然の愛の告白に、きっと仰天しただろう。おまけにそれは、どうやら先に同様の告白を経ている。返事にすごく迷ったんだろうな――バーナビーはひとつ首を横に振った。馬鹿げている。チェックするはずのメールやニュースがまるで頭に入る気がしない。会社でもできる作業だ、ひとまずPCを終了させて身支度を整えることにする。散歩への期待を隠さずにバーナビーを見上げる老犬にあいさつ代わりに苦笑を寄越した。

「……頼りない代理人を笑わないでくれよ」

 彼の愛犬は、そのソウルメイトを失ってからというものすっかり大人しい。少し前まで老犬とはとても思えない活発さでリードを持つ人間を翻弄していたのに、今はバーナビーに寄り添うようにそっと毎日を過ごしている。ひょっとするとこの賢い犬は、自分の悲しみ以上にバーナビーの感情を心にかけているのかもしれないと時々考える。彼のソウルメイトではないバーナビーには想像しかできないけれど。頭から首元にかけてを静かに撫でて、散歩に向かうことにする。

「なんかあったか?」

 のらりくらりと出社してきた虎徹は、バーナビーの顔を見るなりそう聞いた。互いに、年々隠し事ができなくなってきている気がする。相棒としての経験と時間が、相手の言動を呼吸のように体に馴染ませているせいだ。いつもは心地良いそれも、今日ばかりはばつが悪い。

「……分かります?」
「そりゃあ」

 椅子を引いた虎徹は、デスク越しにバーナビーを覗き込み苦笑を浮かべた。何もかも互いに報告し合う義務は無いし、それを強いたり強いられたりすることも無い。しかし、バーナビーの中で虎徹は最も信頼のおける人生の隣人だ。調子が良いところがあるので多少話題を選びはするけれど、仕事についてでも私事についてでも相談することに最早あまり抵抗が無い。解決しなくとも、虎徹に話すだけで随分気が楽になる。こんなこと、数年前のバーナビーなら眉根を寄せて信じられないと吐き捨てるに違いない。もしくは虎徹に過剰な遠慮と気負いを感じていて、やはり信じられないと呟くだろう。二年前なら、もうそろそろそういう抵抗が無くなっている頃か──また首を横に振る。

「貴方じゃないですよね?」
「へっ?」
「いたずらです。心当たりは?」

 どうやらいつまでも童心を忘れることのできないらしいこの愛すべき相棒は、度々些細かつ大胆ないたずら(失敗を隠そうとしてやむを得ず行われているものも多い)でバーナビーを戸惑わせ苦笑させてきた。しかしここのところはさすがにその気配もたち消えていて、以前なら有りすぎる心当たりに言葉を詰まらせていただろう虎徹も、首をわずかに傾けるだけだ。

「特にねぇけど……」
「そうですか……それは残念だ」

 万が一仕掛け人が虎徹なら、かろうじて笑って済ますこともできた。しかし彼が人を傷つける言動を故意に選ぶような人間でないことは分かりきっている。全く話の分かっていない虎徹はますます不可解そうに瞬きをしていた。そのまま放置するのも悪いので、端的に事態の説明をする。虎徹の表情はみるみる剣呑なものに変わっていった。

「……で、その犯人が俺だって?」
「だったら良かったのに、っていう話ですよ。すみません、分かりきったことを聞いて」
「まあいいけど……なんつーか、なあ……」

 虎徹も冗談にしてはあまりには度が過ぎると思ったのだろう。おまけに仲間の尊厳を軽んじるようなそのいたずらの嫌疑がかかったことに不服を隠せないようだった。感覚の麻痺した無神経な言葉を素直に反省する。彼の突然の不在に立ち往生しているのは、当然バーナビーだけではない。でもこういう時、やはりバーナビーは無神経に安堵する。

 彼のことを忘れたくないのは、僕だけじゃないんだ。

「間違いじゃないんだよな」
「彼から来たメールに返信したんですよ?アドレスの間違いは考えられない」
「前来てたメールが残ってたとか……」
「それも無いですね。貴方じゃないんですから。大体それならおかしいでしょう、『貴方は誰』だなんて」
「……勘違いってのは」

 いくらか沈黙が挟まれたのは、虎徹がその可能性を一番大きいと考えているからだろう。願望が見せる錯覚、なるほど説得力がある。バーナビーはひとつため息を吐き出し、ディスプレイを手のひらで示した。動かぬ証拠を虎徹に披露するために。

「はー……」

 虎徹は言葉を失っているようだ。バーナビーたちは皆、その目で彼を見送っている。その翻しようのない事実を踏まえれば、なんとも言えない気味の悪さまで感じる。それからやはり腹立ちか。ほんの少しの揺らぎでも、彼本人であるという馬鹿げた可能性を信じそうになった自分に対する。

「そう言えば昔……よく考えたな。かけたら出るんじゃないかって、あいつの携帯に電話したくなったりさ」

 お前には返事があったんだな、虎徹は途方に暮れたようにぽつりと呟いた。

 ともかく、想いに区切りをつけるというバーナビーの十ヶ月越しの決心は思わぬ頓挫を強いられたわけだ。彼の愛犬の散歩を終え、夜の街をヒーロースーツで見下ろしながら、バーナビーはため息を吐き出した。

