文字数: 45,776

転回するILY



▽09/05/1980 22:28
I love you, too.

「――えっ」

 視界に飛び込んできた一文はどこまでも簡潔だったが、脳が咄嗟の理解を拒んでいた。ディスプレイを凝視した目を横切る瞼の動きも緩慢で、視界がちかちかと明滅する。

 キース・グッドマンの日常において、Eメールというものはさほど重要な位置づけを得ていない。キースは今のところ怪我による休養を除けば皆勤を貫いている。つまり、仕事上の重要な連絡はPDAもしくは手渡しで受け取れると言うことだ。もしプライベートで急ぐ用事があれば電話がある。一方、急がない用事は思いがけないタイミングで郵便受けに投函され、その度に心を躍らせてくれる。便箋から筆跡、切手から封のやり方まで、全てに送り主の個性が宿る手紙がキースは好きだった。無論、メールに対して無個性だとか血の通わないツールだとかそういう否定を突きつけたいわけではない。簡単に言ってしまえば、キースにとってメールは、PDAや電話に比べて遥かに使用頻度が低く、明らかに必要性の薄い伝達手段なのである。
 そういうわけで、キースが自宅のPCを起動し、メールソフトを立ち上げたのはおおよそ一週間ぶりのことだった。そしてダイレクトメールの山の頂きに位置するそのメールの送信日は四日前。差出人のメールアドレスはアドレス帳に登録されておらず、見覚えもない。宛名も署名もあいさつすら無いそのメールはたった一行で終わっている。

「……『も』?」

 一見するとそっけないメールだが、これはむしろストレートに親愛を示すために出されたものだ。ひょっとするとラブレターかもしれない。しかもそれは一方的なものではなく、どうやら先に宛先人から示された言葉があり、それをなぞるようにして答えた形らしい。男性が薔薇の花束代わりに想いの花束をメールで届けて、女性が恥らいがちな一輪の短文でそれに応える。自然に想像できる流れではあるだろう。だが肝心の宛先人であるキースにはさっぱり身に覚えが無いのだ。心の片隅でいつも気にかけている少女の姿が頭をよぎりはしたものの、初めて出会った日以降はまるで再会できておらず、彼女がキースのメールアドレスを知っているはずもなかった――そうであったら嬉しい、などと考えたことは否めないが。

 キースはキーボードに指を走らせた。一行のメールに対してこちらも簡潔に相手の素性を問う。親愛のメールに対してあまりに薄情かもしれないが、相手が誰かも分からないのに返事など書けるわけもない。放っておくこともできそうになかった。これがキースのメールに対する返事で、それを咄嗟に思い出せなかっただけだとしたら、相手へあまりに不誠実だ。叱咤の返事を覚悟の上で送信した瞬間、ふと奇妙なことに気がついた。

「八十二年……?」

 四日前のメールがなぜ最上部に表示されているかと言えば、年号が最も新しいからだ。タイムスタンプは08/29/1982 01:05。ついつい壁かけのカレンダーを見上げてしまうが、やはり9の数字を彩るようにNC1980の文字が添えられている。

「何かのエラーだろうか……」

 PCにはあまり明るくないが、完璧そうに見えて案外ミスやエラーも少なくないということは心得ている。なるほど、弱点のない者はこの世に存在せず、PCもその例外から漏れない。そう思えば愛嬌さえ感じるようだ。

 小さく笑みを浮かべつつ、キースは眠る準備をするためにPCを先に寝かしつけた。デスクの隅に伏せた日記を開き、そわそわと今日の一日を書き付ける。時間のある晩は日記を手短にまとめ、クロッキーを行うようにしている。この習慣は今年に入ってから始まった。毎日少しずつでも続けていれば必ず上達する、興味のまま訪れた絵画教室で耳にした言葉を気に入って、もう半年は経っている。

「ジョン!今日は一緒に寝ようじゃないか!そして……今日もその前に!一仕事頼むよ!」

 奔放なモデルを寝室に招き入れ、スケッチブックをパラパラとめくり白紙を探す。色々な対象を描かなければ練習にならないことは当然理解しているが、一番上達したい絵のモデルはやはりこのソウルメイトなのだ。多少の偏りもしょうがない話だろう。過去のジョンのページをめくり、白紙を構えて今日のジョンを目で追う。相変わらずじっとしていてくれない上に、構ってほしいとばかりにキースの膝元にちょっかいをかけてくることまである。しかし、最近はそのおかげか、動く姿のスケッチが上達しているような気もする。

 何かに没頭していると時の進みは本当に早い。むしろ、時が塊ごとぽっかりとどこかへ唐突に失われてしまったかのようだ。なるほど、二年も先からメールが来たのはキースがクロッキーに熱中しているせいかもしれない――などと、自分ひとりの馬鹿げた想像を愉快に思いながら一度立ち上がる。律儀に並んで歩くジョンを引き連れ、鉛筆で黒ずんだ手を洗い流した。寝室に戻ってベッドに横たわると、ジョンも慣れた様子で後に続いている。シェードランプに照らされ、見上げる天井は暖色の水彩絵の具で描かれている。視界の端に映っているのはベッドボードから少しはみ出たスケッチブックのリングだ。いつもと変わらない風景画のはずだが、不思議と眠りが遠い。

「私、『も』……愛している……か」

 家族や親族の内の誰かかもしれない。友人の悪ふざけの可能性もあるだろう。もっと悪い想像をするなら、見知らぬ人のいたずらかもしれない。だが、キースの胸は、えも言われぬ心地よいぬくもりで満たされていた。もしかすると誰かが、キースの想いへ誠実に応えようとしてくれている。それを瞼の裏に想像するだけで自然と口角が上がる。画一化されて人となりの見えない電子情報の描く一文だというのに、知り得ない姿が豊かに想像された。息を深く吸い込んで胸が上下する動きに意識を傾ける。いい夢が見られそうだ。

▽09/08/1980 06:42
I’m your love.
How come you don’t know that?

