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ア・フュー・ミニッツ・クルーズ



 夜中に煌々と光る信号の色が示す意味ではなくて、その輪郭だけをただぼうっとなぞりながら歩いていた。ふと、その形は万国共通なのだろうかと取り留めの無いことを考える。それを確かめに世界を旅するのもいいかもしれない。ほんの一年ほど前の自分なら鼻で笑って一蹴するような思考を連ねていた。右足の後に左足を出す。意識から完全に離れたその動作が、一陣の風と鋭い声音に突然遮られた。

「危ない!」

 何だと思う前に自然状態ではまず体感しないだろう重力が鳩尾のあたりにかかった。うっ、と息を詰めるその眼前を猛スピードでトラックが横切る。どうやら轢かれかけた所を救われたらしい。数秒理解が遅れたのは、ぼんやりしていたせいだけでもないだろう。比喩でなく大地から浮き立っている。落ち着いた思考には現実でも落ち着いた足場が必要なのだ、恐らく。

「考えごとでもしていたのかい?危ないよ、実に危険……」

 相変わらず足はぶらぶらと揺れているが、この辺りになるともう状況は完全に把握した。バーナビーの鳩尾に背後からがっしりと手を回している『風の魔術師』――スカイハイもそのようだ。言葉を止め、頭を肩越しに乗り出してきた。

「バーナビー君じゃないか!」

 百万都市シュテルンビルトの平和を日夜守っているヒーローは、テレビ中継とも最後に会った記憶とも寸分違わぬ様子だ。フルフェイスのマスクからでは全く見えないはずの笑顔を簡単に連想し、バーナビーの表情もつい柔らかくなった。

「お久しぶりです、スカイハイさん。危ないところをありがとうございます」
「いいや!君が無事で何よりだ!」

 不意に沈黙が降りる。バーナビーは意思疎通のために目端で視線を送ったが、一拍、いや数拍、相手とテンポのズレを感じた。スカイハイはマスクにデザインされた角を20度ほど傾けたのち、しばらくしてそれを垂直に持ち直した。

「ああ、そうか!横に……ええっと、お姫さま抱っこだ!あれをしなければならないんだね?よし!」
「いえ!違います!違いますからやろうとしなくていいんですよ!」
「じゃあ、どうしたのかな?」
「降ろして頂けると有り難いんですが」

 まさか口で言わなければならないことだとは思っていなかった。少し論点にズレが生じてしまうことはあるが、基本的には鋭敏な人だったと記憶している。この数ヶ月で何か致命的な誤差が生じているとも思えないが、スカイハイの反応は芳しくない。ううん、ひとつ唸り声が上がる。

「君は今急いでいるのかな」
「……特には」
「高いところは平気だったね」
「平気でなければヒーローなんて務まらないでしょう」
「それは良かった!では、君の頼みは聞けないな!」
「……は?」

 予想外の返答に目が点になった。はっ、スカイハイがひとつ気合を吐き出すと、鳩尾にまた不自然な重力がかかる。先ほどまで0だった地面との距離が更にぐんと開いた。

「スカイハイ・ナイトクルーズに君を招待しようじゃないか!」
「ちょ、ちょっとスカイハイさん!」

 両腕だけで支えられた体重が鳩尾にかかり少し苦しかったが、それはすぐに心もとない浮遊感に変わる。気圧の変化で違和感の生じる耳から空気を抜いて、ひやりとした空気で肺を冷やした。

「生身なんですから、手加減をお願いしますよ」

 呆れた声だけ漏らす。確保された犯人のような体勢はあまり望ましくないが、咎める言葉や止める言葉はあまり意味が無いだろうとすぐに悟った。そういう人種ばかり集っているのが7人、いや8人のヒーローだったのだ。

「突然、迷惑だったかな?」
「今更ですよ」
「うっ……すまない……本当に久々だったからね。つい嬉しくなってしまった」
「相変わらずなんですね」

 スカイハイだから、で大抵の仲間は納得してしまうこの感覚が妙に懐かしい。バーナビーから笑みが漏れると、スカイハイも気負いを払拭できたらしい。恐らく笑っているだろう。なんでもない微笑みだけでも音や光が出ていそうな人だった。