 スカイハイの突然の引退に世間では様々な憶測が飛び交っている。引退発表以降、会見すら開かない薄情な人気ヒーローに対して、限りなく正解に近いファンの見解も多く見られる。けれどポセイドンラインはそれを否定も肯定もしない考えらしい。それが彼らなりのスカイハイへの愛着なのかもしれない。

 真実を知る方が不幸か、あるいは幸福か、バーナビーにはよく分からない。その疑問は度々今までの人生で山となり谷となってきたけれど、彼の不在がますますその疑問に霧をかけてしまった。とにかく、真実を知るヒーローたちが彼のヒーローとしての日課を継承しようと考えたのは、誰の提案でもなく自然な流れだった。今日はタイガー&バーナビーが当番の日で、夜の街をパトロールする。なるべく高いところからと考えるのは、効率が建前で感傷が本音だ。

 ゴールデンライアンが嵐のように去り、タイガー&バーナビーが一部リーグに復帰してからというもの、HERO TVは高視聴率をキープし続けている。それはスカイハイの突然の引退後も特に変わらない。シュテルンビルトを最も慈しみ見下ろしていただろう男がこの世から姿を消しても、この街は何も変わらず、美しくバーナビーの足下で輝き続ける。

「……不条理だ」

 思っていたより小さな声だった。風の音と行き交う車やモノレール、人々の喧噪にかき消されていく。それがたまらなかった。大きく息を吸い込む。

「不条理だ!こんなもの!何もかも!……っどうして……!」

 神だか運命だか知らないが、彼が、僕が一体何をしたって言うんだ。
 勢いのまま飛び出そうとしたバーナビーの肩を誰かが強く掴む。咄嗟に振り返ると、アイパッチ越しの苦笑と目が合った。

「……置いてくなよ。相棒だろ?」

 ワイルドタイガーは余計なことは何も言わず、バーナビーが体から力を抜くのを待っている。タン、タン、リズム良く肩を叩かれた。血を吐くような気持ちで、固まりのような空気をゆっくり時間をかけて吐き出す。

「すみません」
「いんや。行こうぜ」
「……はい」

 返事をしよう。地面を蹴ってそう決めた。バーナビーもこの街と同じように何も変わらない日常を繰り返している。けれどそれは、そう見えるように努力しているからだ。少しくらいの報復が許されてもいいはずだろう。

▼09/09/1982 00:57
No way, no!

 しかし、バーナビーは真っ赤になって頭を抱える彼を鮮明に想い描いてしまい、不快なはずのその返事に思わず笑ってしまったのだった。メールは一行で終わってしまっているが、そのすぐ八分後にもメールが送られている。そちらは自己紹介と恐らく何かの手違いが起こったのだという指摘が丁寧に綴られていた。日付はやはり二年前、その九月八日。

「キース・グッドマン、ね……」

 薄暗い部屋、パソコンを前に一人ごちるバーナビーを不審がるように彼の愛犬が近寄ってくる。家主に付き合って夜更かしに付き合い、退屈そうにしているその鼻先に軽く触れて苦笑した。

「お前のご主人様だそうだぞ」

 当然、彼にはバーナビーの言いたいことが理解できなかっただろう。犬と人間が言語を異にしていることはもちろんだが、仮に言語を解したとしても、バーナビーの言葉が表現しているのは起こり得ない事実なのだから。

「誰がこんなこと……文章のクセまで彼にそっくりだ」

 返事にまた一週間ほどを要しているのも、いかにも二年前の彼からのような顔をしたメールだ。本来なら怒り心頭で衝動に任せ削除しなければならないメールなのに、バーナビーは心地良い懐かしさから脱出することができなかった。

「『私はキース・グッドマン……」

 これは何かの罠かもしれない。バーナビーの心が空白を抱えていることを知った誰かが、巧妙に書き上げたメールの可能性がある。過去から返事が来たと思うよりはよっぽど現実的だ。

「……君の言葉を本来伝えるべき相手のためにも、」

 しかし頭ではそう思っても、心はその意見に納得しなかった。こんな気持ちになれるメールを書けるのは世界に一人しかいない、最初にそう思ってしまったら最後だ。

「君がこの間違いに一刻も早く気づいてくれることを願う』」

 君がこの間違いに……もう一度最後の一文を口中で繰り返した。でもこの画面に向こうに居るのが本当に彼で、バーナビーのメールをその目で読んでいると言うならば、そこにどんな間違いがあると言うのだろう──もしバーナビーを陥れようとしているにしても、これだけでは情報が少なすぎる。どちらにせよ泳がせる必要があるはずだ。本音を覆い隠す建前があっと言う間に脳内で構築されていく。そんな自分の性根をバーナビーは小さく自嘲した。

「馬鹿げてるな」

 返事の内容を考え始めている自分が何より。
 どうせなら大仰に、わざとらしく、まるで昼間に放送される安っぽいドラマの台詞のような言葉を書いてやることにしよう。相手の反応が見物だ。まるで指先だけが別の生き物として分離してしまったかのように、流麗で華美な文章がディスプレイの向こうの『恋人』を責めたてる。キーボードのタッチ音がリズム良く文章を生み出していく。

