文字数: 19,130

真ジャンル「つまりデレ」



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3805643
※名称無き秀徳モブ団出没
※さそり座の方すみません

 ボールを両手に収め、目標との距離を測る。手のひらから指先までの微妙な力加減を調整しつつ重心を下げた。ぐっと爪先に力を込めて足首をバネに伸び上がり、ボールを押し出す。スピンのかかったボールが鋭い音で空気を擦り上げ高いループを描いた。ゴールと己の間にあるのはボールの残す軌跡だけで、その外のどんなものも介在を許されない。試合と違い、スコアもタイムも敵も味方もそこには無い。何千何百と繰り返してきた反復の中で、好きだとか楽しいだとかそんな感情ですらとうに消え失せた。だが、この不変の瞬間を、飽きもせず繰り返し繰り返し見つめ続けてきたこともまた確かだ。軽快な音を立ててネットが揺れた。吐き出されたボールがてんてんとバウンドし、たまたま緑間の足元に戻ってくる。まるで主人に従順な犬のようだ。

 フー、細く息を吐く。体育館に敷き詰められた静寂がやけに煩わしく感じる。以前の緑間ならそれを邪念と断じただろう。物音ひとつしない体育館を一人で占領する、この環境のどこに問題があるのというのか。集中を促進させる要因でしかないはずだ。しかし今の緑間はこの空間に何が足りないのか知っている。楽譜から和音がひとつ落ちてしまった時のように、さり気なく些細に配置されているくせに欠ければ無性に落ち着かない気味の悪さを感じさせるのだ。

 纏わりついてくる静寂を振り払うようにスリーポイントラインに沿って数歩移動した。キッ、キッ、とバッシュが律儀に音を立てる。目測し、構え、伸び上がってボールを撃ち出す。放物線の終着点はゴールリングの中央に結ばれ、落下したボールがてんてんと跳ねる。それを追って位置を変え、目測。構え、

「しーんちゃん」

 動きが淀むことは無かった。最早機械よりも精密に体に刻み込まれたルーティンが最良の力加減を、高さを、速度をボールに与える。リングを掠らずネットをくぐるその音にも何の異変も無い。てんてん、またボールが跳ねる。だがそれは緑間から遠く離れ、ついには弾力を失ってコロコロと床を這った。

「ナイシューナイシュー」

 気の抜ける、呆れるほど愉快げな声音だ。ボールを追って首を後方へ捻れば黒いつむじがまず目に入った。呑気な声の主は床に手を伸ばし、ボールを跳ね上げて手中に収める。男が身を起こすと、いつもの斜に構えた笑みが一緒になってそこに現れるのだ。

「邪魔をするな」
「ワリワリ、タイミング計ってたつもりなんだけど」

 常人より幾倍も秀でた目を持っているくせに白々しい。指でブリッジを押し上げながら苛立ちを呼気に滲ませる。しかしこの男はこれくらいのことで動じるほど可愛らしい神経を有してはいないのだ。少しも構う素振りを見せず、へらへらとした笑みがぺたぺたと床を蹴る音と共に近づいてくる。

「失敗したな。使えん奴だ」
「ぶっは、ヒッデェ!これでも結構粘ったんだぜー?」
「結果が伴わなければ何の意味も無いのだよ」

 バッシュを履いていない時点ですごすごと敗走して戻って来たことは明白だった。体育館を継続使用するための交渉役を担ったというのに、実に情けない下僕である。ちなみに選別は公正かつ厳正にジャンケンで行われた。

「ま、しょーがないんじゃね?来週入学式だし。ここまで使えたのがむしろ奇跡だって」
「一人でモップがけでもしてろ」
「ぎゃっはは、ちょ、そりゃねーだろ!相変わらず自由すぎんぜ真ちゃんよー」

 大人しく片付けよーぜ、とボールをちんたらバウンドさせているので、床を思い切り蹴った。油断しているところを強襲する。靴下では足先のかかりがバッシュの比にならない。体勢を崩して尻餅をついたその手からボールを奪い、そのまま構えた。伸び上がってボールを指から押し出す。

「つまり?」
「……終わるまでいろ」

 情けなく座り込んだままのくせに、緑間の影に覆われたその表情はやたら楽しげだ。ザシュ、と空気を裂くような音が背中越しに聞こえる。当然、ボールがゴールリングを正確にくぐった音である。

「っしゃーねえなあ、怒られる前にさっさとノルマ終わらせろよ!」

 いかにも頼みを聞いてやっているという素振りがやたら鼻につくが、時間がもったいないので無視をする。ボールを手に取り再びシュートを撃つ背中越し、気の抜けた鼻歌が往来して静寂を留まらせない。ボールが正しくゴールに届いたなら、多少の不愉快に目を瞑ってやってもいい。

「結局怒鳴られて追い出されちまったし……っぷくく、マジウケるわ……!」
「意味が分からないのだよ」
「オマエ、マジ毎日シュート撃ちすぎ……!」
「人事を尽くしているだけなのだよ。今更何がおかしい」
「怒んなよー。別にバカにして笑ってるわけじゃねーって!」

 鋭い視線で咎めても一向に構わず、笑いを引きずったまま練習着を脱ぎ捨てている。釈明になっていない釈明に苛立ちは募るばかりだ。多少ならば目を瞑るが、多大な不愉快を容赦する気はない。前言撤回だ。こいつ、後で撃つ。

 翌週の月曜に新入生の入学式を控え、午前中にある課外授業は中止となり、体育館の使用も正午までとされた。午後からは生徒会の式次第の確認が行われ、夕方からは業者によるワックスがけが、日曜は丸一日を使用して会場の設営が行われるらしい。それに伴い自動的にバスケ部の練習も休みだ。一週間の練習量の配分が狂わされることに思うところは多分にあるが、ワックスがけと聞けば多少溜飲も下がる。最近、床の滑りやすさが気になっていたところだ。