 驚きで思わず声が出た。指も勝手に動いていた。まさか! ――そのたった一言が一秒以下で相手に送信される。そんな事実は無根であるとシュテルンビルトの女神に誠心誠意誓うことができる。ここ連日、相手の反応が気になり珍しく小まめにメールチェックを行っていたが、まさかこんな返事が返って来ようとは予想だにしていなかった。言葉にならない困惑を喉の奥で燻らせつつ額に手を当てる。少し顔が赤くなっているかもしれない。

 しかしすぐにハッとしてPCのディスプレイに目を戻した。以前と同様のあまりに直接的な表現につい動揺してしまったが、そもそもこれはきっとキースへ宛てたものではないのだ。恐らくPCのエラーによる誤送信ではないだろうか。日付が相変わらず二年後になっているのはその証明に違いない。そうなると先程の衝動に任せた返事は宛先人に巨大な誤解を与えかねない。キースのたった一言が見知らぬカップルの仲に亀裂を走らせてしまうかもしれないのだ。慌ててキーボードに手をかけた。誤解を正すため簡単に自分の身元を明かし、きちんと宛先を確認するように書き添える。

 送信のボタンを押すと一気に体の力が抜けた。深いため息を吐き出して椅子の背にもたれかかる。セットが半端で目にかかる前髪を力なく横に流して撫で付けた。起きたばかりだと言うのに既にジョギングに出かけて帰ってきたところのような気分だ。率直な愛の言葉から様々な想像を働かせて楽しんではいたが、それはほとんど空想のようなもので、キース自身を巻き込んだ世界の話では無かったはずなのだ。

「私は……」

 メールの文面を無意識に声に出してなぞろうとして断念する。とても口に出せそうにない。クスクスとからかうような笑みが脳裏をかすめる。どこか相手を試すような口ぶりは大胆で、昔から奥手であると自覚しているキースにはとてもじゃないが口にできそうにない。のぼせる熱を発散するように頭をひとつ振る。

「本当に……恋人に夢中なようだ」

 誰かの心の一部に明確に存在できることは、また逆に常に誰かの存在を心に感じていることは、きっとこの上ない幸福に違いない。ためらいも恥じらいも無くその人の名を呼べるこの送り主は、心からその恋人を愛しているのだろう。ならば尚更このメールはその相手に正しく届くべきだ。伝えたい想いが行き場を失うことほど辛いことは無い。図らずもおこぼれをひと齧りし甘さに滅入ってしまったが、送り先の修正さえされればそんなメールが迷い込むことも無くなるはずだ。もしくは謝罪のメールくらいは送られて来るのだろうか。きっと照れ交じりの文言が並ぶに違いないそれを想像して少し愉快になる。

 とにかく、ひとまずはジョギングに出かけることにした。自分でもよく分からないが体を動かしたい気分だ。散歩をせがむジョンの視線につつかれるようにしてPCの電源を落とす。目端にloveの四文字がちらついた。

▽09/16/1980 19:18
I miss you.

 文末にそっと添えられた一文に目で触れた時、キースの心臓が今までのメールとは違うふうにどきりと跳ねた。恋人の薄情を責め、どれだけ恋人を想っているか切々と綴られたメールは、どこか芝居がかった大仰さだ。だが、その劇場から一行分だけ離れぽつんと添えられた一文には何の飾りも無かった。最初にキースのメールボックスに迷い込んできた一通のように、素朴だが嘘のない真心を感じさせる。それはメールにある直接的な非難の言葉より、遥かにキースの良心を攻撃した。キースの中では決まったサイクルが完成されていても、不規則な時間の中で行動をしていることは否めない。大切な人に寂しい思いをさせてしまっただろうか――

「いいや!いいや……そんなわけはない……そんなわけは……!」

 あらぬ方向に舵を切り始めた思考を否定するために敢えて声を出すと、思いのほか音量が大きくなった。散歩から戻ったばかりで上機嫌にリビングを歩き回っていたジョンが、迷惑そうにキースを見上げている。咄嗟に謝罪が口を突いて出てしまった。

 夕飯の準備をする前にと軽い気持ちで起動させたPCのディスプレイを、もう来ないだろうと決め付けていた返事が占領している。キースは前回、人違いを指摘するために己の身元を明かしたはずで、この送り主はそのメールを見た上でこの返事を送っているということになる。友人か、悪意のある見知らぬ誰かか。ともかくいたずらであるのは間違いない。しかしキースの目はメールの最後の一行から動かない。テーブルの上に投影されたスクリーンの光は、窓から斜めに差し込む夕陽と混ざり合って古い写真のようにぼやけて見える。それが切なく儚げな連想を掻き立てた。
 これがもし本当に未来からのメールならどうだろうか。まだ見ぬ恋人が二年前のキースへ宛てたメールなら、相手にも自分にも嘘は無い。

「二年後……」

 二年後どころかこの先ずっと、決まったやり方で一日を繰り返していくのだと思い込んでいた。もちろん、そんなはずがないことは知っている。けれど徹底して簡素化された生活の中にある現在から、その変化を想像するのは酷な話だ。どっ、どっ、と心拍が体中に響き始めた。目を閉じて、恐る恐る手を胸元に伸ばしその振動に触れる。くすぐったさのようなものを不意に感じて、喉の奥がきゅっと引き絞られる。

「悪いんですか、調子」

 はっと目を開いたが、夕焼けも、朧なディスプレイも、様子を窺うようなジョンの姿もそこには無い。あるのは美しく整った配列で作られた男の顔の大写しだ。長いまつげの額縁にライトグリーンの瞳が展示されていて、キースのぽかんとした表情を余すことなく写し込んでいる。眉根が寄っていると涼しげな目元と鼻梁がどこか冷たい印象を与えるが、それが市民を共に守るこの仲間の、心からの心配を表していることをキースは知っている。

「……スカイハイさん?どうしたんですか、本当に。いつもの貴方らしくないな」
「あ……ああ、バーナビー君。大丈夫さ。少し考えごとをしていてね」

 タオルで額の汗を拭いながら、バーナビーはベンチに座るキースの隣に腰掛けた。喧騒に目を遣れば、虎徹とアントニオが何やら張り合いながらトレーニングしている様が見て取れる。バーナビーは深いため息を吐いているが、トレーニングに熱心なのは素晴らしいことだ。後でバテなければ、ですけど――毒のある呟きに苦笑を返す。

「何も無いならいいんですが。今日の出動でもいつもと違ったような気がして」
「違った?注意散漫だっただろうか。それはいけない、それは。気を引き締めなければいけないね」
「いえ、働きぶりは見事だったと思いますよ。おかげ様で、犯人一人分のポイントを逃すハメになりました」

 バーナビーの皮肉げな笑みは、仲間内にしか見せない親しみと愛嬌をたっぷりと含んでいる。キースもそれにつられて笑みを深くした。午前中、警察の護送車が襲撃され、脱走した犯罪者と襲撃犯の確保にヒーローたちも出動した。ここ最近の小康状態からすると大きな事件だったが、比較的速やかに自体を収束できたように思う。熾烈なポイント争いではあったが、ヒーローがそれぞれの特性を生かし、結果的にはうまく能力が連携した形になった。

「ただ……なんと言うか、少し静かと言うか……まあ最初に気づいたのは虎徹さんだったんですが」

 最終的に、その事件でスカイハイは他ヒーローをわずかに上回ってポイントを獲得していた。そうなると、ありがたいことにカメラに映り込み発言する機会も多くなる。普段から応援してくれるファンに対して最大のアピールができるビッグチャンスだ。しかし今日のスカイハイはファンの納得するベストの姿とは言えなかっただろう。カメラが向けられていることに気づかずしばらく呆けていたし、向けられたマイクに言葉が準備できていなかった。せめて感謝だけはと発した言葉も、後で放送を確認すると見事に尻が切れていたのだった。