 忘れてしまったんですか、僕のこと。

 敢えて尋ねたことは無かったが、直近に恋人がいたという話を聞いたことは無い。こういう話題に対して奥手なこともよく分かっている。だがバーナビーが先に送ったメールの文面は、元々キースの言葉だ。あんなに柔和な印象を持っているくせに、キースには案外頑固なところがある。それに手を焼き、ついに貴方なんか知りませんと匙を投げると、知らないのかい、残念だ。私は君の恋人だよと重々承知していることを教えてくれた。彼なりにバーナビーをからかっているつもりらしい。

 僕は一日たりとも貴方を忘れたことはないのに。
 今からでも駆けつけて貴方の笑顔を見たいのに。

 バーナビーは怒っているというのに、それを何故だか嬉しげに愉快げに覗き込んでくるのだ。そしてバーナビーが照れを取り繕うことができずにいることを発見し、してやったりとまた笑う。

 悲嘆に身動きができなくなることを恐れて封じていた記憶が、メールにこじ開けられた小さな隙間から漏れ出して体中に広がっていく。思ったよりもずっと、穏やかにそれを受け止められた。それはキースがバーナビーに、穏やかなものを努めて渡してくれていたからではないだろうか。どうしていつも、失くしてから重大な見落としに気がつくのだろうか。同じ失敗を繰り返さないよう注意深く生きてきたつもりだったのに。相変わらず指先が勝手に動いて、さっさとメールをインターネットの大海に押し出した。

 会いたい。
 騙されても構わないから、彼が存在していることを信じさせてほしい。

▼09/17/1982 02:13
I can’t understand why you love me.

 仲間からそれはスパムメールだと助言を受けた、とメールにはある。だから送信者に直接スパムメールかどうかを尋ねる、というのは本当にいかにもキースらしいと思う。投影されたディスプレイについ指先が伸びる。思い切って笑い飛ばしてしまいたいのに、今喉を震わせればどんな慟哭が飛び出すか分かったものではなかった。バーナビーは冷静沈着でクールなスーパーヒーローのはずだというのに、論理的な全てを捨て去ってこの『二年前のメール』を受け入れつつあった。何よりきっと、受け入れたいという気持ちを捨て去ることができないのだ。

「仲間、か……一体誰だろう」

 ジョンをなるべく早く寝かしつけるために早々に照明を落としてある暗い部屋の中、呟きがぽつりと部屋に波紋を作る。ポセイドンラインのスタッフだろうか。多趣味な人だから何かの集まりで雑談の話題になったのかもしれない。あるいはヒーローの誰かだろうか。何かと仲の良いアントニオやイワンという可能性が一番妥当かと思い至る。特にイワンは折紙サイクロンとしてブログを続けている。PCに関する相談相手として浮上してもおかしくはないだろう。自分であればいいのに、と思わないわけでもなかったが、二年前の今頃ならその可能性は薄いだろう。

 バーナビーとキースの距離は、本当に唐突に近くなった。むしろ彼がバーナビーに唐突に飛び込んで来てくれた、という表現の方が正しいだろう。始まりの日は今でもすぐに鮮明に思い出せる。それがバーナビーの生まれた日だったものだから、日付まで克明だ。時間で言えば既に日付を跨いでいたと思うが。あれも二年前の話で、今では思い出せないようなちょっとしたきっかけから、多少交わす言葉が増えていたことはなんとなく覚えている。

「どうして……僕、なんでしょうか?」

 そうだ、あの日のバーナビーも同じような問いを相手に投げかけた。キースはどんな場所でも爽やかに輝くスカイブルーの瞳をぱちぱち、意外そうに瞬かせていたはずだ。それを見てバーナビーは、驚くのは僕のほうだろう、と腹立ちに似たものを覚えたものだ。

 美しく舗装された道に洒落た街灯が立ち並ぶだけの夜中のゴールドステージだ。ちょうど街灯の真下だったので、キースの顔が昼間よりも明るく照らされていたように思う。瞼の裏で今も、ティーンのような若々しいハニーブロンドが光を受けてきらきら光っている。

 誕生日をヒーローたちが祝ってくれたはいいが、虎徹とアントニオが酔い潰れてバーナビーの部屋で眠り込んでしまった。どんなに声をかけゆすっても心地よさげな寝息しか返らないので放置することに決めたのだが、起きれば介抱があるだろうと残ってくれたキースには随分と無駄な時間を浪費させている。さすがに玄関先で別れるのも気が引けて、散歩という名目で連れ立って歩いていた。そうして彼は、先ほどまでしていた最近の天気や彼の愛犬についての何気ない話の延長線のごとくバーナビーに想いを打ち明けた。もう少しバーナビーがワインを飲んでいれば危うく聞き流していたかもしれないと思う。

「……私と君とは全く違うだろう?全く」

 キースはひどく困った表情をしていた。その時はどうして僕が責めているみたいになっているんだ、と考えていたように思う。だが恐らくそれは、自分でもうまく言葉にできないものを苦心しながらアウトプットしている表情だったのだ。キースと共に居て、何度もそういう瞬間を味わった今なら分かる。

