二、もやもや抱擁の秋
勝手口を一歩出るとたちまち秋の中に入った。静かで、ひやりと冷たく、赤や黄色に覆われた木や土に囲まれる。火の傍で仕事をしていたからか、別の世界に足を踏み入れたような気分になった。家から二十歩も離れていないのに二人だけしかいないところに来たみたいだ。もし手を離したら義勇も居なくなって一人の世界になるかもしれない。子供じみた妄想でぎゅっと強く手を握りしめる。硬くて、ざらついていて、傷痕のある大きな手。それを弟や妹の手を引くように包もうとしているのがなんだかちぐはぐだ。炭治郎、黙って引っ張られていた義勇が声を上げる。いつもの通り静かで落ち着いているから、秋の空気にすっと溶けて馴染み、赤や黄色になって足元へ落ちて行ってしまう。はいと答えたが足は止めなかった。さく、さく、足元で秋の草葉が乾いた音を立てる。
「ひょっとしてあれは、何か」
何かを心配に思う匂い。禰豆子のことを言っているんだろう。特別な感覚が無くとも様子がおかしいことが分かったようだった。怒っている、呆れている、戸惑っている、もどかしく思っている。どれも近いようで当てはまらない匂いだから、炭治郎には義勇に答えを教えてやることはできない。多分禰豆子自身にもいい言葉は見つからないだろうと思う。
「炭治郎」
もう一度静かに、穏やかに名を呼ばれた。そうすると炭治郎にはもう逆らうことができない。義勇は炭治郎や禰豆子が望めば何でもすると言ったらしいけれど、言葉にしないだけで真実はまったく逆さまな気がする。炭治郎は義勇が望まないことは絶対にできやしないのだから。
「はい」
もう一度はっきりと、力強く返事をする。今度は望まれた通りに足を止めて義勇を振り返った。ほっと安堵する匂いが落葉のようにぱらりと落ちてくる。手を弱い力で引くと、特に疑問に思う様子もなく義勇は半歩踏み出した。それになんとも言えない気持ちになって、今度はもう少しだけ強い力で手を引っ張り、すぐ傍らの細いブナの木に背を預けてもらう。長い前髪の先、分厚いまつ毛の下、木々に囲まれた湖面のように蒼い瞳をじっと見上げる。
「義勇さんは、俺が望めば何でもしてくれるんですね」
義勇の背には木肌があるので、炭治郎が枯れ葉を草履で地面に擦り付けて近づくとその分だけ距離が縮まる。手の甲を包むように掴んでいた手を腹の高さまで持ち上げた。
「例えば」
そしてそのまま指先をするりと滑らせて、手首に触れる。着物の裾が手の甲を撫で、着物の中に留まる義勇の体温に潜り込んでいる感覚がした。
「俺が二日おきに来てくださいって言えば、来てくれるんですね」
「ああ」
指先で、どくり、どくり、ゆっくりと血が流れる。義勇は少し不思議そうな顔で炭治郎を見下ろすだけで、炭治郎の挙動を気にする素振りはまるでない。
「いっそここに住んでくださいって言ったら」
「お前が望むなら」
答えるまで少し間があった。実際に住むということを想像したのだろう。暮らしぶりにしては広い家だとは思うが部屋も限られているし、人手に困る程仕事があるわけでもない。もし本当にそういうことになったら、きっと義勇は自分だからこそできることを模索し始めてくれる。顔を伏せ、重なる手を隠す着物の裾を見つめた。どくり、どくり、変わらずゆっくりと血が流れる。
「どうした、炭治郎」
「……分かりません。なんだかもやもやするんです」
またするりと指を滑らせると、手首のうらに親指が触れたのがくすぐったかったのかピクリと義勇の手が揺れた。ざらついて乾いた手のひらが、着物の裾から出ていく炭治郎の手をつかまえ、優しい加減で熱で湿る炭治郎の手を包み込む。どきりと大きく心臓が跳ねた。たまらず顔を上げる。
「俺、すみません、義勇さんに怒ってるかもしれない」