「しっかし、こんなに早く追い出されるとはなーまだめちゃくちゃ明るいぜ?外」

 視線を追うようにして見遣る格子付きの窓はすりガラスが嵌め込まれており、春の陽気をぼんやりと部室へ落としている。いつもの帰宅時は黒一色に塗り潰され、遠い電灯の気配を僅かに滲ませる程度だが、今日見る長方形の額縁には粗末な抽象画のように部室裏の並木が描かれていた。

「高尾」
「おお?」

 着替えを続ける高尾を視界に収めつつも、視界の中心に据えているのは小さな窓だ。相手の意識がこちらに注いでいるのは分かっているが、目を合わせようとは思わない。未だ馬鹿笑いが収まらないのか、にやにやと浮かべられた底意地の悪そうな笑みが気に食わない。

「オマエの言う通り、今日は十分な部活動の時間が確保されなかった上に、自主練まで中断を余儀なくされたのだよ」
「おお」
「通常の土曜と比べると練習量は半分以下だろう」

「んまあ……そだな」

 にー、さん、しー、と指折りロスした時間を数えている様がいかにも阿呆っぽい。とぼけた反応に苛立ちを隠せず、思わず正面から睨むと満面の笑みが待ち構えていた。

「つまり?」

 眉根が寄り歯噛みしたくなるのをこらえ、長いため息を吐きながら眼鏡を押し上げる。しばらく沈黙で対抗することもできるが、結局は無意味なのでさっさとその戦法は捨てていた。だからさそり座はダメなのだ、胸中で毒づきながら口を開いてやる。

「ストバスに付き合ってやらんこともない」
「ぶっふぉ!」

 唾がかなり飛んだ。かかってはいないが汚い。そもそも、人が馬鹿にも分かるように言葉を噛み砕いてやったというのに、突然噴き出すとは失礼千万というものだ。やはり撃つ。

「高尾ォ……!」
「ぎゃっはははは、マジ真ちゃんサイコー!行く行く!オレもそのつもりだったしな!つかオレらどんだけバスケ好きなのよ!」

 一生のうち笑うという行為に規定量が存在するとしたら、きっと高尾のそれはとうに枯渇していることだろう。限界などとうの昔に超えているというやつだ。きっと老後には笑みひとつすら浮かばないに違いない。哀れな奴め。バシバシと背中を叩くこの馴れ馴れしさも毎度のことで、最早文句をつける気すら起きないくらいには諦めている。

「んじゃまずマジバでなんか腹に入れてー、んでコート行って……そんでラーメン食って帰ろーぜ!」
「勝手に増やすな」
「ウェイト増やすためだってー!」
「だからオマエはそうなのだ。栄養が偏っているだろうが、馬鹿め」
「そうってどういう意味だよ緑間オイ」

 先ほどと打って変わって恨めしげな表情で肩に触れているが、口の端に滲む笑みを隠し切れていない。放っておけばまた勝手に下品な笑い声が再生されることだろう。話もまとまったので黙々と帰宅の準備をする。

 ―――つまり?

 高尾がこの姑息な手段を使い始めたのは、初めて『他の奴とは絶対にしないこと』を実行した時からである。細い路地裏の壁に押し付けられ、更には後頭部にかかった手で身を屈まされ、散々好き勝手な振る舞いをされた後の一言だ。開口一番文句を付けるはずだった緑間の口が漏らしたのはたったの一音だった――は?今思っても先手を取らせたのは痛恨のミスだ。リバウンドもままなっていない。

『真ちゃんは人事を尽くしてるってのは、オレもよーく知ってるわ』
『当然だ』
『んで、オレに他の奴とは絶対しないことをしてくれるってわけだよな』
『それがどうしたのだよ』
『「オレとだけ」?』
『……何が言いたい』

 高尾が喉を鳴らして笑っている。目端にも口角にも囁くような声音にも笑みがある。それらは全てこの一年ほどですっかり見慣れたもののはずだが、何故だかまるで知らない人物が目の前に立っているようで気分の据わりが悪い。

『つまり?』

 緑間が黙秘でやり過ごす対処法を捨てたのもこの日からである。しつこく諦めの悪い追求に我慢の限界が来て、怒りとともに吐き出すことになった言葉はもう二度と思い返したくもない。最初のうちに言葉を選んでおけばまだ失点は少なかっただろう。回想すら不愉快で、それを振り払うようにため息を吐き出した。すると、高尾が右の上腕のあたりを指でつついてくる。部室を出る準備が整ったらしい。

「っし、んじゃー右よーし!左よーし!」
「馬鹿にしているのか?」

 元より緑間と高尾しか居ない空間なのだから、左右を確認する必要がどこにあるのか。目元に手のひらを当て、周囲にきょろきょろと目を配っていた高尾が口角を引き上げる。分かっている、これがただの合図だということは。あまりの白々しさに呆れていただけだ。

 高尾の指先がまた腕に触れ、なぞるように下りて手首を掴まれる。緑間は腕を引いて距離を詰めさせ、丁度良い位置にあるつむじに唇で触れた。練習の後だ、ぱさついた髪が鼻先を掠め、汗の匂いが高尾のそれに入り混じっている。もう一度頭頂部に触れ、少し屈んで湿った額に触れた。鼻筋に唇を沿わせると、くすぐったいのか高尾は身じろぎ、強い力で緑間の腕を引っ張り返した。その力に従ってベンチに追いやられ、身長差が大きく逆転する。先ほどもそうだが、高尾はバスケの話題でなくても体格の話になるのを嫌がる。分かりやすい弱みなので突きやすくて良い。

 見上げる高尾の表情はやはり笑みだ。抑えきれない様子でくっくと喉を鳴らしながら眼鏡のブリッジに指をかける。反射で目を閉じれば、無遠慮に引き抜かれ、たちまち世界がぼやけた。目を細めようとする前に見える距離まで高尾の顔が近づいてくる。仕返しとばかりに唇で顔中に触れてきた。むずがゆさと据わりの悪さに身じろぐ。いつもよりもかなりしつこい。