「だが……似ていると嬉しいと思う時がある。だからかな」
「はあ……」

 我ながら気の抜けた返事だった。キースはそれを笑って顔を正面に逸らす。照れているのだと気がつくのに間抜けなほど時間をかけた。

「納得いかないんだろう?」
「ええ……まあ」
「じゃあ、君の明日を必ず楽しいものにするから。そうして、私のことを一日ずつ好きになってくれたまえ!」

 バーナビーの中で、未来はいつも翻るものだった。虎徹が居なければ未来に向き合うことさえやめていたかもしれない。しかし、キースの照れ交じりの笑みを横から見つめて、ふと思ったのだ。もしかしたらこの人となら。暗闇の中でも前向きに笑顔を輝かせているキースとなら、一日ずつ翻らない未来を作っていけるかもしれない。バーナビーこそキースにずっと問いたかった。あんな光の中でどうやってバーナビーを見つけたのだろう。

▼09/26/1982 02:01
I’m not seeing anyone now but I found it might make me a bit lonely and a bit.

 『仲間』は引き続きキースに、『未来の恋人』からのメールを信じてはいけないと警告しているらしい。それはきっとそうだろう。バーナビーだってキースが突然そんなことを言い始めたら、まず正気を疑い、次にこの善良な男を騙した卑劣な相手を憎むに違いない。メールは、だから君の事を簡単に信じるわけにはいかなくなった、と続く。これもやはりキースの心根をよく表していて苦笑する。信じることのできない相手に対して過ぎる誠実というものだろう。バーナビーのほうはむしろ、これをキースと信じないわけにはいかなくなってきている。誠実をここまでさり気なく着こなしている男をバーナビーは残念ながら一人しか知らないのだ。

「寂しい……?」

 しかし、自分に今恋人が居ないことを申告する迂闊な一文の後の言葉に、バーナビーは戸惑った。それはバーナビーの中のキースに決して付加されない形容詞だった。思い返すキースの表情の大抵は笑顔だ。力を尽くして一日を使い切ることに精一杯で、いつも生命力に溢れている。むしろふと暗い気持ちに足を踏み込んだバーナビーの手を明るいところへぐいぐいと引いていくような人だった。

「寂しかった、のか。そうか……」

 だがキースもバーナビーと何も変わらない、歳もごく近い一人の男だ。バーナビーが見つけることができなかっただけで、そういう感情を抱くことがあったっておかしくはないのだ。

「あ、すみません。少し停めてもらえますか」
「いいけど……何?どうしたの」
「数秒で構いません。写真を撮りたいんです、あのお店」

 公園沿いの通りに新たな店ができたのを興奮気味に語っていたのはイワンだったか。キースに馴染み深い場所で、最近できた店なら全て良い被写体だ。怪訝そうにしつつもロイズが路肩に車を停車してくれたので、手早くスマートフォンを操作し、窓を開けてシャッターボタンをタップする。道行く人々に気づかれないうちにすぐに遮光ガラスの窓を戻した。もういいのかと問われて頷くと車が急発進する。体を進行方向に傾けつつ確認するギャラリーはさながらシュテルンビルト写真集だ。

「なんか昨日ぐらいからずっとパシャパシャやってねえか?」
「ええ、まあ……」

 言葉を濁すと不審に思われることは分かっていたが、どう工夫を凝らしても良い説明ができそうにない。できるだけこの相棒には嘘をついてごまかすようなことはしたくなかった。案の定、隣に座る虎徹は自身の太ももに肘を付いてバーナビーをじっと見上げている。言うのなら聞く、という体勢だ。

「虎徹さん」
「うん?」
「寂しかったんでしょうか、あの人は」

 突然出てきた指示語でも、意味は正しく伝わったらしい。虎徹は敢えて指し示す人物を問い返すようなことはしなかった。無言で視線を下方に落とし、思案するように自身の顎を撫でている。

「俺だってよく分かんないけど、あいつ結構寂しがりだぞ?仲間外れになると拗ねたり落ち込んだりさ……そういうとこはちょっとバニーちゃんに似てるかもな」
「……僕はそんなんじゃありません」
「はいはいっと」

 虎徹の横顔に浮かぶのは、からかうような言葉にそぐわない優しい笑みだ。ひょっとするとその視線の先にあるのはフロントガラスの向こうにある青空ではないのかもしれない。バーナビーのように、その澄んで高い空と同じ色をした瞳を連想しているのだろうか。

「あのな、バニー」

 ロイズを憚ってか声量は小さいが、真摯な声色だ。前方を見つめていた目線がちらりとバーナビーに戻る。

「過去は変わらない。絶対に、何があってもだ」

 昼下がりの陽光の中で絶妙な振動を与えてくる車中、虎徹の表情は眠たげで、いつも見るようなとぼけた表情だった。しかし重たげな瞼の奥にあるブラウンだけはごまかしきれていない。バーナビーの心の奥に刺さったまま抜けないガラス片を、その視線がぐっと圧迫している。分かっています、ほぼ吐息のようなバーナビーの弱い返事に苦笑して、虎徹は身を起こした。とん、とん、いつかのように背を叩かれる。