「それも……良くはないね。ファンには申し訳ないことをした」
「見習ってますよ、そういうところ。それで……一体どうしたんですか?何か困り事でも?」

 さり気ないフォローに、バーナビーという男のそつの無さを再認識する。覗き込むような笑みに視線を合わせた。ここまで気遣わせておいて黙っているのは逆に失礼なことに違いない。だが頭の良い相手に自分の無知をひけらかすことは、多少なりとも気まずいものだ。おずおずと口を開く。

「ワイルド君が言っていたが、君は機械に強いんだろう?」
「まあ……弱くはないですけど」
「そうか……」

 スカイハイさん、怪訝げにバーナビーがキースを呼んでいる。その声に後押しされるように言葉をなんとか押し出した。

「その……未来からメールが来る、ということはあり得ると思うかい?」
「は、……はあ?」

 予想通り、バーナビーの反応は驚きと戸惑いが半々ずつだ。しばらく沈黙を挟むと危うく正気を疑われかけたので、慌てて事情を説明した。身に覚えの無い『恋人』からの突然のメール。おまけに日付は二年後だ。端正な顔を歪め、目を見開いて話を聞いていたバーナビーは始終無言だった。言葉を失っているという表現が正しいだろうか。キースの言葉が終わると、呟きとも吐息とも取れない音を漏らして姿勢を正した。

「まず始めに言っておきますが」
「うん」
「ここは現実ですよ?SFの世界じゃない。未来からメールだなんて突拍子も無いことはそうそう起こりません」
「な……何か怒らせてしまっただろうか……」

 次第に険しくなる表情と強くなる語気に、体が勝手に逃げをうつように引けた。しかしバーナビーもそれを追うように身を乗り出している。虎徹には気を許しているためか時折厳しい態度を取ることもあるが、仲間に対するバーナビーは基本的に冷静かつ親切だ。かつてない勢いに若干怯む。

「ほぼ間違いなくスパムメールです。それ」
「えっ」
「ただ受け取るだけならまだしも、わざわざ自分の個人情報まで……前時代じゃないか……」
「だが、あのメールは……」
「古典的な手法だとOSの日付をいじって送信日時を偽装する、なんかでしょうか。メールが目立つよう細工しているんです。今はしおらしく見えていても、やがては金銭を要求されたり不要な物を買わされたりするかもしれません。絶対にもう返事をしないでください」

 矢継ぎ早に飛び出す言葉が反論を見事に封じていた。バーナビーはキースの意見など聞き入れる様子もなく弓を引き続けている。ひとまずメールアドレスを変えてください、名前くらいの情報なら大したことはないですけど、ダイレクトメールの山は覚悟してくださいよ、添付ファイルの類はありますか、アンチウイルスのソフトは……このままいくとベンチから転げ落ちそうなくらいの勢いだ。

「……バーナビー君」
「なんですか?まさかとは思いますが口座番号やネットバンキングのパスワードを教えたなんて言いませんよね」
「ありがとう。そしてありがとう」

 キースがその肩に軽く手を置いて初めて前のめりになっていた自分に気がついたらしい。気まずそうに目を逸らしながら謝罪をぽつりと漏らされると、なんだかキースが悪いことをしてしまったような気分だ。だがバーナビーのこういう心根をキースはいつも好ましく思う。他人に厳しいのは、それと同じだけ他人に優しいからだ。

「……感謝する前に自己防衛を。ネット上とは言え、僕らが被害に遭ったら誰が市民を守るんですか。市民に示しがつかない、というものでは?」
「その通りだ。重々気をつけよう。重々ね!」

 どこかで聞いたような言い回しにやっぱり笑ってしまう。虎徹にそうするように、拗ねた目をちらりとこちらに向けられるのは、バーナビーとより打ち解けることができたようで少し嬉しい。拗ねられて嬉しく思うことなんて初めての経験だ。彼の機嫌のためにも誠実な対応をと思うのだが、笑みはどうしても抑えられなかった。

 キースの相談に対するバーナビーの回答を簡潔にまとめるならば、もう返事は一切するな、ということになるだろう。バーナビーの真心からの心配はきちんとキースに届いている。今のこのキースの生活に唐突に誰かが加わる想像に比べれば、バーナビーの考えは非常に現実的で正確そうだ。だがキースにはこのメールの最後の一文をどうしても無視できそうにないのだ。だからこそ率直に、しかし注意深く簡潔に返事を書いた。つまり送り主に迷惑メールなのかどうかを問い、現在、NC1980のキースの隣には恋人と呼べる存在が居ないことを説いた。

 キースとスカイハイ、そしてジョンで完結した世界の中で、この『恋人』はどうやってキースを見つけたのだろう。それがどうしても気になった。

▽09/24/1980 17:34
You can get it.
‘Cause I know you love me.

 インターフォンの音にハッとして、慌ててPCをスリープモードに切り替える。今までに比べると文字数の多いメールが一瞬で部屋の空気に霧散した。ソファから立ち上がり玄関に駆け寄ると、早めの散歩と勘違いしたのかジョンも小走りで後に続く。しかしすぐにリードが無いことに気がついたらしく、リビングの扉を出た辺りで戸惑うように足踏みをし始めた。それがなんとも可愛らしく愉快で、笑いながら扉を開けた。

「いらっしゃい、そしていらっしゃいませ!バーナビー君」
「……こんにちは」

 ドアを開けるなり全開の笑顔を浮かべているキースを怪訝に思ったのか、バーナビーの表情はややしかめられている。だがそれに構っていられないほどキースの気分は浮かれていた。この部屋にキースとジョン以外の人間が入るのはどれくらいぶりのことだろう。少し遠慮した様子でドアをくぐるバーナビーの肩と背にそれぞれ両手を置いて、やや強引にリビングへ案内する。

「何か飲むかい?今あるのは紅茶とミルク……ああ、あとオレンジジュースもあるな」
「いいえ、結構です。僕はくつろぎに来たわけじゃありませんから」

 もてなしをばっさりと拒絶され少なからず落胆しているところに、いいですねとバーナビーが確認を求めてくる。実のところもう少しゆっくりしてくれた方が嬉しいのだが、バーナビーも多忙な男だ。こうしてキースのことを気にかけてわざわざ足を運んでくれただけでも有難い話である。渋々頷くと、バーナビーはすぐさま鋭い視線をぐるりと部屋中にめぐらせた。

 二年後のはずのメールは、相変わらず一晩もかからずにキースのPCに飛び込んで来ていた。この『恋人』は本当にキースとは正反対の筆まめだ。それに引きずられる形で、キースも最近は二、三日に一回ほどのメールチェックが習慣づいてきたように思う。

