出来過ぎだと思うくらい、美しい記憶だった。
夜が冷やした澄んだ空気を穏やかに温める朝焼け。こちらに興味を持って見つめる目も同じ色をしている。柔らかい陽光とコーヒーカップから立ち昇る湯気で霞む朝の風景はすべてをパステルカラーに塗り替えていた。
たった一言、五つの音。それがどんなメロディーよりも甘く美しく響いた。正しいか間違っているかなんて気にもしていない、アレンの好む、アレンの持つ音楽への純粋な興味。それが心に素手で触れた。天国で横たわるみたいに心地よくて、地獄の底に突き落とすような苦しい肯定だった。本当はずっと、そうされたかったのだと知ってしまったからだ。別に賛同も賛辞も要らない、ただ隣に座ってアレンの手の中にあるものを覗き込んでほしかった。アレンの音楽ではなく「正しい音楽」のために、アレンは「何も持っていなかったことにされた」のだ。
多分、それを今もみっともなく、情けなく恐れている。
あれから、アレンの中にはいくつもいくつも美しいトラックが積み重なった。音楽や機材の説明をひとつも聞き洩らさずに吟味する真摯な横顔。心臓ごと抉り取られそうなリリックと視線。舌が機能してないんですね、呆れたような声と表情。物を出しっぱなしにしないでください、不機嫌なしかめ面と低い声。アンの華やかな笑い声、親しげに和らぐ表情や触れた手の温もりが鮮やかなコード進行になって曲を彩る。夏準、名前を呼ぶといつからか返る穏やかな目が好きだ。何度も確かめるように呼んでは無題のトラックが積み重なっていく。
両手の中に抱えれば抱えるほど、それが何かの拍子に零れ落ち、すべて無かったことにされるのではと怖くなる瞬間がある。そんな日なんて来ないと信じているのに。健康とは言えない生活のせいかもしれないし、反作用の影響なのかもしれない。その不安が拭っても拭っても取れない曇りになって心に暗い雨の夜を呼び込む。
「アレ、ン……!」
はあ、はあ、湿った荒い呼吸が薄暗い床を這う。最初は向き合っていたはずなのに、より深く、より深くと動くほど、夏準の体は逃げるように床に伏せられた。スウェットが中途半端にめくれ上がった背中に触れるだけで体が大げさに跳ねる。あ、と一際高い声が甘く引き絞られた。ぎゅっと締め付けられて息を詰める。髪の根本を不快に濡らしている汗が首筋を伝う。
「な、ああ……! や、もう……もういい、あれん、싫어……っ」
もう夏準は言葉をまともに繋げられなくなっている。何も掴むもののない床に指を滑らせながらうわ言みたいに音を吐き、鼻先を苦しそうに床に擦り付ける。いつの間にか外れたカラーグラスが残骸みたいに頭の向こうに転がっていた。普段の姿からはとても想像できないくらい熱に浮かされて藻掻く夏準をどうしても逃がしてやれず、ゆっくりと体を屈めた。苦しそうな呻きが押し出される。
「놓아、줘」
呻きなのか言葉なのかも分からない囁きが振り絞られる。ぺた、ぺた、汗で湿った夏準の手のひらが苦しげに床を叩く。ん、苦しそうな息とともになんとか身を捩った夏準が涙に濡れて重そうな睫毛を上げた。
「夏準……」
そこにいつもの穏やかさはない。それなのに、アレンはその苦しげで理性の溶けた表情を見下ろしていることにどこか喜びを感じてしまっている。そんな自分が気持ち悪い。夏準という形を、声を、存在を、何もかも触れて確かめないと気が済まない。アレン自身にもどこまでやれば満足できるのか分からなくなってしまっている。
ふ、と漏れた息が自分のものであることに一拍遅れて気が付いた。パタ、と落ちた雫が夏準のスウェットに染みる。パタ、パタ、といくつか続いてそれが汗ではなく自分の目から流れ出ていると気が付いた。
「……ばかですね」
「うん」
声が柔らかさとほんの少しの理性を取り戻していた。名前のない、甘くて美しいたった五音のトラック。細くなったその目元から熱に浮かされて流れ出た涙が自分のものより遥かに綺麗に見えて指を伸ばしたくなった。
「夏準……もっと、触りたい」
は、は、短い息を吐きながら、苦しい体勢でアレンを見上げていた夏準は体の力を抜いて頭を床に付ける。何も返事はない。そこにあるのは次に何が来るのか楽しむような濡れた目だけだが、それがもう答えになってしまっている。止まらない涙を無理やりに拭って、もっと身を屈めて深く繋がる。抗議するように声が漏れる唇にキスをするために。
(2024-01-06)