「未来ならぜーったい!変わるから。安心しとけ」
「貴方にそう強調されると、逆に不安だな」
「っだ!なんだそれ!」

 口では言い合っているのだが、虎徹の手はしばらくバーナビーの背でリズムをゆるやかに刻んでいた。物言わぬその優しさが有難かった。

 送る写真は決まっても、肝心の文面が思いつかない。虎徹の言う通りで、バーナビーも過去が不変であることは四歳から既に身を以って知っている。では『未来』にいるバーナビーが、『過去』にいるキースの信用を得ることに何か意味があるのだろうか。本当は、こんなメールはスパムだとさっさと削除してしまわなければならないのだろう。だが、過去だろうが現在だろうが未来だろうが、キースが寂しさを感じているのなら力になりたいと思う。力になってくれた分だけきちんと返したい。今すぐ部屋を出て行動に移せないことがもどかしくてしょうがなかった。

 一旦ディスプレイから目を外し、重く感じる頭を支えるように額に手を当てた。キースが見ていればきっと、寝不足が原因だとか暗闇で目を使いすぎだとか顔をしかめて指摘するに違いない。虚しい仮定を笑いながら窓の外に目をやった。時に競い合い時に協力しながら、共に守り愛してきたこの街のシンボルが、数多の輝きを従えて毅然と屹立している。スマートフォンを取り出してカメラを起動すると、彼が何よりも愛すこの街の平和が小さな長方形にぎゅっと凝縮された。

 僕はここに居る。
 ここで、貴方の心に寄り添うことを渇望している。

▼10/06/1982 02:40

「なるほど……」

 PCの前で思わず唸ってしまった。というのも、送られてきたのが『恋人』になら容易く、しかしバーナビーには達成不可能なミッションだからだ。写真を一枚撮って、ある場所に隠したから、それを見つけ出して裏に書いたメッセージを教えてほしい――これが遂行できればメールの真偽ははっきりすると言うわけだ。きっとキース自身の考えではないだろう。写真をそのまま送ろうとしたところを例の『仲間』が察知し、キースの意思を尊重した上でこれ以上の情報漏洩を防ごうとしたに違いない。一体誰なのか気になるところではあるが、ともかく今はこのミッションをどうにか切り抜けなければならない。二年後に貴方はいないので、などというメールをまさか打つわけにはいかない。

 顎に手を当て思案しつつ、何とは無しに部屋中を見渡す。部屋の隅のペット用ベッドでジョンの腹が規則正しく上下しているのが窺えた。

 当てが全く無いわけでもない。『恋人』と二年前のキースには時間という動かしがたい隔たりがあるのだ。その中で、誰にも知られずに長期的に物を保管できる場所は自宅が一番だろう。特に、生活サイクルの基盤を作り、ジョンを守ってくれる家にキースは絶大な信頼と愛着を寄せている。そしてバーナビーの知る限り、現在キースの部屋に立ち入ることができるのはこの世界でバーナビーだけなのだ。

 久々の里帰りはやはり嬉しいものらしく、キースの部屋に連れて行く度ジョンは以前の活発さを少し取り戻す。そうして部屋中を走り回って、しばらくするとまた静かにバーナビーについて回るようになるのだ。恐らくこの部屋に入ると、消えてしまった大切なソウルメイトがきっと見つかると期待してしまうのだろう。ろくに手も入れられないまま一年が経とうとしているこの部屋は、すっかり過去からも未来からも切り離されている。部屋の扉を開ける度、部屋の中を移動する度、ふわりとキースの匂いが鼻先にちらつき、どこかから明るい笑顔を覗かせないかと期待してしまうのだ。もうここまで来るとどれだけこの空間が止めていられるのか試したい気もしてくる――無論これは彼の名残を手放すことのできないことに対する建前だ。

 気がつけば音を立てないようにゆっくりと部屋の中を進んでいる。少しでもこの空間の時間を動かさないようにしている、感傷的な自分を笑うしかない。そうして辿り着いた書斎のデスクに回りこんだ。キーリングについているアナログな鍵二本のうち、小さな方を鍵穴に差し込む。実際にこの引き出しを開けるのは初めてで柄にも無く緊張している。ガタリと鈍い音を立てて手前に引くと、書類や手紙などの上に一枚の写真が無造作に重ねられていた。夜のジャスティスタワーを背景に笑う男が中央に写っている。柔らかそうなハニーブロンドと、穏やかな光を湛えるブルーアイズ。咄嗟に手を伸ばし取り上げ、その懐かしい表情に頬を緩めた。誰に撮ってもらったのだろうか。例の『仲間』だろうか。彼のはにかむような笑みを直接見ることのできたその見知らぬ誰かに羨望が尽きない。

I also hope to be there!