「おい……っ、んむ、」

 抗議しようと上げた左手を弱く掴まれ、開いた口が塞がれた。これを狙っていたのかと呆れていたが、唇に触れてからも長い。何度も何度も角度を変え、深さを増し、呼吸ごと奪われ高尾だけが体内に取り込まれていくような錯覚で息苦しい。鼻に抜けるような小さな声と熱い吐息がゼロ距離で溶ける。段々舌の感覚がおかしくなってきた。自由な右腕で高尾の丸くなっている高尾の背中を叩く。

「……い、い加減、行くぞ高尾」
「……ん」

 高尾は最後にもう一度唇を押し付けて身を離した。小さく音が漏れる。差し出した手に眼鏡が乗せられたのでやれやれと立ち上がれば、矯正された視界の真ん中で物言いたげな両目が見上げていた。何度も言うが、だからさそり座はダメなのだ。仕方なく身を屈め、緑間も高尾の唇に軽く触れてすぐに離した。にやにやとした笑みが不快だ。ロッカーを閉め、エナメルバッグ片手にさっさと方向転換をする。待てよ、と慌てた声に少し溜飲を下げた。

「あのさあ、真ちゃん」

「何だ」

「オレさー……明日から本気出すわ」

 つい振り返ってまじまじと高尾の顔を見つめてしまった。その緑間の反応は想定外だったらしく、高尾はきょとんと目を丸めている。無性に苛立ちが募り、左手を眼下の丸い頭に乗せる。指のかかりは悪くないボールだ。

「出し惜しみとは高尾のくせに生意気なのだよ」
「イテェイテェ!オレの頭はボールじゃねぇってんだろバカ!」
「仕方ないだろう。握りやすい大きさと位置なのだから」
「うっせー!」

 ぎゃあぎゃあとやかましいので仕方なく手を離してやる。高尾は不躾にも人相悪く緑間を睨み上げているが、無視を貫いて進行方向へ体を戻した。まさか高尾が本気のプレイをしていないなどとは思わないが、インターハイはすぐだ。卒業生と新入生の入れ替えでチームに不安定要素の出現が予想される中、今はなお気を引き締めるべき時である。本気ってそーいうこっちゃねーし、などとぶつぶつ呟いている高尾を引き離すように部室の外へ出る。高尾もそれに続き、手早く鍵をかけ小走りで隣に戻ってきた。

「とにかく!頑張るわ、明日から!」
「今日からやれ」
「アテっ!……ったく、今日くらいいいだろ?来週はもう先輩なんだし?」

 拳を振り下ろした頭を撫でつつこぼされた言葉に怪訝な目を向けるが、言葉が補われることはない。珍しくあいまいな笑みが返ってくるだけだ。この時にもう少し踏み込んで詰問していれば、と後になって思わないこともなかった。しかし緑間がそこまでしてやる義理が一体どこにあるのか。高尾がしつこく、諦めが悪く、面倒で嫉妬深いさそり座なのが悪いのだ。

「高、」
「ワリ真ちゃん!ちょっと借りてる!」

 顔を上げず、一瞥すら寄越さずに高尾は緑間の言葉を奪った。眉間の皺が深くなっていくのが分かる。朝のHRを控えた教室には殆どの生徒が揃っており、緑間の険しい視線を避けるようにしながらも、そわそわと事態を伺っている気配が喉元まで迫ってきていた。煩わしい。つい先月まで居た教室ならば、きっとこちらに視線を動かす者すら少なく、始業までざわざわと好き放題に騒いでいたことだろう。進級して一ヶ月が経とうとしているが、緑間に対する同級生の空気は未だよそよそしく、物言いたげな空気が心底煩わしい。相手に何かしらの言動を期待する無言や視線を緑間は甘えだと考えている。言いたいことがあれば言え、無視をするなら貫くのだよ。

 フー、長いため息を吐き出して眼鏡をブリッジで押し上げる。通学鞄とエナメルバッグを他人の机に当てないようにしつつ細い通路をずかずかと踏み抜く。目指すは中央の列の中ほどにある高尾の机だ。高尾が緑間の席を使っている以上、そうする外は無いだろう。練習着やタオル、教科書やノートなどぎっしり物の詰まった二つの鞄が着地する音は重たい。緑間が高尾の椅子に腰を下ろす音も同じくだ。

 時計を確認すると平時より十分ほどの猶予がある。一限目にある小テストの準備がまだだと、着替えも半ばに部室を飛び出した高尾のペースに引きずられる形になってしまった。不本意だ。後で文句をつけてやらねばなるまい。もう一度ため息を吐き出しながら通学鞄から文庫本を取り出す。そもそも、予習も復習も眠る前に終わらせておくべきものだ。人間は眠っている間に記憶を定着させるのだから、それが最も効率的である。

 緑間の席は窓際の一番奥だ。平均を大きく上回る長身が緑間の座席をほぼ固定している。これに関して高尾は頻繁にずるいずるいと零しているが、別に身長は緑間の意図で伸びるわけではない。恨むなら己の遺伝子の配列を恨むのだよ、チビめ。今日は朝から快晴で気温も比較的高いため窓が全開になっており、時々微かな風でカーテンが小さく動く。それに合わせ、黒い前髪も一筋二筋舞い上がって落ちる。開かれた英単語帳のページが浮いたが、高尾は気にせず熱心にノートへ文字を連ねているようだ。薄い唇と鼻梁のあたりの柔らかい線が幼くあっさりした輪郭を作っているが、鋭い角度で刻まれた目尻がその印象を引き締めている。この男の有する最大の武器は、朝日を受けてやはり炯々として見えた。朝練の熱が冷めやらぬらしく、人の椅子に学ランをだらしなく引っ掛け、シャツの袖を捲くっている。

