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全部はいらない、たったひとつください



一、やれやれ呆れの菜箸

 禰豆子にとって義勇は立派な大人の男の人だ。落ち着いていて、強く逞しく頼りになって、七つも年が上。けれどほんの一瞬、それをすっかり忘れてしまう時があって、こっそり兄にだけそういうことを打ち明けると、分かるよと真剣に頷かれたりもする。例えば遊びに来てくれた時、その日の当番が厨に入ると、義勇はよく知る人が見ればすぐに分かるくらいソワソワし始める。兄と同じ真面目で働き者の性根を持っていて、いくら楽にしていてくださいと言ったって働かないでご飯にありつくのは調子が狂うのかな、と思っている。どっさり手土産を持ってきたのだから気にしなくてもいいのに。何か手伝うことがないかというふうに、そうっとこちらを窺ってこられたりすると、どうにも小さな弟のことを思い出してしまう。鍋から顔を上げ菜箸片手に義勇さん、と呼びかければ待ってましたとばかりに土間に下りてくる。やっぱりどうにも。

「義勇さんって、私の言うことを何でも聞いてくれるんですよね」

 見上げる切れ長の涼しい蒼い目が今は驚きで丸い。そんな顔をしていると益々幼く見えてしまう。足元で火加減を見ている兄が身じろいだ気配がした。くつくつ、鍋で煮汁が沸き立つ音が沈黙の中で踊る。ちなみに煮汁を吸っているのも義勇のお土産の椎茸だ。見たことないくらい傘が大きかった。

「宇髄さんから聞きました!」

 半月ほど前、たまには遊びに来いと四人揃って招かれた時に聞いた話だった。アオイからしっかり睡眠と栄養を取ることが薬だと言い渡された義勇は、屋敷で静かな暮らしを──とはならず、言葉を額面通りに受け取り精のつく食事を求めて全国を行脚している。元々柱として忙しい人だったから体がついつい動いてしまうようだ。先日は天元の家を訪ねて行って、晩酌片手にそういうことを零したらしかった。その話を耳にした時の衝撃たるや。禰豆子はにっこりと笑みを浮かべた。

「聞いてくれるんですよね?」
「……何かあるなら」

 義勇はとにかく怪訝そうにしている。炭治郎や禰豆子がそんなに無茶なことを言うはずがないと知っているようにも見えた。そうだったら嬉しいと禰豆子が思っているからそう見えるだけかもしれないけれど。

「座ってください、ここに」

 手のひらで示したのは善逸が皮剥きなんかの時に使えるようにと拵えてくれた腰掛だ。小さいものなので義勇は一瞬不安げに脚のあたりを眺めていたが、禰豆子が目を逸らさずにいるとおずおずと腰を落とし浅く座った。頭の位置が低くなって、あちこち好き勝手に跳ねる癖毛の行き先が俯瞰できる。ふふ、思わず笑みが漏れてしまった。

 菜箸を置き、別の箸を取り出して椎茸を摘まみ上げる。ふう、ふう、小皿の上で入念に息を吹きかけて箸を差し出した。あー、と大口を開けて義勇に近づけるが、戸惑った目が見上げてくるだけだ。

「味を見てください」

 なかなか開かない口に焦れて頬を膨らませれば、ようやく義勇は動いた。ちょっと開いた口に椎茸を放り込んで箸をおく。神妙な顔で咀嚼するのがおかしい。

「もうちょっとお砂糖入れましょうか?」
「いや……丁度いいと思うが」
「じゃあ、佃煮はこれくらいで」

 煮汁が無くなるのを待つことにして、菜箸で二、三欠けの椎茸をまた小皿に載せた。箸ごと義勇に押し付け、今度は炭治郎が強火を守っている鍋に向き直る。蝶屋敷で教えてもらったことだが、天ぷらは油の温度が肝要。大丈夫だと思う、と炭治郎がちょっと脇に逸れてくれたので衣を落としてみれば、じんわり泡を立てながら水面に浮き上がってくる。春菊に銀杏、レンコン、ゆり根、ゴボウにさつま芋。ヤマメは後回しにすることにして、下拵えしておいた野菜を少しずつ油の中に投じ、頃合いを見ては引き揚げ、そのうち一つ、二つ、義勇の口に放り込む。

