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無心伝心 (遊ジャ)



 子供の頃、いつも自分の影を怖れていた。情けないやつだと笑われるのがいやで、一度も口に出したことはなかったけれど、先手に構える朝の影も、一番身近に迫っているように感じる昼の影も、走っても走っても長く伸びてまとわりつく夕方の影も、影も飲み込むくらい暗い夜の闇も全部大嫌いだった。だからできるだけ明るい、影を吹き飛ばすくらい明るいところに居たいと思っていた。

 ジャックは明るい。

 太陽に透けるくらいの髪の色も、どんなところにいてもぎらぎら光っている紫の瞳も、一度開くと止まらない口から飛び出す声も、全部が明るい。ジャックが初めてこのマーサハウスにやってきてからずっと、遊星はジャックばかりを目で追っていた。そして偶然、食事の時間に隣の席になった時、遊星は耐え切れず手を伸ばした。自分でもその手を伸ばしてどうするつもりだったのかは分からない。届く前にジャックに叩き落とされてしまったからだ。

「さわるな!」

 ジャックの声は大きい。怒っている。それだけは分かった。呆然と頬に手を当てる。ヒリヒリしている。振り払う勢いでいつの間にか殴られたらしい。

「オレはお前みたいなヤツとはちがう!そんな手でさわるな!」

 確かにジャックは遊星と何もかも違う。それは遊星にも分かりやすく伝わった。違うから、遊星は触れてはいけなかったのか。ジャックはマーサに叱られつつも遊星を睨み続けている。目を合わすのは触れていることになるのかならないのか。分からなくてうつむいた。頬の痛みは半日で引いた。その代わり、強すぎる光がより濃い影を作るのだと知った。

 水でも飲もうかと階段を上がり切ったところで、ソファに思わぬ先客が座っていた。目端でそれだけを確認し、シンクに向かう。ポットにコーヒーが入っていることに気づき、マグカップに注いだ。まだほのかに温かいようだ。ありがたい。

「ジャックが入れたのか?少しもら、」

 言葉を続けなかったのは続けても意味のないことに気がついたからだ。腕を組みソファに深く腰掛けているジャックは、目を閉じて規則的な呼吸を繰り返している。その正面のテーブルにはWRGPの参加規定が広げられていた。昼間の特訓デュエルでWRGPの規定違反をクロウに指摘されたことがさぞ悔しかったのだろう。夜中になって目覚めのコーヒーを入れたところで眠ってしまったのか。ジャックのカップのコーヒーは半分ほど残っている。遊星は苦笑した。

 あまり明度の強くない白熱灯の光でさえ、ジャックの髪は透してしまう。カップに口をつけ、うつむきがちの顔に落ちる影の形を目でなぞった。ジャックの周囲だけまるで昼間のようだ。思うに、「映える」色が組み合わさってジャックが出来上がっているからだろう。陰気な色で繋ぎ合わせた遊星とはまるで違う種類の生き物だ。

 テーブルを挟んですぐ正面に立つ。距離は1mも無い。手を伸ばせば、指はすぐにでもジャックに到達する。遊星は昔から触れることで物を認識するクセがあった。だから知りたいものには触れたい。

「……今更何を知ろうって言うんだ」

 呟くつもりは無かったのに思わず声が出ていた。考えをまとめようとする時、独り言を数珠繋ぎにしようとするのもまたクセのひとつだ。ジャックは身じろぎすらしない。部屋に戻って眠ればいいのに。

 もちろん何もかも知っているなどと言う気はない。しかし物心ついてからマーサハウスで出会ったとはいえ、今までの人生の半分以上の記憶はジャックやクロウと共有しているのだ。今更腹を探り合うような仲でもない。

「……分かりきったことか」

 それでも知りたいことがあるとすれば、それはやはり今ここにある感情の行き場なのだろう。遊星はカップ片手に、眠るジャックへ手を伸ばす。しかしふと頭の中にある記憶が少年の甲高い声を再生した。触るな、その厳しい声音に遊星の指は止まる。はあ、塊のような息を吐き出し指を引き戻す。