 背後からバーナビーを抱えたまま、スカイハイはゆっくりと中空を滑る。眼下には幾千の街明かりが星空をも凌いで輝いている。百万ドルの夜景という陳腐な文句と共に各所で見る画だというのに、実際に視界を占領されるとやはり圧巻だ。人生のほとんどをこの街で過ごしてきたが、この景色をここまで満喫したのは初めてかもしれない。焼け落ちた家を攻撃する雨が黒く這う地面、バーナビーはきっとそればかり見ていた。

「シュテルンビルトは、美しいね」

 何の飾りもない感嘆は、スカイハイの性根を知っていれば最高の賞賛になるのだろう。今更何かを付け加える気にもならなくてただ頷いた。三層で瞬く街を頂点に、視界の果てまで裾野が続く。目を凝らせばオリエンタルタウンの明かりも見えるのだろうか。

「私たちはこれを守っているんだ」
「僕はもうヒーローではありませんけどね」
「でも、心で思っている限り、誰だってヒーローだろう?」

 引退会見の言葉をさり気なく繰り返されて、なんとなく面映い。しかし恥ずかしがることもない本心だ。強く頷くとそこで会話が途切れた。穏やかな風と共に光の溢れる街の上空を旋回する。不意にスカイハイの腕に少し力が入った。

「君がヒーローになって、色々なことが変わった。皆の距離や、HERO TVのスタイル……そして、私の意識も。最終的には全部良い方へチェンジしていったと思う」

 いつもはハキハキと正しいと思う言葉を惜しまない彼がひどく慎重になっているのを感じる。ありがとう、そしてありがとう、恒例の決まり文句は躊躇わずに続けられたが。

「僕は別に……目的のためにやっていただけです。そうして虎徹さんや貴方たちに助けてもらったんだ」
「うん、君はそう言うだろうと思っていた。だけど私は、そうではなくて、ええと……」

 スカイハイが慎重に落とした言葉がバーナビーの周囲をふわふわと漂っている。言い淀まれるうちにその言葉はあっという間に霧散してしまいそうだ。思わず名前を呼んで先を促す。きっとまだ笑っているが、きっとそれは困った笑みなのだろう。

「つまり……タイガー&バーナビーが、君が居なくなって寂しいと。私はそう言いたかったんだ」

 その言葉には今までの言葉のような浮力は無く、すとんと街明かりの中へ消えていってしまった。それを追いかけるようにスカイハイはゆっくりと高度を下げる。バーナビーはただ黙っているだけだった。スカイハイと同じ能力を持っていたら、きっと同じように今の言葉を追いかけたに違いない。

「無理に連れてきてすまなかったね、目的地まで送り届けよう!どこへ向かえばいいかな?」
「遠くへ……」
「え?」
「遠くへ、行きたいと考えていました」

 虎徹と共にヒーローを引退して、考えることは山程あった。それは今までたった一つの目的のために積み残していたものの集合だ。だが、目的が終点でないことを知ってからバーナビーの足は鈍っていた。それは必ずしも明るいことばかりではない。だからほんの少しだけ、考えるのをやめるという選択肢に魅力を感じていたのかもしれない。

「でも僕はまた、ここへ帰ってくるんだと思います」
「そうだと私も嬉しいよ」
「貴方のパトロールが無い夜空は、きっと寂しいでしょうから」

 ゴールドステージの自分の家までは、スカイハイの空路ではほんの一瞬だ。地面に降り立つと、スカイハイはすぐにバーナビーの正面に回った。ヒーロースーツのまま抱擁で挨拶をするなんて違和感を覚えても良さそうなものだが、不思議とあたたかい温度だけを感じている。バーナビーから離れたスカイハイは姿勢正しく夜空に舞い戻った。ピシリとした敬礼は誰もが憧れるヒーローそのものだ。うっかり知人を空中に拉致する気さくな男はそこにはない。

「また会いましょう、ヒーロー・スカイハイ!」
「ああまた会おう、会おうまた!」

 けれどきっと、また会いたいと思ってるのは夜空で言葉を取りこぼした彼なのだと思う。

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