夜明けの気配がカーテンの隙間から覗く部屋に音は無い。先程まで部屋に満ちていた脳まで溶け出しそうな熱気も、人間の気配を濃縮したみたいな匂いも、抑えきれない苦しそうな声も消えて、夏準が使っているシャンプーの匂いのほうが感じ取れるくらいだった。余計な物が一切ない部屋には沈黙の隙間を埋めるものすら見当たらない。ベッドに座ることを許されている自分は、夏準にとって余計なものではないと認識されたのだろうか。疲れ切った心と体が擦り切れたレコードのように不安定に音飛びする。
「アレン」
掠れた声に名前をなぞられてどうしようもなく泣きたい気持ちになり、そんな自分が情けなくて苦しい。振り向かずに自分の手元をただ眺めていると、呆れた吐息が沈黙に溶かされた。
「どちらかにしてもらえますか?」
どちらか。道が二つに分かれているらしいのに、どちらの標識も読めなくて返事ができない。とうとうベッドを振り返る。夏準の表情はただただ眠そうだった。重そうな瞼がゆっくり上下してアレンを見上げる。
「後悔するならしないでください」
どっと心臓に何かが突き立てられた気分になる。思わず胸に触れた。当然何の感触も無く、脈動が苦しく手の下で蠢くだけだ。口を薄く開けたまま何も言えないでいるアレンを夏準は眠そうな眼で見上げた。何か反応しろと無言で迫っている。
「うん……」
「『うん』? 意味のない音ですね」
ふ、なんとか返した頷きを鼻で笑われてしまった。とうに分かっているからだろう。もう二度としないなんてアレンには誓えない。暗い雨の向こう、夏準の形を気が済むまで確かめられなくなったら。襲い来る不安に圧し潰されて死ぬんじゃないかとさえ思う。
「するなら、後悔しないでくださいって言ってるんです」
ただ目を伏せるだけのアレンを夏準は眠気混じりにまだ笑っている。するする、シーツが擦れる音がして目を動かせば、夏準が億劫そうに体を少し起こしていた。シーツがめくれるのも構わずに体を折り、猫が擦り寄るみたいに頭をアレンの腿に預ける。突然のことに両腕を浮かせたまま何もできないでいるアレンが心底愉快らしい。沈黙の重さなんかまるで感じていないのだろう軽やかな笑みが部屋の中を好き勝手泳いで溶けていく。
「これくらいで。自分が何をしたか忘れたんですか?」
「そういうわけじゃ……」
最後まで言葉が続かなかったのは、夏準がつい先ほどまで見せていた熱に浮かされた表情や声を思い返してしまったせいだ。まるでそれが夢や幻だったみたいな涼しい顔が眼下にあるのに、本人が自分からそれが現実だったことを突きつけてくる。良くない熱が蘇りそうな自分に心底呆れつつ目を逸らした。
「後悔じゃなくて。いや、後悔してるとこもあるけど、なんて言うか……もっと、うまい方法があるのにって分かってるから」
それができない自分が許せない。「夏準が許してくれている」、その事実を本当はもっと大事にできるのではないだろうか。それを自分のためだけに踏みにじっている気がしてならない。なのに、立ち止まる程の冷静さを保てもしない。ふうん、膝の上に零されるのは関心の無さそうな薄い相槌だけだ。
「ああ……テクニックの話ですか? 大丈夫ですよ、最初よりは随分マシです。どうでした? ボクは」
「あのな……!」
思いもしない方向に話を捻じ曲げられて思わず目を合わせてしまった。そこにあるのは思っていたよりもずっと優しくて柔らかい色をした瞳だ。かち合うと嬉しそうに細くなる。
「面倒くさいひとですね」
やっぱり何も言えないアレンをくすくす笑いながら、するする夏準はシーツを巻き取って枕に頭を戻していった。重みの消えた膝が少し寂しい。そんなことは到底言えないような真似を夏準に散々強いたのに。
「もう少し眠ります」
「うん……おやすみ」
「今日のボクの当番は全部アナタがやってくださいね」
「分かってるよ」
苦笑して布団の端を引き上げてやる。枕に押し付けられて乱れた後ろ髪を直してやろうと指を伸ばし、結局触れずに下ろした。夏準は後悔に勝てないアレンをただじっと眺めている。やっぱり呆れたような笑みを口元に滲ませて。
「正直なところ、一日情けない顔の犬を連れ回すのは悪くないですよ」
いつものようにアレンをからかう言葉や目が、結局のところ何よりアレンを一番深いところで許している。何でもない言葉のはずなのに、とうとう耐えきれなくなってベッドに両手を付いた。夏準の顔を覗き込む。
「俺のだよな」
眠そうな瞳の上でゆっくりと瞼が上下するのが焦れったい。「お前は、俺のだよな」、余裕も技巧も何もない剥き出しの問いだ。ふ、夏準がまたアレンを鼻で笑っている。
「逆です」
するり、シーツを滑らせて上がった腕が襟元を掴んで引いた。されるがまま体が傾く。
「アナタがボクのものなんです」
妙な体勢、十数センチの微妙な距離で言葉もなく見つめ合った。アレンを散々許しておいて、夏準にとってそこだけは譲れないところらしい。しかしアレンは必死だった。これを確かめずには朝に戻れない。
「取られたくない」
夏準の表情から笑みが消えた。何の色も無い呆けた表情。また焦らされている気分になって、しかしそれ以上に重ねられる有効な言葉もなく、ただ祈るように名前を呼ぶほかにできない。夏準。
「……本当に強欲ですよ、アナタ」
はあ、聞かせるための大きなため息が沈黙に溶けて、更に強い力で首が引き寄せられる。二人にしか聞こえないアンサーに名前が付いて、耳元で甘く再生された。