 まず最初に書かれていたのは、これは迷惑メールではない、信じてほしいと言うような切なる訴えだった。そして、その証拠としてキースについて知っていることが列挙されていた。メールは嫌いではないが、電話や手紙に比べて優先度が低いこと。ジョンを大切にしていて、遠出や外泊は避けていること。朝起きてまず、一杯のミルクを飲むこと。サニーサイドアップの食べ方は行儀が良くないが、見ていて気持ちが良いくらい朝食をしっかり摂ること。ジョギングのコースは決まっているのに、困っている人を助けている内に大抵は不定距離になってしまうこと。汗をかいたら、風邪を引かないうちにシャワーを浴びて流すこと。その時、独り言をこぼすクセがあること。どんなに忙しい時でも一定時間のトレーニングを行うこと。またどんなに忙しくても、夜の数時間は予定を入れないこと。元々は横向きで眠る癖があったが、仰向けになるように矯正したこと――そしてそれらは全て『仕事』のためであること。

 仮に『恋人』ができたとして、キースには『スカイハイ』を隠し通す自信は無い。そもそも隠す気も起きないかもしれない。ほぼ間違いなく、この送り主はキースの『仕事』を知っているように思えた。そしてキースの一日の大半がそのために費やされることも。本来ならキースとジョンしか知り得ないことのはずなのだ。それを誰かが知っていてくれている。

「ストーカーじゃないですか?それ。ひょっとしたら貴方がスカイハイだと知って、何か探ろうとしているのかもしれない」

 しかし、興奮冷めやらぬキースへ返ってきた言葉はやはり懐疑的だった。それどころかバーナビーには青ざめた様子さえある。互いになかなか時間が合わない中、トレーニングセンターでようやく捉まえたところだったが、予想もしていなかった反応にキースは咄嗟の言葉を失ってしまった。

「僕にもそういう経験があるんです。カメラや盗聴器を仕掛けられて……幸い様子がおかしいことにすぐ気がつくことができましたけど」

 一度ヒーロー引退という形でシュテルンビルトを出ていたバーナビーは、この街に戻る際に以前より随分手頃な値段の部屋を契約したのだという。慈善事業への寄付にできる限り金を使うためだ。ところがこの部屋に住んでしばらく、どうにも妙な違和感を覚え始めた。怪訝に思いつつ部屋を調べると、出てきたのはカメラや盗聴器などという有名税では片付けられない品ばかりだった。どうやら仲介した不動産業者に不届き者がいたらしく、もちろんその犯人は今では塀の中である。こうして結局バーナビーは、セキュリティに信用のおける馴染み深いコンドミニアムに戻る羽目になったのだ。

「少し待ってください」

 涼しい顔をして語られる、いつの間にか起こっていた仲間の一大事にキースは唖然とするほかない。バーナビーはそんなキースを放って、タオルと飲料の置かれたベンチへ歩き去り、荷物を片手にスマートフォンの画面をタップしながら戻ってきた。ぐいと眼前に突き出されたのはカレンダーだ。

「この日……かこの日の午後。空いてますか」
「ああ……二十四日なら早めに帰宅する予定だよ。何事も無ければ五時には帰宅している予定だ」
「分かりました。では五時半に伺います。もちろん、何事も無ければ」

 この後取材があるので、と言い捨ててバーナビーがスマートフォンをいじりながらトレーニングセンターを出て行く。たった今生じた予定を入力しているのだろう。つまり、バーナビーがキースの家を訪ねるという予定だ。

「……え?」

 慌ててバーナビーの後を追って出て行く虎徹の背を見送ったところで、やっと一音が喉を通過した。自動ドアがスライドする音がやけに大きく脳内に残っている。

「バーナビー君、本当に何も要らないのかい?スコーンもあるが……」
「お構いなく」

 先程から何かと声をかけ続けているが、バーナビーの返事は一貫してそっけない。それだけ集中して調査してくれているのだろう。部屋にある電源の点検をしている様はさながら電気工事の業者のようだ。埃はこまめに取ってください、火事の原因になりますので――これまでこの家の中でバーナビーが発したセンテンスで最長のものがこれだ。CEO以外の客人に慣れていないジョン以上にキースの心はそわそわと落ち着かない。

「バーナビー君、私はあのメールを……スパムや、詐欺、そういったものでは無いと思っているんだ」
「じゃあ何だって言うんですか?知らないアドレスから貴方しか知り得ないような個人情報が送りつけられているんですよ。明らかに異常な状況だ」

 やっとバーナビーの意識を引き付ける話題に辿り着いたようだ。少しは会話らしい様相を呈している。やっと手にしたきっかけを逃さぬよう急いで言葉を繋ぐ。

「そうかもしれない。いや、そうだろう。だが私は……この人を、SFのような奇跡を信じたい気持ちもあるんだ」

 言ってみて、恥ずかしいセリフになってしまったことを自覚した。照れ笑いを浮かべるが、立ち上がって振り返ったバーナビーの表情は思いのほか硬い。苛立たしささえちらつく瞳はいつもより暗いグリーンだ。いつの間にか随分陽が落ちていた。窓から入る光が淡く弱い。電気を点けなければと思うのに、とても動ける雰囲気ではなかった。

「騙されるに決まってる」

 どこか突き放すような、胸に刺さる鋭い声音だ。心根は優しい男だと知っているからこそ、そんな男にこんな棘のある言葉を吐かせている自分に罪悪を感じた。

「それが分かっているのに、好きにしろとは言えません。貴方はよく知っていると思っていました。起こってからでは遅いこともあるって。僕の勘違いだったようですね」

 言葉が出ないキースの沈黙を、無言の抗議と誤解したらしい。バーナビーの言葉はやはり厳しい。薄暗いリビングを数歩進んで、キースの動きを目で制しながら近づいて来る。

「未来は、現在が無いと生じない。けど逆は無いんです。未来があるから、僕たちが過去として存在しているわけじゃない。認めるわけにはいかないですよ、そんな話。未来には何も無いはずなんだ。これから僕が作るために」

 一歩近づくごとに、バーナビーの瞳の色が明るくなるような錯覚がする。それはキースが窓際に立っていて、窓から夕陽の断末魔と街灯の歓声が静かな部屋に割り入っているからだ。では、その瞳がわずかに揺らいで見えるのも何かの錯覚だろうか。バーナビーの声量は次第に、独り言のように低くなっていく。

「未来から過去が作れるなら、僕の人生は何なんだ。僕の大事なもの、両親は、」

 怒りともやるせなさともつかない視線が一瞬、乱暴にキースの目を突き刺した。しかし若干上方にあるそれはすぐに、気まずげにキースを逸れていく。一歩バーナビーが後退した。何かを感じ取ったらしいジョンがその隙間に体を捻じ込んでバーナビーを見上げている。