 チラチラとその横顔を物珍しそうな視線が往来しているのが遠目にも分かった。腐れ縁とでも言えばいいのか、進級しても同じクラスに在籍している高尾だが、緑間と大きく違うのは新しい教室に踏み入れてすぐにこのクラスに馴染んだところだ。元々交友の広い高尾にクラス替えが与える影響など微々たるものだったということだろう。教室に入れば一人に肩を叩かれ一人に声をかけられ、たちまち騒々しくなる。だからこそ、二年生になってから高尾は迷惑にも緑間の席を占領してくるようになった。曰く――オマエがコエーのか一番後ろだからかこの席人寄ってこねーし、なんでか集中できんだよなあ――らしい。本来ならふざけるなと教室から撃ち出してやるところだが、今のところ緑間はこれを許容してやっている。と言うのも、この高尾の特性が緑間の身長のごとく当人にとって意図しないものらしいからだ。今も、普段と違い大人しい高尾に好奇の視線が集っている。すぐにも崩れて祭りでも始まりそうな危うい均衡だ。近寄りたくない。加えて高尾は緑間と並ぶレギュラーメンバーであり、成績悪化が練習に食い込めば却って多大な迷惑を蒙る。せいぜい悪足掻きするのだよ。緑間は文庫本に視線を落とした。何故だろう、五分も経って一行も進んでいない。気味の悪い違和感が緑間の集中にちくちくと細い針を突き立てている。

「あの……緑間君!」

 半ページ進みもしない内に、唐突にすぐ横で声が湧いた。顔を上げると緊張で表情を硬くした女子生徒と目が合う。小さい。緑間より背丈のある女子生徒など存在しないだろうが、それにしても緑間が座ったままでもほぼ目線は変わらないのではないだろうか。クラスメイトであることはかろうじて記憶しているが、名前までは浮かんでこない。思い返す限り何の接点も無いはずだ。

「何だ」

 えっとだとかあのだとか一向に進まない話に焦れて先を促す。一瞬怯むように口を閉ざしたが、意を決したのかもう一歩机に近づいてくる。そこで、女子生徒の手に数冊のノートが抱えられ、その一番上に緑間の名があることに気がついた。先日提出した物理のノートだ。教師に返却を頼まれたのだろうと手を差し出すが、ノートがなかなか渡ってこない。

「あの……良かったら、だけど……物理のノート見せてもらったりできないかな……。緑間君のノート、先生にすごく褒められてたから……」

 前学期なら間違いなく断っている。何故ならそういう言葉をかけられる時、既に数本のおしること引き換えに特定の人間に貸し出された後だからだ。しかし今ノートは女子生徒の手中にある。加えて、記録に重きを置く物理教師の評点は辛い。提出日前ギリギリに声をかけるのでなく、評価を受けた上で改善のために高い目標を探す姿勢は多少好感が持てる。

「……構わないが」
「あ、ありがと!できるだけすぐ返すね!」
「ああ、予習がある。放課後までに必ず返せ」
「うん!分かった!」

 周囲の幾人かがほっと短い息を吐き出す気配がした。怪訝に思って周囲を見渡すが目を合わす者はいない。心底煩わしく顔をしかめていると、すぐ真後ろでやっと目が合った。やや上方から高尾がぼうっと緑間を見下ろして突っ立っている。

「終わったのか。ならさっさと声をかけるのだよ。HRが始まるだろう」
「あーうん、ワリーワリー。サンキュー」

 感謝の念など微塵も感じない間延びした声音に呆れる。これみよがしにため息を吐き出しながら立ち上がったが、高尾は緑間の挙動を見守るだけで口を開こうともしない。自分がおしるこを何本も注ぎ込んだノートが無償で他人の手に渡ったのが惜しいのだろうか。心構えの違いなのだよ、馬鹿め。そこまで考えてふと気がついたが、進級してから高尾は一度も緑間にノートを貸せと頼み込んでいない。以前はHRまで緑間の前方にある他人の席を陣取り何かと話しかけてきたものだが、最近はそれもない。担任教師がやってくる前にと足早に自分の席についたが、拭いきれない違和感に身じろぎをして座りなおす。開いた窓から流れてくる風も、椅子に残った温度も、随分とほのかで生ぬるく静かなものだ。

 午前の授業が終了した鐘が鳴ると同時に、それまで教師の声以外は潜められていた音が一斉に室内を満たす。その内訳を大きく四分すると、椅子の脚が床を引っ掻く音、教材や文具が乱雑に机や鞄に放られる音、安堵したようなため息と、昼休みに浮かれる歓声だ。その洪水の最中でも緑間の机上には静寂が確保されている。弁当を取り出してちらりと目を上げた。丁度財布片手に教室を出ようとしている高尾と目が合う。一瞬目を丸めた高尾は、いつものクセのある笑みを浮かべひらひらと手を振った。そのまま廊下へ出て行く。

 一年生の頃はほぼ毎日、昼休みが始まるなり高尾が近寄ってきて昼食を共にしていた。だがこのところその比率が完全に逆転している。特に約束を交わしていたわけではなく、食事中に喋るという行儀の悪い習慣も無い。BGMの有無ほどの差であるため、特に追及したことはないが、クラスが変わってまた新たな付き合いでもできたのだろう。弁当箱の蓋を持ち上げたところで、前方の席の男がくるりと振り返ってきた。

「なー」

 笑顔ではあるが、やはりどこか硬い表情だ。続きを視線で促してもその表情のまま固まっているので埒が明かない。何だ、と仕方なく本日二度目の催促を口にするはめになる。隣の席に集っている男子生徒たち数人が、あからさまに好奇の視線を向けてきた。眉根が寄る。

「緑間ってさ、めちゃくちゃバスケ上手いんだよな?」

 返事があったことで気が緩んだらしく、ようやく用件が語られる。心底どうでも良く、無意味な質問である。ここはコートではなく、目前の相手がバスケ選手でない以上、緑間の言葉を裏付けるものは何もない。ここで緑間が肯定をしても否定をしても真偽は確かめようもなく、即ちこの質問には意味がない。しかし目前の男はじっと緑間の言葉を待っているようだった。煩わしい。