「分かっている」

 自分で思うよりずっと苛立った声が出ていた。その事実に自分自身で呆れながらも、作業に戻るため階段に足をかけた。

「お前がわるいんだ!」

 マーサにとことん絞られたらしいジャックは、遊星が近づいてくるなりそう言った。遊星はジャックが悪いと責めたつもりは無かったので、答えに困る。だがこのまま黙っていれば、ジャックはたちまちどこかへ遊びに駆け去ってしまうんだろう。ボーっとしていると、マーサに手伝いを増やされるからだ。慎重に息を吸い込んだ。拳を強く握り込む。

「……さわらない、やくそくする。だから、近くにいたい」

 太陽光の受け皿になって輝くジャックの目は怪訝げで、開いた瞳孔に時々瞼がかかる。しかし辛抱強く遊星が視線だけでしがみついている内に、段々なんとも言えない表情に変化して、最終的に不機嫌そうな顔がそっぽを向いた。

「どうしてもって言うなら、ゆるしてやってもいい!」

 ほっと息が漏れた。あのまま手を弾かれたままでいたら、そう思うとどうしてだか怖くてたまらなかった。でも今は、相変わらず足元に付きまとう影さえ怖くない。

 恐らくジャックはそんな約束、微塵も覚えていないだろう。その後すぐに打ち解けて、気軽に肩を並べる仲になったからだ。遊星だってそんなことは分かっている。実際、ケンカの時は容赦なく手が出たし、ジャックに全く触れないで日々を過ごしたわけでもない。しかし自分からジャックに触れようとした時、遊星の心にはもやがかかる。躊躇って手が止まる。遊星にとって、あれは友と交わしたはじめての約束だった。

 何もかも違うからこそ触りたいと思うこの気持ちは、どうすればいいんだろうか。最近ずっとこの調子で、ニューエンジンの開発にでものめり込んでいなければ栓の無いことを考え込んでしまう。ひとつ頭を振って手元の作業に集中する。半ば趣味のようなもので、古いモーターエンジンのジャンク品をモーメント動力に組み替えようとしているのだった。何か新しいインスピレーションが得られれば儲けで、そうでなくともスクーターぐらいは動かせるかもしれない。少なくとも損はないので息抜きのつもりで取り掛かっている。

「なんだこの部屋は」

 光熱費節約と作業集中のためにランプひとつが光源だったガレージを、突然飛び込んだ低い声がぱっと明るくする。ジャックが電気をつけたのだろう。わずかに痛む目を細めて振り返れば、ジャックがマグカップ片手に大あくびを漏らしているところだった。

「起きたのか」
「遊星お前、オレのコーヒーを飲んだだろう」
「……ケチケチするな」
「ケチにもなるわ!あれだけクロウに毎日ネチネチ言われればな!」
「邪魔するな。作業中なんだ」
「それで逃げられると思っているのなら大間違いだぞ!そんなだらしない顔で何を言っても無駄だ!」

 どうせまたわけの分からないジャンクいじりだろう、図星を突かれて沈黙する。そんなに表情に出ていただろうか。ブルーノが仲間に加わってからわずかながら時間や精神に余裕が生じ、趣味にも手が回るようになったのは確かだ。
 だがひとつ訂正はしたい。わけの分からないとは何だ、これは前時代を代表するモーターエンジンだぞ。

「どの道冷め切ったコーヒーなんかお前は飲まないだろ。まだ朝までは時間がある。部屋で寝たらどうだ」

 話を切り上げようとしたつもりなのだが、ジャックはその場を動こうとしない。どころか、一言も発さずに遊星を不審そうな表情で見つめている。その居心地の悪さに耐え切れず、遊星は口を開いた。

「ジャック?」
「何が言いたい」

 ジャックに何を問われているのか分からず戸惑いを隠せない。あからさまにいらついた様子のジャックは、呆れたように大仰に首を振った。昔からジャックは相手を馬鹿にしようとする動作が大仰で芝居がかっている。びしり、遠慮を微塵も感じさせずジャックは遊星に指を突きつけた。

「何も無いのか?ならばその物言いたげな顔をやめろ!」

 言いたいことだけ言ってジャックはのしのしと階段を戻っていく。怒りを跳ね返すことさえ忘れ、遊星は思わず自分でもままならないらしい表情筋を手で確かめていた。夜の闇を払う明るい電灯の下では、その実様々な部屋の内容物に黒い影を落とす。自分の影を見下ろした。

「まだ、切れてないだろ」

 まだ遊星の中であの約束は有効で、だからこうして近くにいる。

(2011-10-03)
約束の有効期限(幼馴染みの恋物語-04

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