本当はそうとは気づきたくなかったし、義勇にそれを知らせるべきじゃないと分かっていた。あの雪の日、この山の中で義勇が下した命がけの決断に、炭治郎も禰豆子も一生尽きぬ感謝があって、いくら親しくなってもその線引きを超えてはいけないと分かっていた。分かっていたのに言わずにいられない。
「なんで」、全く同じ言葉が重なった。義勇は炭治郎の手を握ったまま戸惑いを隠さない。初めて出会った時のような氷の張った目の色ではない。あたたかい親愛の気持ちが惜しみなく注がれている。
「なんで、俺たちの言うことは何でも聞いてくれるんですか」
とにかくもどかしい気持ちが体中に降り積もって、どうしようもなかった。義勇が言葉を続けるつもりだったのかどうかもろくに確認できず炭治郎は自分の言葉を続けるしかなかった。気づけば驚くほど近くに義勇の鼻の先がある。手を優しく包まれたまま見つめ合っていた。
「俺の余生くらいはお前たちのものだろ」
本当なんだ。
あまりにも気負い無く言われた言葉に理解した。炭治郎や禰豆子が、そんなことは絶対にないけれど、もし死んでほしいと願えば死ぬと言ったのは、嘘や冗談じゃなくて本当のことなのだ。
「義勇さん」
手を無理やり引き抜いて、今度はまた炭治郎がその左手を包み込んで義勇の胸に押し付ける。じりじり草履の下で乾いた土と落葉が擦れて音がした。
「好きですか。俺と禰豆子が」
一体炭治郎が何をそんなに真剣に迫っているのか分からないのだろう。まつ毛が跳ねて丸くなる目を注意深く覗き込む。炭治郎の探すものが水面に飛び跳ねてきたらすぐに掬い上げられるように。
「明日からもう、一生会えないでも構……わなくはないです。構わなくはないですけど、きっと納得してみます。だけど、会えなくても、俺たちに会いたい気持ちにはなってください」
炭治郎が一月に一度くらい顔を見たいと言ったのを律義に覚えているのだと天元に教えてもらった。それを聞いた時、嬉しいと思ったがそれと同じくらい寂しかった。連絡も何もない突然の訪問が嬉しくてたまらないのは、義勇の日常の中に炭治郎がふっと現れることの証明だと信じていたからだ。
「それだけをください。他は要りません。それが俺は一番ほしい」
口にして、ああそうかと思う。炭治郎は今ここに木に寄り添ってまっすぐ立つ義勇が好きなのだ。炭治郎や禰豆子のために優しく親切に開かれた義勇ではなくて、着物の裾に隠れた体温に触れるように、義勇の心の一番芯に近いものを知りたい。それがほしい。
「好きでいてください、俺を」
義勇はもはや不思議そうな表情さえしていない。何を考えているのか全く分からない無表情で、少し口を開いてぼうっと炭治郎を見下ろしている。ひょっとして意味の分からないことを言ってしまっただろうか。炭治郎は説明が下手らしいから。どううまく伝えたらいいか──眉を下げた途端、義勇が小さく首を傾けた。
「これ以上か?」
一瞬、本当に言われた意味が分からなくて固まって考えてしまった。慎重に自分の言葉を遡って行って、息とも言葉ともよく分からないものを呑み込む。見開いた目に乾いた秋風が触れ、瞬きを繰り返す。
「どこまで?」
ふっと義勇が笑った。怒っている、呆れている、戸惑っている、もどかしく思っている。どれも近いようで当てはまらない匂い。ただでさえ近い距離を詰めて義勇が目を覗き込んでくる。額がぶつかりそうだ。
今までそうしてみたいなどと思ったこともないのに、強烈に突き動かされ体が動いた。長男でも無理だ。これだけ許されたら無理だ。ぎゅうっと分厚い胸板に体を預けて腕を回す。
「限りなくです」
腕の中笑いで揺れる、匂いの優しさと体のあたたかさが愛しくて、涙が込み上げてきてしまった。