 写真の裏には10/01/1980という日付と共に、のびのびとした馴染みのある文字で一文が綴られていた。きっとバーナビーがここに居ると伝えたことに対する答えなのだろう。胸が苦しくなって、咄嗟に写真をその上に押し付けた。

「何ですか、これ」
「私の部屋のキーだよ」

 キーリングが繋ぐ大小二つの鍵は、ジョンと共に二人と一匹で夕焼けの中を散歩している最中に手渡された。キースにはどうにも時々突拍子の無いところがある。本人の中ではきちんと順序立てがあり、段階を踏んで行動しているようなのだが、その途中経過が表に出ないため戸惑ってしまうのだ。

「ジョンのこともあるから、君に私の家まで来てもらうことが多いだろう?もし良かったら使ってほしい」

 互いに出動や急な仕事が入ることが多く、運悪く待ち合わせのタイミングがズレてしまうことは確かにある。だがさほど頻繁とは言えないし、時間の浪費を待つ楽しみに換算できることを知ってからは、むしろそんな間の悪さも悪くはないと思うようになっていた。しかし、この鍵を持っている人間がキースのほかにどのくらい居るのだろうと思えば、その甘美さにも勝てない。結局は手のひらの上でカラカラと金属のぶつかる音を生じさせ黙り込んでいる。そうしてすぐに、小さい方の鍵が何の鍵か気になった。こちらは、と小さい鍵だけを持ってキースの眼前に突き出す。

「……これは、貴重品を保管してある引き出しの鍵なんだ。これも持っていてくれないだろうか?」
「引き出しの鍵、ですか?」

 それは恋人同士の信頼だとか、そう言った話とは次元が違ってくるのではないだろうか。すぐにはYESともNOとも言えないでいると、キースは少し眉根を寄せて笑ってみせた。困った表情とも呆れた表情とも違う、なんとも言えない笑みだ。

「実はね、私がスカイハイであることは親族にも友人にも誰にも、話していないんだ」

 キースの視線は、ジョンが闇雲に飛び出して怪我をしないよう正面に固定されている。少なくとも横から見る限り、夕陽の色をした彼の笑みに陰りは見えなかった。

「でも今は、君が居てくれる」

 ひょっとしてあの時から、キースはバーナビーにサインを送り続けていたのだろうか。キースがバーナビーにそうしてくれたように、どこか明るいところに引っ張り上げてほしいと思っていたのかもしれない。それを知らせるためにこのメールがある、そういう推測に辿り着き、だとすればそれが愚鈍なバーナビーへの罰でしかないことに愕然とする。今更知ったところで、バーナビーはキースに何もしてやることができない。気休めにもならないことを知っていながら、永久に言いそびれた言葉をキーボードに叩き込むほか無いのだ。

▼10/09/1982 00:36
Now I see who you are.

 そのメールを開いてからしばらく、体どころか思考までもが硬直し身動きが取れなかった。キースとの新たな関係が始まったのは間違いなく二年前のバーナビーの誕生日からだ。記憶違いは絶対にあり得ない日付である。しかも、今までキースが得ている情報から『恋人』について確信を得る何かがあったとは思えない。つまりそれは、決定的な何かが過去で生じたということを示しているのではないだろうか。

「僕……じゃない……?」

 喉から絞り出した言葉は予想以上の衝撃を頭に与えた。呆然とディスプレイにある一文を眺めていることしかできない。長い茫然自失からやっと逃れることができたのは、ジョンが不安げにバーナビーの膝に鼻先を押し付けてきたからだ。今、このソウルメイトが、バーナビーの過去にあるキースの存在を証明している。しかしメールの向こうのキースは、どうやらバーナビーを選ばなかったらしい。

 考えてみれば、バーナビーの誕生日を直前に控えているのに、正直者の文面にそれらしい片鱗が見て取れなかったことは注視すべき異変だった。過去が当たり前に繰り返されるものだと信じ込んでいたのだ。慌てて返信のボタンをタッチする。キーボードにそれは自分ではないと打ち込んで、はたと気が付いた。過去が当たり前に繰り返されるはずが、そうならなかった?そんなことはあり得ないと虎徹に釘を刺されたばかりだったはずだ。

 何かが、例えばバーナビーとのメールのやり取りが『過去』に影響を及ぼしているとしたらどうだろうか。キースの過去が今まさしくこの瞬間、劇的に変わっているとする。誕生日のバーナビーに想いを告げることもなく、一年後の同日に散歩に出る約束もせず、その日あんなに遅い時間にキースを一人で帰すこともなく、ドラッグで気を違えた男に遭遇することもなく、一人であんなところで――

 震える手を叱咤しながらテーブルに手を伸ばした。両親とサマンサの写真立ての傍に寝かせている写真を手に取る。彼のはにかむような笑みは彼の表情の中でも気に入っているものだった。その表面を軽く指でなぞり、キスをして裏返す。見慣れた筆跡で綴られた言葉を上にしてテーブルに戻した。

 死にたいと思って生きる人はいない。自ら命を絶つ人だって、そこまで自分を追い詰める何かが無かったとしたら、死に急ぐ気は起きなかったはずだ。誰だって輝かしい『未来』へ到達することを望んでいる。それができるだけ続けばいいと願っている。