「……オレは人事を尽くしている。それだけなのだよ」
「なんだそれ!?上手いってこと?なんだよな?」
「オマエよりはな」

 事実を述べただけだが何故だか冗談と取られたようだった。左半身には陽光が、右半身には控えめな笑いが浴びせかけられる。不本意ながら、わざわざ訂正するほどでもない。箸を動かし粛々と昼食を取ることにする。

「緑間ってちょいちょい謎だよなー」
「その延長コード何用?バスケ部ってこんなの要るの?」
「おは朝でやってる占いのラッキーアイテムだよ。コイツ一年の時から毎日コレだぞ」
「キセキの世代ってやつなんだろ?いつもスゲーよなインターハイとか」

 昨年のインターハイは予選敗退だがな。

 頑なに無視を貫く緑間の態度からいったい何を勘違いしたのか、矢継ぎ早に取り留めのない言葉をかけられた。ついには机ごと移動が始まり、同級生という接点しか持たなかったはずの人間たちにあっという間に包囲される。そう言えば今日のかに座は10位だったか。本当によく当たる占いなのだよ。

「オレもミニバスやってたんだぜ!これでも」
「今はやっていないのか」

 咄嗟に返事をしてしまったのは、前の席に座る男が体格に恵まれており、バスケに向いていると時折考えていたからだろう。分かりやすく喜色を表現し、中学で出会ったラグビーがどれだけきつく苦しいかを切々と語っている。米飯が半分ほど減った。興味は無い。緑間が無反応でいることで、会話に沈黙が増えてくる。焦った様子で身を乗り出して来たので箸で摘み上げた鮭ごと身を引く。

「エンド……センターラインからシュート打って絶対入るってアレマジ?じゃないよな……さすがにそんなんできたら誰も勝てねーし……」
「ああ」
「あーやっぱ……」
「そんな手前ではない」

 箸を置き、男を正面から見つめ返した。この点だけは訂正しておかなければ気が済まない。しかも、エンドラインから撃てるという話を知っていて、その信憑性を疑い、センターラインに修正した挙句にその成功すら疑っている様が気に食わない。舐めているとしか思えない。

「オレのシュート範囲はコート全てだ」
「マジかよ!?人間じゃねーじゃん!」
「え?なにどういうこと?」

 周囲がにわかに騒がしくなり、前の席に座る男が興奮気味に緑間の言葉の意味を解説している。それにチームメイトも加わり収集がつかなくなっていくのが分かった。不運なことに次の授業は体育、男の無意味な質問の答えを緑間は自ら裏付けることになってしまったようだ。

「ぶっは、なに、なんで、ちょ……!」
「人間に理解できる言語を話すのだよ……」
「やくざとか……そっち方面の方っすか……っ!」

 教室に居た生徒たちと共に体育館に現れた緑間の耳に、聞き慣れた笑い声が障る。不機嫌を隠さない緑間がクラスメイトを引き連れている様がよっぽど愉快らしく、身を折って苦しそうにしている。意味が分からない。そのまま笑い死ね。本望だろうが。

「……早いな」
「まーな!早めに食い終わったからちょっとボール触ってたんだよ」

 未だひいひいと苦しげな呼吸を漏らしながら、高尾が手に持つボールをバウンドさせる。視線が自然にその動きを追い、高尾がバッシュを履いていることに気がついた。今日の体育は体育館を使うことが決まっているだけで、バスケをやる予定だとは聞いていない。ボールの感触を確かめるにしても随分用意がいい。緑間のそんな思考を知ってか知らずか、部室に体操服置いたまんまにしてたんだわ、と高尾は苦笑してみせた。

「んで?オマエは?」
「オレたちが連れてきたんだよ!」
「高尾ーいいとこにボール持ってんな!」
「緑間!頼むぞー!」

 緑間が始終黙り込んでいても、周囲に居た人間が勝手にこれまでの経緯をわめいている。案の定、高尾は笑いを堪えられないらしく肩を小刻みに震わせた。「堪えられない」より「堪える気がない」が正確か。問答無用で撃つ。

「ぷふっ……オマエもう完全サーカス状態じゃん……!」
「黙れ。さっさとボールを寄越すのだよ」

 当然、抵抗はしたのだ。緑間のシュートは見世物ではない。しかし、一度だけでいいからと数人に詰め寄られ、どこから緑間の好みを聞きつけたのかおしるこを献上され、チームメイトにバッシュ取ってきてやるから見せてやればと叩き売られた結果、これ以上の面倒を避けるための代償を払う必要が生じたのである。深いため息を吐きながらテーピングをペリペリとほどいていると、視線を感じた。

「高尾?」
「うん、ボールね」
「なんだ」
「いんや別に。ほらよ」

 ほどき終わったタイミングでボールがパスされる。手に馴染むその感覚を確認して数度バウンドさせる。何だその顔は。誰のせいでこうなったと思っているのだよ。

 目測、構え、床を蹴ってボールを手放す。いつも通りの軌道が半円形の天井に沿って刻まれる間は、何者もゴールと緑間の間を阻むことはできない。煩わしい好奇の視線も無責任な野次も何もかも。つまり、あっても構わないものは不愉快でないBGMだけだ。

 ダンッ、とリングの中央をくぐったボールが床を叩いた。より騒がしくなった周囲に呆れながらブリッジを押し上げ、振り返る。高尾は笑顔で小さく肩を竦めただけで、口を開く素振りもなかった。

「んじゃ、帰っか」

 高尾がパタンとロッカーの扉を手のひらで押し閉め、わざとらしく大きなため息を吐き出し、首を捻り少し上方の角度でそれを固定する。いつもの動作に伴うのはいつもの愉快げな笑みで、何がそんなに楽しいのか嬉々として緑間を覗き込んでいる。部活になれば毎度この調子なので、恐らく部活がバスケ馬鹿に効く唯一の特効薬ということだろう。面倒かと思えば単純な奴だ。