「禰豆子」
「はーい」

 ぷつぷつじわじわ、油が泡立つ小気味の良い音の狭間、衣のようにふわふわ義勇の声が浮き上がってきた。元気に返事をしてまた揚げたてのゆり根を皿に分けてやり、ふうふう冷まして口を開けさせる。

「味が悪いですか?」
「いや、美味いが」

 良い油を贅沢に使うので、思い立ついい理由が無い限り、今日は天ぷらにしようとはなかなかならない。あまり自信が無かったのでほっとする。

「我妻が」
「善逸さん?」

 言われて初めて部屋の方へ目を遣れば、善逸がぱっと輝かんばかりの笑みを浮かべた。その足元では伊之助が行儀よく正座をしつつもぐらぐら体を揺らしている。つまみ食いに走ってうっかり鍋がひっくり返ったりすれば大惨事なので、出来上がりまで動かない、と蝶屋敷で言われていたのが体に染みついている。おかしくなって喉を鳴らして笑ってしまった。

「禰豆子ちゃん!俺も!俺も手伝うよ味見!」
「善逸さんたち、我慢できなくなっちゃったんですねえ」

 今度は中くらいの皿を取り出し、二人にもちょっとだけつまみ食いをより分け義勇に運んでもらう。歯ぎしりのような音を聞いた気がしたが、鍋から離れられないので確かめようがない。きっと気のせいだろう。

「義勇さん、義勇さん、さつま芋が揚がりましたよ!早く!」
「禰豆子」

 パタパタと手招きをすれば、傍まで近寄ってきてはくれるが、義勇は複雑そうな表情だ。腰掛に戻る気配は無い。何でも聞いてくれるって言ってたのになあと思いつつ首を傾げると、禰豆子の目から逃れるように義勇の睫毛が下向きになって頬に影を落とした。

「……これじゃ腹いっぱいになる」

 一瞬ぽかんとしてしまったのは、綺麗な顔をしている人だから、そんな風に物憂げにしているといかにも難しくて重大な問題を抱えていそうに見えてしまうからだ。菜箸を持った手の甲を口元に当て、ぷつぷつじわじわ、揚げ物の音みたいに笑い声が泡立つ。

「義勇さん、ちっちゃな子供みたい」

 とうとう声に出してしまった。眉が下がって、義勇の表情は益々複雑そうだ。これ以上困らせるのはかわいそうなので、目をかまどのほうへと下ろした。義勇と同じような顔でしゃがみ込む兄とばっちり目が合う。

「お兄ちゃん。義勇さんが夕ご飯食べられるようにお散歩してあげて」
「禰豆子」

 炭治郎の声はいつも通り優しいけれど、禰豆子を咎めるような響きがある。しかしはっきりそれを口にしないのは、炭治郎もきっと禰豆子の気持ちが分かっているからだ。

 だって義勇さんが何でもするだなんて言うから。私やお兄ちゃんが、そんなこと絶対にないけれど、死んでほしいと願えば死ぬと言ったって聞いたから。どうしてそんなふうなやり方なんだろうって思ってしまった。おんなじことをされたら、どんな気持ちになるか分かってくれるのかな。

「義勇さん」

 無理やり強くしていた心の中のかまどの火を落として、禰豆子は義勇に目を戻した。鍋も今は何も入れていないから静かに熱気を漂わせている。

「行ってください」

 どんな顔をすればいいか分からなくて、結局困った笑みになった。怪訝そうに眉根を寄せて動かないでいる義勇の左手を炭治郎が引っ張っていく。そろそろヤマメを揚げよう。それで、いつもみたいに楽しい夕餉を迎えられるようにしておこう。しょうがないなあと思う。義勇は落ち着いていて、強く逞しく頼りになって、七つも年が上で、だけれども不器用なところのある人だということはもう分かっている。それがたまらなく愛しいとも思うから、これはしょうがないことなのだ。

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