 書きかけていた文章を全て削除した。PCを消してしまおうとして、メールが未送信であることを示す警告に阻まれた。変更をキャンセルしようとして、指が動かない。仕方なく本文を空白にしたまま送信のボタンを押す。最後にこれくらいは許されてほしいと思う。これがエゴに従ったバーナビーの唯一の抵抗で、せめてもの別れの挨拶だ。

「愛してますよ、僕も」

 一人の部屋で呟くにはあまりにも虚しい言葉だ。

 バーナビーはキースを永久に失ってしまった。これがバーナビーの現在を作る過去だ。ここでもし過去がうまく変わってくれれば、キースはこの未来へ辿り着けるかもしれない。だがそれはバーナビーの隣であることを意味しないのだろう。空白は言葉にならないバーナビーの叫びだ。
 寂しい。寂しいです、スカイハイさん。

▼11/01/1982 01:21
Happy Birthday, Barnaby!
I LOVE YOU!

「バーナビー……っ?」

 呼吸が止まる。ひとつ前のメール以上の衝撃が全身を襲った。このところ日々じりじりと感じていた焦燥がピークに達し、止まった心拍が早鐘を打って戻って来る。

 また今年も迎えたその日を、バーナビーは久々にほぼ一人で過ごした。仲間たちが無理にでも例年通りに祝ってくれようとした好意は嬉しかったが、余計に心配をかけてしまうだけだと分かっていたので丁重に断ったのだ。何の変化も見せない現実にバーナビーはじりじりと焦りを募らせていた。苦渋の決断が少しでも彼のためになったことを知りたいのに、何も変わらない日常を繰り返すことは苦痛でしかなかった。そこに飛び込んで来たのがこのメールだ。日付は何度確かめてもNC1980を示している。

「どうして……」

 キースの得た根拠がよく分からないが、あの日『分かった』と書かれていたのはバーナビーのことだったのだろうか。タイムスリップの数ある考察のうち一つは、多少のゆらぎを許しても未来が変わるほどの影響を及ぼすことができないと説いている。過去は化学法則の質量のように保存されていて、決して変えようがないのだ。

「もう嫌だ……嫌、なんです……失うのは……」

 キースが困るだろうからと、あの日から努めて零さないようにしていた涙を最早抑える術が何も残っていない。脱力しディスプレイを眺めながら喉を引きつらせる。う、ああ、言葉にならない声が漏れ出る。頬を拭う力も起きなかった。

「スカイハイさん……待ってください、もう少し……」
「バーナビー君……」

 キースは困ったような微笑を浮かべている。そうやって彼を引き止めるのはもう何度目だろうか。虎徹と飲み明かし、市長のベイビーとパオリンを危険な目に遭わせるという経験から、もう二度と深酒はしないと誓っていたのだが。昨年のリベンジとばかりに虎徹とアントニオに酒を勧められるうち、すっかり酩酊状態に陥ってしまった。大切な仲間と、そして特別な誰かと共にこんなふうに歳を重ねていけるだなんて、両親を亡くした時には予想もしなかった。簡単に言ってしまうと浮かれていたのだ。そのためすっかり予定が狂ってしまった。せっかく皆が持ち寄ってくれた食事を戻すほどの悪酔いには至らないようセーブできたが、じっとしていても船の上にいるようにゆらゆら揺れを錯覚する。とても歩けるような状態ではない。

「散歩は明日で構わないだろう?パトロールが終わってから行こう」

 子供に言い聞かせるような優しい声音に自分が情けなくなる。自業自得とはいえ、浅い呼吸を繰り返している恋人を置いて帰ろうとする恋人が恨めしくもあった。無言に非難を感じたのか、キースの眉尻はますます下がる。本当はキースだって帰りたくないことくらい分かっている。明日の朝早くに収録の仕事があるのだ。仕方ない、これくらいにしておくしかなさそうだ。腕を力なく上げて、指を内側に動かした。きょとんと目を丸めたキースが素直にリクライニングチェアに近づいてくる。

「わっ!バ、」

 相手が酔っ払いだと油断しているところを突いて、腕を思い切り引いた。傾く上体に両腕を伸ばして唇を塞ぐ。作戦は見事成功して、バーナビーがまたポイント差をつけたようだ。

「……っバーナビー君、お酒臭いぞ……!」
「いいじゃないですか少しくらい……今日は僕の誕生日ですよ」

 二人して不愉快な表情を維持しようと努力したが、結局はできずに喉を鳴らして笑う。満たされていた。キースとのやり取りのひとつひとつがバーナビーの心を隙間なく埋めている。

「散歩は明日の夜だ」
「ええ」

 もう一度唇を合わせるだけの挨拶をして、キースが離れていった。それを目だけで追っていると視線がふっと戻ってくる。どこかそわそわとしたいたずらっぽい表情だ。

「そう言えばメールは見たかい?日付が変わった時に送ったんだが」
「ああ……すみません、まだ……。今日は朝から忙しくて……」
「君は本当に市民たちから愛されているからね」
「貴方にもね」

 はにかんで笑う姿にバーナビーの口角もついつい上がる。後から思うに──こんなことなら時間の隙間を見つけてメールをチェックしておくのだった。もっと照れさせてやることができたかもしれないのに。キースが逃げるように片手を挙げた。もっと照明が明るければ、きっと赤くなっている顔が見えたのだろう。