「待て高尾!マジバ寄って帰るぞ!」
「今からっすか?」
「なんか文句あるのか?」

 高尾の学生服のカラーを後方から掴んだのは冬からの新主将だ。冬休みや春休みの間は、自主練習に打ち込んでいる内に緑間と高尾の二人だけが体育館を占有しているということがままあった。しかし新年度が始まり、新入生が入ってきてからというもの、最終下校の時間ギリギリまで居残って自主練習に励む者は次第に増えていった。新入生とは言ってもバスケの腕に自信を持って名門校の扉を叩いた実力者揃いだ。受ける刺激は大きい。特にレギュラーメンバーの練習には熱が籠もっている。今もロッカー内には1軍メンバーのほぼ全てが揃っていた。

「……どーせオゴリじゃないんすよね……」
「当たり前だろ!大坪さんじゃないんだオレは!」
「ちょ、どんないばり方っすか……!」

 高尾が主将のおごりだと騒ぎ立てると、その場に居た数人がオレもオレもと輪を作っている。プレイヤーとしては攻撃的なPFだが、チームメイトにはよく好かれている。緑間が秀徳を選んだのは代替わりも計算に入れた上でだ。監督と卒業生たちの人選は納得のいくものだと思っている。

「オレは結構です。失礼します」

 ただ、大坪さんは餃子までおごってくれていたのだよ。主将から向けられた視線に会釈を返す。かわいくない後輩だなと頭頂部を無遠慮に手で払われた。礼儀は尽くしたというのに、先輩という存在は大抵理不尽だ。乱れた髪を手櫛で整え、二つの鞄を持ち上げた。

「……明日な」
「ああ」

 先ほどまでの上機嫌はどこへやったのか、声をかける高尾の表情は笑みになりきれていない。毎週金曜日の部活後はラーメン屋に寄って帰るのが定例になっていた。何か特別な意味があるわけでもなく、最初に行った日が金曜だっただけだ。敢えて理由を挙げるとすれば翌日が土曜であり、登校時間が少し遅くなるためか。しかしそれを約束として明言したことは互いに一度としてない。案外律儀な奴だ。何を気にすることがあろうか、と黙って踵を返した。不満など何も感じていない。帰宅すれば母親が夕飯を用意している。

 次第に日が長くなっているとは言え、九時を過ぎた空に陽光の名残があるはずもない。ざりざりと地面を踏みながら、細い電灯の光に照らされた帰路を辿る。部活中にいつも使っている水呑場を横切る際、ふと気配を感じた。立ち止まって目を凝らすと誰かが蹲っている。

「何をしているのだよ」

 黒い学生服の塊がびくりと揺れた。そのすぐ傍には、てらてらと電灯の光を反射するエナメルバッグが放られている。見慣れたデザインではあるが下ろし立てであることは一目瞭然だ。新入部員だろう。上げられた顔はほの明かりの中であることを差し引いても蒼白だった。確かに見覚えがあり名前も辛うじて浮かぶ。退部者が連日続くとはいえ新入部員は数十人いる。それでも記憶にあるのは、一年生にしてかなりの時間を自主練習に割いているためだった。

「意識はあるのか。動けないのか?」

 しばし呆然と緑間を見上げるだけだったが、数拍おいて緑間の問いに答えが返ってくる。部活終了後からずっと吐き気が止まらず、トイレに駆け込んで戻したはいいが、今度はめまいが止まらず意識を失うようにしてこの場で眠り込んでいたらしい。

「飲め」
「いやあの……」
「飲んでおけ」
「っす……」

 緑間がバッグから引き抜いたスポーツドリンクを後輩はおずおずと受け取る。差し入れとしてもらっていて口を付けなかったものだ。教師や医療機関に連絡を取ろうと考えたが、意識もはっきりしているようだし、本人曰く気分もかなり良くなったらしい。喉を鳴らして水分を補給する様を立ったまま見下ろす。勢いがつき過ぎて咳き込み始めたので思わずため息が漏れた。

「自分自身の状態も把握できない奴がいくら練習したところで無駄なことなのだよ。勘違いにも程がある。技術以前の問題な、」
「分かってます」

 憮然とした声が緑間の言葉を遮った。随分生意気な後輩だ。これ以上言葉を重ねてやるのも馬鹿馬鹿しい。人の話を遮る程度の元気なら残っているのだろう。立てと命じ、強制的に水呑場を立ち退かせる。学校を出るという同じ目的を持っている以上、道を分かつはずもなく黙々と並んで歩く。

「……オレのシュートが落ちて負けるとこ、もう見たくないんっす」

 呟きは小さく、どの部活動も引き上げてしまった校庭脇でもなければ聞き逃していたことだろう。ふと、この男が記憶に残ったもうひとつの理由に触れた気がした。ハーフコート用のゴールでひたすらシュートを打ち続ける様が視界の端に映っていた。

「だから秀徳に来たんだ」

 後輩が顔を上げ、緑間の横面に強い視線をぶつけてくる。睨んでいるのかと疑うほどだ。

 残り二年、秀徳のSGというポジションが緑間以外に譲られることはないだろう。驕りではなく、実力差が事実として歴然とそこに横たわっている。しかしそれを妬むでもなく、遠ざけるでもなく超えるべき目標とする姿に――既視感がよぎった。そう言えば物理のノートを貸した同級生にも似たようなことを考えただろうか。

 ――……けど今さら敵意なんて持ってもイミねーしな

 そうか、この思考に至ったのはもう一段階前に理由があったのか。

「先輩、電車っすか」
「……そうだが」
「オレもっす」
「そうか」

 深いところに沈みかけた意識を引き上げた会話はすぐに終わり、その場に沈黙が降りる。内容からすると最寄り駅までは並んで歩くことになるだろう。人通りの少ない学校付近で倒れられても寝覚めが悪いので都合が良い。そのまま特に会話を交わすこともなく、薄暗い道を歩いた。普段より随分時間がかかって感じるのは弱った人間と平行して歩いているからだ。気分的な問題ではない。