「すみません、帰ります」
「いや、もう少し……」
「考えてみれば、人の信じているものを否定する権利は僕には無いんだ。ざっと見たところ怪しいところもありませんし、今のところは大丈夫でしょう。第一貴方は『スカイハイ』なんだ。僕がわざわざ心配しなくても、」
「バーナビー君」

 キースが声をひとつ大きくすると、流れるように湧き出ていたバーナビーの言葉が止まった。戻ってきた視線から初めてはっきりとした悲痛を汲み取ったが、それはやはりすぐに逸らされていく。もう一度名を呼ぼうとして、しかしそれより先にバーナビーに身を翻された。

「帰ります。突然お邪魔してすみませんでした」

 バーナビーがドアをくぐる音は遠く、小さい。今まで音のあった部屋にはいつもの静寂が満ち満ちている。未来を、今ここに存在しないものを信じようとすることは、確かに荒唐無稽で、恐ろしくて、難しい。だが現在の状況なら把握はさほど難しくはない。自発的に理解しようと思い立ったわけではなく、自覚してしまった。

 キースは寂しさを感じている。そしてそれはきっと、バーナビーもそうなのだ。

 気づくという状態は針だ。良い感情も悪い感情も、その針が突けば心に漏れ出る。何かを振り切るようにPCを起動させた。リードをくわえて寄り添うジョンの頭を撫でると、胸元をぐっと締め付けられる心地がした。

▽10/01/1980 21:10
I’m here.

 ひとつ前のメールとは今度は極端に正反対で、本文にはこのたった一文しか記載されていなかった。しかし返事にはいつもより少し時間がかかっている。タイムスタンプは09/27/1982だ。キースが返事を出した二十四日の三日後である――厳密に言えば二年と三日後だが。その間何があったのか、この一文だけでは推し量ることはできないだろう。しかしメールに添付されたいくつかの写真が推測を容易にさせていた。

 キースの家の付近にある公園、ジョギングコースの最中にあるカフェ、最寄りのモノレール駅の看板、地上から見上げて撮った飛行船、ビジネスタワーの側面に電光掲示されている株価など、シュテルンビルトの何気ない風景が映し出されている。しかし毎晩スカイハイとしてこの街を見つめ続けてきたキースにはその違いが如実に分かった。公園の付近にある異国情緒あふれる雑貨屋は看板が「MANGA」に変わっており、カフェの正面の更地がビルになっている。モノレール駅や飛行船の広告は少なくとも最近のものではなく、バーゲンの告知に「1982」の文字が窺えた。大きな電光掲示板の隅に見える日付も同じくだ。最後の一枚は高層ビルからジャスティスタワーを撮ったものだが、これに目立った異変は見えない。

 未来からのメールであることを証明するためにわざわざ撮ったものだろう。その準備に三日を費やしたのではないかと予測する。もしかするとキースのメールから何かを感じ取り励まそうともしているのかもしれない。最後に二年後も変わらないこの街の象徴を見せてくれるところに、キースの性格を熟知した人間の存在を感じさせた。キースの中で信じたいという願望は、信じているという状態に変わりつつある、バーナビーの心配をよそにして。無論そのまま突き進むこともできるだろう。ああまで鋭く露出した感情に敢えて触れるのは、バーナビーにしても迷惑かもしれない。だがやはり、キースの性格では何事も無かったようにはできない。

 スマートフォンのギャラリーの中はジョンの写真がその大半を占めているが、手慰みに眺めていた写真はどれも風景だ。PCから転送したものである。この、高揚と安堵を同時に与えるような、数枚の写真はとても不思議だ。メールを受信してからずっと飽きずに眺めている。画面をスライドしてジョンの写真に戻ったところで、気配を感じて目を上げた。

「……で、何ですか」

 このタワービルにある展望ラウンジは、ジャスティスタワーを長方形で切り取った風景を一望できる。そのため日夜観光客が溢れており、バーナビーの出で立ちがいつもの雰囲気と違っているのはそのせいだろう。珍しく前髪を分けている額が落ち着かないのか、度々指先で触れるその顔は仏頂面だ。これ以上不機嫌を加速させないよう慌ててスマートフォンをジーンズのポケットに収納する。

「僕は忙しいので手短にお願いします」
「でも、君は来てくれた。ありがとう!そしてありが」
「感謝は僕のこれからの行動次第で構いません。場合によっては帰りますから。それで?」

 先日のことがあったせいか、バーナビーの言動に一切の遠慮を感じない。少し怯んだが、めげずに一歩バーナビーへ踏み出した。これだ、と首にかけていたストラップを外しデジタルカメラを突き出す。以前クイズ番組に出演した際にもらってしまった物だった。キースの意図が掴めなかったのだろう、バーナビーの返事は瞬きだけだ。

「君は……写真映りがとてもいいだろう?どの雑誌をいつ見ても実にハンサムだ。実にね」
「はあ……まあ」
「もちろん元の素材の違いはあるだろう……もちろん。だが、ぜひコツを教えてほしいと思ってね!」

 ヒーロースーツ姿なら少しは慣れているんだが、とポーズを決めると、若い女性の観光客たちが愉快そうにくすくす笑い合いながら横切って行った。照れ笑いを浮かべつつぎこちなく腕を下ろすと、バーナビーが呆れたようなため息をつく。

「……僕は謝りませんよ」

 押し付けたデジタルカメラのズームをいじりながら、ぼそりとバーナビーが呟いた。敢えてそれを口にするという行為は、謝っていることとどんな違いがあるのだろうとキースは思う。何事も無いふりだってできただろうに――いや、バーナビーもキースと同じなのかもしれない。あのまま終わりにしないと言うよりは、できない。

「ほら、コツを教えてくれないかい?それとも企業秘密というやつだろうか。それなら……ぜひヒントだけでも!ぜひ!」

 バーナビーの視線は更に下がって、眼下に広がるシュテルンビルトの光を遊泳しているようだ。彼は今、毎晩キースが見ているものと同じものを見ている。それに気づくとなんだか愉快な気分になった。

「仲直りの王だと言われたことは?」
「はっはっは……よく知っているね?」

 バーナビーの横顔が少し歪む。一瞬不快にさせてしまったのだろうかと不安になったけれど、やがてその表情が笑みを堪えているものだと気がついた。嬉しい半面、何故だかじっと見つめているのも悪い気がしてくる。しばらくは二人して黙り込み、ぼんやりとシュテルンビルトの夜景を見下ろしていた。

「迷惑だったらすまない」
「え?」

 自分でも気づかぬうちに、ぽろりと言葉が眩い星の中に転がり落ちていく。何も言われずとも、バーナビーが謝る必要などそもそもどこにもない。謝りたいと思っているのも、謝るべきなのも、きっとキースのほうなのだ。