「おやすみ、バーナビー君。また明日、また」

 バーナビーはこの、『明日』が来ないことを知っている。そのくせ、それでもキースと過ごした時間が消滅していないことに深く安堵していた。そんなあまりに救いようがない自分にただただ涙が止まらない。しかし、せっかく手に入れたキースのためのチャンスを、自分のために潰すような真似はやはりバーナビーにはできないのだ。自分に関わらなければ良かったのではないかという懐疑にも、もう疲れてしまった。

 それは自分ではない、削除したはずの文章をもう一度書き起こす。キースの性根はよく分かっている。こうすればきっと、『未来』の誰かを裏切ることをためらってくれるだろう。

▼11/01/1982 08:11

 インターフォンがずきずきと頭に響いた。呻きながらリクライニングチェアから身を起こす。壁一面を覆う窓ガラスが陽光を大胆に取り入れているせいで目を開けることができない。きっと今のバーナビーはハンサムと言い難い顔をしているに違いない。瞼がやけに重たく感じる。昨晩は――この早朝と言うべきか――そのまま幼子のように泣き疲れて眠ってしまったらしく目元がひりひりと痛んだ。投影されたままのディスプレイには新着メール一通と表示が出ているが、今はとても直視する気が起きない。立ち上がってひとまず洗面台に向かう。

 もう一度ベルが鳴り響いたので仕方なく進路を玄関に舵きりした。こんな顔だ、誰にも会いたくはないというのに。モニターを確認するが人影が無い。客人はもうドアの前までやって来ているのだ。そうなると、来訪者は事前にコンシェルジュに話を通してある人間に限られてくる。確率として一番高いのは虎徹だろう。益々こんな顔を見せたくはない相手だが、ドアの前で放置するわけにもいかない。PDAに応答すれば一発で居留守は分かる。ひとつ深いため息を吐き出した。根掘り葉掘り聞かれることが確実でも、もう諦める他はなさそうだ。のそのそと廊下を横切り玄関で開錠の操作を行う。

「すみません、お待たせし――」
「おはよう!バーナビー君!そしておはよう!」

 自分はまだ、夢を見ているのだろうか。言葉どころか一音すら出せず、扉の前に立つ人の姿をまじまじと見つめる。秋の爽やかな朝陽は、彼の魅力であるスカイブルーの瞳とそれが作る柔らかい笑みによく馴染んでいた。まるでキースがそこに立つために用意されたような秋空だ。

「スカイハイ……さん?」
「うん!」

 まさかと思って呼んだ名に間髪を入れずに返事がある。それが信じられない。これが最高の夢なのか、今までが最悪の夢だったのか、少しでも動けばキースをまた失ってしまいそうで身動きが取れない――そこで自分のおかしな思考に気がつく。『また』、『失ってしまいそう』?

「そんなに驚いたかい?少し早めに帰れたからジョンを迎えに来たんだ。おお、ジョン!ただいま!そしてただいま!」

 キースに飛び掛るジョンは相変わらずやんちゃだ。少し離れた都市の競技大会にゲストとして招かれていたキースがこの街を空けたのはほんの二日だ。バーナビーにとっても二人にとっても重要な日を共に過ごすことができないのは当然寂しく思ったが、四六時中キースと一緒に生活しているジョンでもあるまいし、大仰に驚いている自分が途端に恥ずかしくなってくる。ごまかすように笑ったつもりだったが、頬を滑るあたたかい感触に驚き、それも失敗に終わる。

「バーナビー君……!どうしたんだい、泣いているのかい?」
「本当だ……なんでだろう、止まりません……」

 拭っても拭っても次々絶えない涙に戸惑う。子供のようなそれが恥ずかしく、不安げに覗き込んでくるキースの顔を手のひらで遠ざける。そうすると少し拗ねたように顔をしかめられたので、止まらない涙はそのままだったが少し笑えた。

「また、夢見が悪かったのだろうか……」
「そうかも、しれません……」

 過去を受け入れて未来を生きていくと決めてから滅多に過去の夢は見なくなったが、全く無くなったわけでもない。今でもたまに火の海の中を走り回るような夢を見ることもある。だが最近はそういった夢にも必ず出口があって、大抵は笑顔がバーナビーを迎えてくれるのだ。

「でも、もう大丈夫です。貴方がいてくれるから」

 そうでなくては私も困るよ、キースが笑った。『酔い潰れても無理して夜の散歩に出かけて』、道端でキースに介抱された去年の苦い記憶が脳裏によぎる。一日遅れだが、今年こそはきちんと夜の散歩を楽しみたい。

 許可を得てもいないのにジョンと戯れながらキースがバーナビーの部屋に上がりこんでくる。その背を呆れて追い、ふと新着メールがあったことを思い出したが、受信トレイは昨日のままの状態だ。寝ぼけて見間違ったのだろう。

 君がどうしてそんなことを言うのか分からない。
 だが、もう私は君の名前を知ってしまったんだ。
 でも、大丈夫。どうか恐れないで。

 そこにいて、私を待っていてくれ。
 I love you, too.

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