「あ、真ちゃん?」

 照明に照らされた駅名を眺めつつ、駅前の交差点の信号が変わるのを待っていると、耳慣れた声が沈黙に割り入る。目を遣れば高尾が駆け寄って来るところだった。交差点の手前で折れた先にある駐輪場から戻ってきたところらしい。

「結構ダッシュで漕いだのに追いつかねーと思ったら、追い越してたんだな」

 信号が青に変わり、淡々と間延びした童謡を吐き出し始めた。歩き始めるタイミングで後輩が高尾に小さく挨拶をしている。高尾はそれに珍しく鈍い反応を返し、緑間をじっと見上げた。

「なんだ」
「あーいや。ちゃんと先輩してんなーって思って。ワガママ三回の唯我独尊真太郎クンがすっかり大人に……」
「馬鹿にするのはやめろと言っているのだよ」
「おっと!いつもやられっぱだと思うなよ緑、いっで!ちょバカ足は反則だろーが!」

 生意気にも拳を防がれたので、足の裏でふくらはぎを攻撃し、高尾を横断歩道から押し出す。マジバに立ち寄る話は流れでもしたのだろうか。よく財布の中身が数十円単位であることを嘆いているので、今回もそういう事態に陥ったのかもしれない。計画的に使用しないからこういうことになるのだよ、馬鹿め。

 もしこの言葉が緑間の口から出ていれば、高尾なりの言い分と、人のことを言えるのかどうか分からないラッキーアイテムへの支出額に対する指摘があったに違いない。しかし高尾はやはりあいまいな笑みを浮かべたまま、緑間が何かを口にする前に、飽くまで陽気を装って手を挙げるだけだ。

「じゃな、明日」

 これが、ここ一ヵ月半ほど恒常的に見られた現象である。

 それが何故、今この瞬間、緑間の脳裏を春一番のように駆け去っていったのかは分からない。今の季節は五月初めの初夏であり、居並ぶ窓全てが開け放たれた廊下には梅雨の気配を滲ませた湿った空気が流れ込んでいる。陽の出ていた午前中は肌にじわりと汗が滲む程だったが、今は昼前に降った小雨で風が出てきて少し肌寒い。天候も気温も不安定だ。廊下にはひと気がなく、横切る教室から教師の声が聞こえる以外は音がほとんど無い。重い通学鞄とエナメルバッグを抱える緑間の体重を受け、ぎゅ、ぎゅ、と上靴と廊下が接触する音だけが鈍い。

 高尾について考えることになった要因なら明白ではあった。今向かっている保健室には高尾が居るはずで、そのために緑間は下僕の荷物を運んでやっているのだから。昼休みの終わる五分前に主将がわざわざ訪れ、放課後で構わないからと緑間に押し付けた仕事だった。

『まあ、朝晩の自主練はなんとかやってるって感じだったけど、昼までやってたらぶっ倒れもするだろうな。たまたま様子見に行ったらぐったりしてるから死んだかと思って焦ったわ。大したことなくてホント良かった』

 「部活に来なくていいから休めって伝えとけ」だとか、「オマエからも強めに言っとけ」だとか不本意ながら他にもいくつか雑用を命じられた。主将たちは高尾に無理を止めるよう言い聞かせてきたらしい。それでも聞く耳を持たないため、緑間も同じように匙を投げたのだろうと思い込んでいるようだ。だがそんな事実はそもそも知らない。言われてもいないし、尋ねてもいない。何故オレは主将からそのことを聞いているのか。気分が悪い。

 苛立ちを磨り潰すように歩いていると、いつの間にか保健室の前だった。ためらわずノックをして、失礼しますと断ってから重いドアをスライドさせる。が、正面にあるデスクに教師の姿が無い。不審に思いながら近寄ると、保健室を使用する際は職員室で許可を得るようにとの書き置きがされていた。ドアに貼るつもりだったものを忘れていったのか裏に両面テープが貼られている。

 それなりの建前を用意してはいたが、使わないに越したことはないだろう。書き置きをデスクに戻してベッドを見遣る。一番奥にあるものだけカーテンで囲まれており、他のベッドは空だ。歩み寄り、カーテンに手をかけた。

「真ちゃん」

 まだ開いてもいないし、声をかけてもいない。少し驚くが、ドアを開けた際に声を発したのだった。

「起きているのか。まったく、オマエは……」
「ワリ、閉めたまんまにしてくんね?」

 チリ、カーテンが緑間の指先に引っ張られレールで小さく音を立てる。頼む、という高尾の声に笑みの気配は全く感じられない。無視してカーテンを開け放つのは容易だが、緑間は結局そうしなかった。カーテンから指を離し、鞄を床に下ろす。すぐ後方にあるベッドに乱暴に腰を下ろせば、スプリングの無い硬いベッドがギシリと悲鳴を上げた。

「何故だ」
「ダセーから」
「……馬鹿か」
「そーだよバカだよ」

 カーテンの向こうで衣擦れの音がする。恐らく高尾が身を起こしたのだろう。黄ばんだカーテンは安っぽく薄っぺらだが、窓の外も室内も薄暗く、緑間の影をぼんやり投影するだけで何も映さない。

「部活」
「あ?」
「後は朝練、練習試合。いつも通りだと思ったのはそれぐらいなのだよ」
「……オレ、いつも通りじゃなかった感じ?」
「オマエは分かりやすいのだよ。特にその目がな」

 口から飛び出す言葉はいくらでも嘘や建前で飾れるが、目から零れ出る感情は案外隠し立てできないものだ。だから緑間は人の言葉を努めて耳に入れず、その目を見て信用するべきものを判じている。ひとクセどころかいくつもクセのあるような印象を人に与えるが、高尾の目はその中でもかなり分かりやすい部類に入る。時折呆れるくらいだが、何を考えているか分からないよりはいい。