「そしてすまない。本当は……相談を控えた方がいいかとも考えていたんだ。だが、やはり君が頼りになると思ったから」

 真心を率直に、飾らずにぶつけようとしてくれたことが何より嬉しかった。キースが一番無かったことにしたくないのは、恐らくバーナビーと構築できそうなこの新しい関係なのだろう。バーナビーは口を開いて何かを言おうとしたが、それを一度閉じ、数瞬沈黙を咀嚼してまた口を開いた。

「乗りかかった船、という言葉を虎徹さんに聞いたことがあります」

 下方に固定されていたバーナビーの視線が動いた。夜景を楽しむ人たちのために光を絞った照明の中で、街明かりを取り込むグリーンは殊更柔らかい色をしている。直視しているとキースの世界までグリーンの海に沈んでしまいそうだった。

「もうこんなところまで来たんだ。今更やめてください。他の人に相談なんて」

 言った後、バーナビーは少し照れたように笑った。キースにも笑みだけでなく照れが伝染し、なんとなく互いに視線を夜景に戻す。

「うん、やっぱり君は頼りになる」
「当然です。僕を誰だと思っているんですか。今シーズンのキング・オブ・ヒーローですよ」
「それはそう簡単に譲る気はないけれどね」
「ともかく……写真なんて撮って何に使うつもりなんですか?僕に相談した、ということは……まさか貴方、これを例のスパムに送り返すつもりじゃありませんよね?」
「えっ」

 語らずともたった一音で落ちてしまったらしい。じっとりとした視線が惜しみなく注がれているのを横目に感じて、なんとか笑みを返してみせた。追撃が始まる前にとスマートフォンをポケットから取り出す。

「違うんだ、いや違わないが……ええっと、これを見たまえ!君にも見てほしいと思っていたんだ!」

 非難の表情が色濃くなる様に慌てつつ、ジョンが寝そべるロック画面を解除し、未来から送られてきた写真をバーナビーにも見せる。さすがに驚いたのだろう、バーナビーはキースからスマートフォンを奪うようにして画像を凝視している。しばらく拡大や縮小を繰り返し、不本意そうな表情でキースにそれを突き返した。

「……こんな物、いくらでも加工できますよ。とにかく!これ以上個人情報を送るのはナシです。いいですね」
「……」
「いいですね?」
「……うん」

 目を逸らすと、またじっとりと睨まれる。仲間からの信頼を失いかねない危機だというのに愉快な気持ちを抑えることができなかった。以前もそう感じたように、遠慮のない態度が親密さの表れのようで嬉しい。

「頼りにしてくれるんじゃなかったんですか!」
「うん!頼りにしているとも!心から!君ならきっとハンサムな写真を撮ってくれるさ!」
「僕は写真屋じゃありません、バーナビーです!」

 ついにはバーナビーまで笑い出してしまい、パトロールに出かけなければならないというのに写真を撮るのに想定以上の時間をかけてしまった。バーナビーの案で、その写真はキースの部屋のどこかで保管しておくことになっている。未来の恋人という言葉が真実ならば、未来のキースにその場所を聞くことなど容易いはずだ。更に写真の裏はメッセージを書いておく。キースが誰にも見せずに二年後まで保存しておけば、それはキースと未来の恋人しか知り得ない情報ということになるだろう。リビングのテーブルには、スマートフォンの表示する画面とプリントされた写真とにそれぞれジャスティスタワーの夜景が映っている。

「ううん……角度がやっぱり違うようだ。これはどこから撮ったものなんだろうか……」

 大きな違いは、はにかんだ笑みの男が居るか居ないかの違いだ。キースとしてはもっとうまく撮れたものもあったと思うのだが、ラウンジにあるプリントサービスでバーナビーに強制的にこの写真を指定されてしまった。
小さな違いはジャスティスタワーの角度だろう。似てはいるが明らかに違う場所から撮られたものだと分かる。

「ん?これは……指輪、だろうか」

 よくよく見ると、窓ガラスが撮影者の影を映し出していた。光ばかりに気を取られ全く気がついていなかったようだ。室内の光が弱いのかほんの微かなものだが、スマートフォンとそれを持つ手だけは判別できる。女性にしては少し骨ばった左手、その親指の根元が黒く塗り潰されている。

 二年後の未来は、遠くもあり近くもある。この『恋人』が現在のキースの与り知らぬ誰かであることはもちろんあり得るだろう。事実、そんな想定を頭の中に置いていた。だが、今の時点で知り合いである可能性は、それよりむしろ高いのではないだろうか?数時間前、キースに向かってカメラを構えていた手がフラッシュライトのように脳裏に閃いた。

▽10/08/1980 07:08
I wait for you.
I promise to make you happy.

「やはり本当、なんだ……!未来からのメールというのは……!」

 メールにはキースの書いたメッセージが一字と違わず記されてあるが、書斎のデスクの鍵付きの引き出しには変わらずキースのはにかむ笑みが横たわっている。驚きのあまり二、三度確認しても、鍵がこじ開けられた形跡は一切見られなかった。

「すごいぞジョン!未来だ!未来からのメールだよ!」

 ジョンを抱え上げてディスプレイを見せてやるが、ジョンにとっては何のありがたみも無いのだろう。それがどうしたと言わんばかりにそっぽを向いている。本当に二年後のメールならジョンの健康状態も知っておきたいところだ。普段からバイタルチェックを受けているため、自身にはあまり不安感は無い。それに、未来の自分のことを知ってしまうのは、どんな些細なことでも怖いような、ずるいような、あまり良くない心地がする。

「それにしても最後の……これはまるで……プロポーズみたいだ。まるで、これは」

 二年後のシュテルンビルトに映り込む二年後の手、それがこのメールの送り主だ。キースの推測が当たっているなら、これは現在でも知り合っている相手ということになる。思えばこの『恋人』は、一向にキースに名前を明かさなかった。ふと、以前聞いた言葉を思い出す――未来には何も無いはずなんだ。これから僕が作るために。二年後から見た過去であるキースたちの選択を妨げないようにしているのだろうか。過去を変えぬよう政府機関から監視されていて……などと続けると立派なSFが完成しそうだ。

「しかし、彼がこんなことを言うだろうか……」

 こういうSFにはタイムパラドックスの処理が不可欠で、時間の流れを線と見るか枝と見るかで変わってくるもので、などと頭はかつて読んできた本たちの記憶を潜っているというのに、口から飛び出したのは全く意図していない言葉だった。人間の脳の働きというものは恐ろしく高度なもので、聞いたことも無いはずの言葉を彼の声が鮮明になぞっている。

「ジョ、ジョン!ひとまず取り消しだ!やっぱり未来ではないかもしれない!」

 慌ててジョンを床に解放してディスプレイから離れた。気持ちを切り替えるために朝食の準備に取り掛かる。いや、取り掛かろうとして気にかかることがありディスプレイの前に戻った。タイムスタンプを確認すると、10/06/1982 02:41となっている。その前のメールを遡っていくが、大抵のメールが二時付近、ひどい時は三時前に送信されているようだ。

「はあ?寝る時間……ですか」
「うん。いつもどのくらいにベッドに入っているんだい?」

 話す機会が増えたおかげでスケジュールを合わせやすくなり、バーナビーとトレーニングセンターで顔を合わすことが習慣になりつつある。今までにない親交に当初虎徹などは興味津々の様子だったが、話に加わって来たかと思えば何故だか呆れ顔で立ち去っていくことが度々で、最近では放置されていることが多い。

「仕事によって変わってはきますけど……基本的に日付が変わる頃には眠るようにしていますよ」
「そうか……」
「疲れを翌日に残さないためにも良質な睡眠は重要なので。アロマを使ってリラックスをしたり気を使っています」
「アロマか……やっぱり効果があるかい?私もひとつ、試してみようかな……」
「良ければ今あるものを譲っても構いませんが……眠れないんですか?」

 他意が無いことは理解している。二年後の『恋人』が誰であるかなどキースの予測でしかない。しかしわずかな可能性だとしても、全くの無から想像した『恋人』よりも意識をしてしまうのは無理からぬ話ではないだろうか。一度バーナビーだと思うと、今までのメールも全てバーナビーの声で再現されてしまう。そうなるとバーナビーの声や仕草のひとつひとつに注意を払うようになってしまい、今のように心配げな表情で顔を覗き込まれると咄嗟の対処を見失うことになるのだ。

「スカイハイさん?」
「い、いいや!私も日付が変わる前には眠るようにしている。睡眠も特に問題ないと思うよ。できるだけ体を動かしているからね」
「では何故急にそんなことを……あ」

 素直に気遣いを表していた顔からすっと表情が消える。キースにとって良くない流れになりそうだ。そろそろトレーニングに戻ろうじゃないか、などと促してみたが当然通用しなかった。貼り付けたような微笑みがキースの行く手を阻んでいる。

「スパムですね?」
「えっ……いや……はは……」

 バーナビーに比べ、キースの愛想笑いがお粗末なことくらいはキース自身だって自覚している。バーナビーはやれやれとため息を吐き出し、早々に笑みを捨てて恨めしげな視線をキースに送っている。ばつは悪いが、愛想笑いよりはこの拗ねたような表情の方が好ましいと思う。そんなことを考えて顔面に熱を感じた。バーナビーの非難を正面から受けている今、外からも分かる変化でないことを切に願う。

「貴方それで、僕に相談する意味ってあるんですか?」
「あ、あるとも!」
「例えば?」
「それはもちろん……、もちろん……君をもっと知ることができる、とか……」

 弁解の余地も無いくらい顔色が変わってしまったことは間違いないようだ。そしてそれがバーナビーにまで飛び火してしまったことも。普段なら何の障害も無く差し出せる親愛の言葉のはずなのに、どうしてこうも喉のあたりでつかえてしまうのだろうか。
 顔を逸らしたままバーナビーが何かを差し出してきたので咄嗟に受け取ってしまう。メモ用紙を二つに折り畳んだもののようだ。眼鏡を押し上げる横顔をそろりと窺えば、プライベートの連絡先ですとぶっきらぼうに告げられた。

「やめろと言っても聞かないことはよく分かりました。何か異変があったらここに連絡してください。メールアドレスも書いておきましたから、おかしなメールだと思ったら転送してください。調べます」
「……っありがとう!そしてありがとう!」
「仕方なく、です。分かってます?そこのところ」
「君がナイスガイだと言うことはよく分かっているとも!よーくね!」
「はいはい。僕はトレーニングに戻ります」

 キースにも理解できるくらいの照れ隠しで、バーナビーはすたすたとトレーニング機器に歩き去って行く。おかげで未来からのメールに写真裏のメッセージが書かれてあったことを伝えそびれてしまった。せっかく連絡先を教わったのだから、それを活用すべきだろうか。なんとも言えないむず痒い思いに急かされるようにメモ用紙を開いた。そしてすぐに、そこにある文字列が既に馴染みあるものだということを認識する。

「この……アドレスは……」

 間違いなく、未来の『恋人』と同じアドレスだ。

▽10/13/1980 00:29

I love you.

 君のことが誰だか分かった、そう書いたメールに対する返事はただの空白だった。送信ミスだろうと思って返事を待って、もう四日が経とうとしている。

 何度見てもどう見ても同一のアドレスだが、新たに作成したメールはきちんと現在のバーナビーに辿り着くようだった。思えば、今まで『恋人』とのやりとりは全て「Re:」の付け合いだ。過去のメールも引用として連なっていて、欠けているのは一番最初に未来のキースが『恋人』に宛てたはずのメールだけだ。

 それが未来と過去を繋ぐルールのひとつなのだろうか。そして、そのルールの中にはもうひとつ、過去の人間に自分が誰かを悟らせてはいけない、とでもいう決まりがあるのかもしれない。それが正しければ、以後メールのやり取りは絶たれてしまうということになる。空白のメールはそれを示しているのだろうか。

 健康に気をつけるようにという一文を、悩んだ末結局加えなかったことを悔いている。もし『恋人』が彼なら、彼自身のために、市民のために、そしてキースのために健康でいてほしいと思う。

「そう言えば、バーナビー君」
「どうしました?」

 各所に設置された照明ひとつひとつが光の水滴を垂らし、内装を柔らかく暖色で染め上げている。人々のざわめきがさざなみのように寄せては返すが、騒音と言うほどでもなく、むしろ会話を彩る良いBGMになっていた。まるで父がよく飲んでいたウイスキーの注がれたグラスみたいな店だと思う。雰囲気の良い店だ。行ってみたい店があるからとバーナビーが誘ってきたのも頷ける。

「いや……空白のメールというものは何かのエラーだろうか。例えば相手の書こうとしていたことが知らずに消えてしまうということがあるものなのかな」
「『未来』、ですか」

 既にテーブルの上に皿は無く、それぞれ食後のワインと紅茶を楽しんでいるところだった。途切れた話題を補填するつもりで口を開いたのだが、どうやらリロードする弾を誤ったらしい。バーナビーは相変わらず『未来』に懐疑的だ。敵意さえ持っているように感じることもある。写真裏のメッセージが間違いなく送られてきたことをキースが話していないせいでもあるだろう。ひとつの確信に行き着いた今、話してもいいものか悩んでいる。

「……貴方、僕のメールにも返事していないのに……」
「ええっ、そんなことはないとも!この前のメールは話が終わっていると思って……」
「僕の中では終わっていないんですけど。随分と楽しそうにしてるんですね。未来とのメール」
「待ってくれたまえ!君とのメールだって私は楽しんでいるさ……!それに、彼とだってそんなにやりとりをしているわけでは……」
「――『彼』?」