「あーあ、失敗したなー……」

 声がやたらくぐもっている。また衣擦れの音がしていたので、顔を伏せでもしたのだろうか。たった一枚のカーテンに隔てられ、言葉に潜む表情も感情も事情も見えてこない。

「あのさ、ホント、バテたとかそういうんじゃないのだけは言っとくわ」
「今更取り繕う気か。オーバーワーク以外に何があるのだよ」
「いや……その、マジでダッセェから言いたくなかったんだけどさ……こけたんだわ。ツルっと。んで、頭打って……そんままって感じ……」

 昼前ちょっと雨降ってたろ、ばつの悪そうな声音が次第にぼそぼそと弱くなり聞き取りづらくなっていく。緑間は舌打ちでも漏らしたい気分になった。

「……大馬鹿か」
「そーだよ大バカだよ!」

 確かに、この一年で高尾の体力はかなり強化されている。ちょっとやそっとでオーバーワークになるとは緑間も思っていない。しかし視野の広さとバランス感覚に優れているこの男が、これほど間抜けな失敗をしでかすというのにも違和感があった。多少は無理の影響が出ているに違いない。

「それで」

 高尾はこの期に及んであれこれと話題を変えようと手を尽くしていたが、緑間が三音を吐き出したきり黙り込んでいると、最早逃げ道がないことを悟ったようだった。やがてああ、だとか、うう、だとかわざとらしいうめき声しか上げなくなり、最終的には観念したようにため息を吐き出している。

「……オレってPGだろ?」
「頭でも打ったか?ああ、打っていたのだよ」
「聞けよ!……んで、洛山とやった後思ったんだよ。その場の舵取りっつーか……思ってもないことが起きた時、オレは試合の流れ作るどころか崩してんじゃねーかって」

 PGを司令塔として見るなら、赤司以上の選手は高校バスケ界に居ないだろう。状況を素早く正確に理解し、あらかじめ全てが決定付けられていたかのような緻密さで試合を動かす。赤司と共に、あるいは対面して戦った者は、まるで自分自身が駒になったかのような錯覚を覚えることだろう。

「メンタルっつーのかね。中身も強くなんなきゃ勝てない。チームに頼るのはアリでも、チームに甘えるのはナシだろ?」

 しかし、高尾が秀徳のPGとして要求されている働きは、それと必ずしも重ならない。監督や大坪、新主将が高尾に目をかけているのは、鷹の目があるからだけではないだろう。技術や力とはまた違う、高尾の特性がチームの結束を作るからだ。

「んで、こう……色々考える内に、真ちゃんにダセーとこ見せすぎだったって反省したんだよな。クラス変わったし後輩も入ってくんだから独り占めってのも悪いし。あ、でもまた同じクラスになったのはマジウケたわー。なんだかんだ言って真ちゃん結構いじられキャラだよな。後輩にも結構懐かれてっし……なんか最近女子人気も来てね?正直ちょい羨ましいかも……」

 ザッ、とカーテンがレールを勢い良く滑った。高尾はやはり半身を起こしており、片膝を立て、そこに腕を預けて側頭部に氷を入れたビニール袋を当てている。ぶつけた箇所を冷やしているらしい。

「……開けるなっつったろ」
「誰が分かったと言ったのだよ」

 先ほどまでいかにも愉快ですと言いたげな声を発していたくせに、その表情はつまらなそうにひどく歪んでいる。やはり高尾は目を見て話した方が早い。じっと睥睨していると先に折れ、あーと大きな奇声を上げた。

「突然何だ、やかましい」
「分かったよ、分かりましたよ!真ちゃん居なかったら退屈過ぎっから、退屈で死なないようにバスケしてたんだよ!」

 予想していなかった言葉に一瞬、動きを止めてしまった。しかしそのあまりに馬鹿馬鹿しい言い分と、大きな態度に苛立ちはすぐに戻ってきた。肺の底から呼気を搾り出すように息を吐き出す。高尾はすっかりヤケになっているのか、なんだよと拗ねた声が返った。

「だからさそり座はダメなのだよ……」
「いやさそり座はオレ一人じゃねーから!いつもバカにしてっけどオマエ、さそり座は世界中に星の数ほど居んだけど!いい加減名誉毀損で訴えられんぞ!」

 世界の総人口が70億として、単純に12分割しても5億8千、星の数には程遠いがそんなことはどうでもいい。名誉毀損など尚更どうでもいい。

「つまり」

 ベッドに歩み寄り、片膝ベッドに乗せて高尾の顔を間近で見下ろす。寝ている間に乱れたのか、クセのない黒い髪の毛先があちらこちら好き勝手な方向を向いていた。

「オレとバスケをすればいい、という話だろう」
「い、いや、違ーって、だから……」
「オレとバスケをし、オレと飯を食い、オレと帰って、最後に勝てばいいのだよ」

 鼻先が触れるほどの至近距離に呆けた間抜け面が広がっている。薄い瞼が二度往来し、炯々とした光を湛える瞳がぎゅっと引き絞られた。たちまち赤くなった顔面のうち、額に口を付けた。

「『オマエだけ』、のどこに問題がある。つまり、」

 渋々ではあったが、『他の奴とは絶対にしないことをする』と提案したのは緑間である。それを相談も無しに突っぱね、面倒で嫉妬深いさそり座に何をしてやるべきか真剣に考えてやった時間を無駄にしようとは、下僕も偉くなったものだ。考えれば考えるほど天井よりも高く撃ち出してやりたくなってきた。黒いボールにかけようとした両手が不意に掴まれた。氷袋がぐしゃりと音を立ててシーツの上に投げ出されている。

「もういい」

 両腕を思い切り引き寄せられ上体が傾き、未だ赤みの引かない憮然とした表情が近すぎてぼやけてしまった。どいつもこいつも人の話を何だと思っているのだろうか。柔らかい感触が緑間の言葉を強引に封じている。

 つまり、問題など何もないのだから、いつも通り馬鹿笑いでもしているのだよ。

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