 あっ、と思わず声を上げてしまった。その一瞬の油断が、取り繕うための言葉を探すこの時間が、洞察力の鋭いバーナビーに動かぬ証拠を与えているだろうことが見て取れる。わざとらしく拗ねたような表情がさっと驚愕の表情に変わった。

「ああ、いや……今のは話の流れで……つい言ったんだ。気にしないでくれ」

 やっと出てきた言葉だが、きっと何の気休めにもなっていない。空を支える糸が突然切れたかのように、バーナビーとキースの間に沈黙がどすんと落下した。顔を上げることすら苦しくてできない。テーブルの上に置いた手を、組んだり離したりしてそれをじっと眺める。永久にその動きだけを眺めていなければならないような気分だったが、不意にバーナビーが名前を呼んだ――スカイハイさん。その心地のよい声に反射で頭が上がる。

「……未来は変わるものだ。諦めずに『今』を続けていけば変えられるものだって、虎徹さんが僕に教えてくれた。僕もそれを信じたい、そう思っています」

 バーナビーはいつもよりゆっくりと、言葉を選んで喋っているように見えた。しかし、暖色で翳るフォレストグリーンの瞳に揺らぎはない。固い意志がそこに灯っている。

「貴方の未来は、もう決まってしまっているんですか?」

 一瞬、意味を図りかねてしまったのは、自分に都合の良い解釈を行ってしまうことを恐れたからだ。だがそれがあながち間違いではないことをゆっくりと理解する。どうやら、キースに圧しかかった沈黙と、バーナビーの口を塞いだ沈黙は種類の違うものだったらしい。

「……返事を書くよ」

 あからさまに落胆を表情に滲ませるバーナビーに慌てた。キースの中では『未来』も『恋人』もバーナビーも、喜びも寂しさも愉快さも、もう全部一緒くたに分かちがたくなってしまっている。しかし、バーナビーはそんなキースの心情を無論知る由も無いから、言葉を補う必要がある。

「君に。『今』の君に、ちゃんと送るとも」
「……きっとですよ」
「うん、きっと」

 バーナビーの表情が柔らかく緩んだ。微笑よりも小さな感情の表出なのに、体の奥から生じた何かあたたかいものが指先までじわじわと広がってキースを満たす。この『今』が『未来』になって、ずっと続けばどんなに幸せだろう。そんな未来を作ってみたい。その結果が”I love you, too”であることを信じたい。

▽10/31/1980 23:58

 久々のメールだというのに長々と綴る時間は無さそうだった。このメールは今日送らなければ意味が無い。とにかく誕生日を祝う言葉と、愛しているという一文を赤面しつつも打ち込み、送信ボタンを押す。もしかするともう未来には届かないのかもしれない。だがそんなことは最早些細な問題なのだ。届くのが『今』のバーナビーだろうが『未来』のバーナビーだろうが、伝えたい気持ちは同じなのだから。もし『未来』に届かなかったとしても、二年後にキースが直接、その思いを伝えればいいだけの話だ。結局『恋人』に対する推測は打ち明けていないままだが、散々スパムだと疑ってかかった相手が自分だと知ったら、バーナビーはどんな顔をしてみせるのだろうか。今まで受け取ったメールからすると案外楽しんでいるような気もする。赤面するキースを予想してクスクス笑っていたかもしれない。まあ、恋人を笑わせることができたのならそれでもいいのだろうか。ふわふわと弾んだ気分が全く沈む気がしない。このまま朝まで起きていて空に浮かんでいたい気分だ。人の不摂生を指摘だなんてできなくなってしまった。

 今日はバーナビーの誕生日だ。仲間たちでバーナビーの部屋に集い、思い思いの食事や飲み物、プレゼントを持ち寄って盛大にパーティーをした。酒好きな虎徹やアントニオなどは下手をするとバーナビーよりもはしゃいでいて、日付が変わる一時間以上前には既に潰れていた。カリーナとパオリンをそれぞれ同じステージに住まうネイサンとイワンで送り届けることで解散になったはいいが、虎徹たちが全く起きない。

「スカイハイさんはもういいですよ。この人たちはここに転がしておきましょう。心配なんでしょう、ジョン」
「うん……いや、一晩くらいなら平気だ。利口な子だからね」
「僕相手に無理しないでくださいよ。水くさいな」

 確かに家を空ける時はいつもジョンの心配をする。遅くなってもできるだけ家に帰り、無事を確認しないと落ち着かない。だがだからと言って無理してここに残っているわけではない。虎徹とアントニオの介抱を手助けしなければという使命感でもない。ただただ離れがたいのだ。今日という特別な日を、自分のためだけでなく誰かのために精一杯使いたいと思っている。

「少し散歩がしたいな。歩きませんか」

 バーナビーにもそれが伝わったのだろうか。伝わっているといいと思う。連れ立って歩くゴールドステージの夜は、下層に比べ人影が少なく静かだ。だがキースの世界にはバーナビーの吐息の、靴音の、衣服の衣擦れの音が満ちている。バーナビーの世界にもきっとキースが満ちているのだろう。

「スカイハイさん」
「うん」

 沈黙に溶け込むような声に、同じような囁きで返事をした。半歩分バーナビーとの距離を詰める。今日が誰の誕生日かなんてシュテルンビルト市民の大半が知っているだろうに、まるでこっそり秘密を打ち明けるかのように祝いの言葉を告げる。バーナビーが喉を鳴らして小さく笑った。今日一日で一体どのくらいこの言葉を口にしただろう。まだまだ足りない気分だ。

「スカイハイさん」
「うん」

 また呟きが沈黙に溶ける。キースは一滴もアルコールを口にしていないのだが、まるで酔っているかのように気分も足取りも弾んでいた。

「僕に明日をください。その次の一日も。その次も」
「うん」

 返事をためらわなかったことが、却ってバーナビーを不安にさせたらしい。不満げな表情をまた笑う。同じことを考えていたとしたら返事が早いのは当然のことだ。火照った頬に秋風が吹き付けて心地良い。今ならどんな言葉もためらいなく言えると思った。

「心配しないでくれ。ちゃんと分かっているよ。二年後もその先も、素敵な一日を君にあげたい」

▽11/01/1980 06:02

 まだまだ余韻が残っているのか、寝付く時間に対して随分早くに目覚めてしまった。この時期になると早朝はすっかり肌寒い。ようやく夜明けの気配を感じつつ、PCの電源を入れた。ジョギングの前に一応メールを確認しておきたかった。届こうが届くまいが確かに問題は無いのだが、返事があればやはり嬉しい。メールソフトの上部に新着メールが滑り込んでくる。思わず身を乗り出した。

「えっ」

It’s NOT me.
Don’t betray me.

I love you, too.
I love you, too.

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