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Every moment bliss with you



Totally into you!

 何か特別な変化があったわけじゃない。あの晩の前後で日々をカメラロールのように並べてみたって、間違い探し程度の些細な違いしか見つからないだろう。三人の生活は騒がしく賑やかに、光に満ちて続いている。

 日常から零れた光が淡く零れて夏準を眠りから優しく引き上げた。一月の終わり、カーテンを締め切った部屋にはまだ日の出の気配も無いのに、何故だかそんな感覚がする。ゆっくりと体を起こした。加湿器の音だけが部屋の床に這いずる。覚醒に使う時間はほんの数瞬、さっさと床に足を下ろして立ち上がった。

 睡眠は何においても人間の基本だ。美容にも健康にもパフォーマンスにも、睡眠と食事をいかにバランス良く維持できるかが影響する。それなりにこだわった寝具と一人で寝るのには充分な広さのベッド。本来、それだけあれば夏準の生活は満足いくレベルで成立する。妙なのは、それに物足りなさを感じている自分の感情だけだ。

 手早くジョギング用のウェアに着替え、スマートウォッチを手首に巻きつつリビングに入った。丸くなっている背中を見つけてどうしても口角が上がってしまう。

「おはようございます、アレン」
「んー……」

 返事のつもりなのか、作業に対する苦しみなのか、低い唸り声だけが返される。キッチンで水を一杯飲んでから、そっと近づいてその肩に手を置いた。ぴくり、アレンの背筋が少しだけ伸びる。

「おはよ」

 いかにも重そうな瞼がかかった目がふにゃりと溶けた。そうしていると普段の鋭い印象はさっぱり消える。笑みが零れるのを抑えきれない。

「もうこんな時間か……」
「捗ってますか?」
「うーん……もうちょっとかなあ」

 右手で画面をいくつか切り替えているが、何かを再生して聞かせるつもりはまだ無いようだ。夏準のルーティンに配慮できるくらいにはまだ完成と距離があるのだろう。苦笑に下がった眉の端に唇を落とす。くすぐったそうな表情が笑みに混じった。

「行ってらっしゃい」
「ええ、行ってきますね」

 眠たげな笑みを背に玄関へ向かう。エレベーターの中でなんとなく自分の口元に指を当てた。元々そんな習慣も無いのに、気づけばアレンのなんでもない表情に唇を寄せていることがある。これが違いと言えば違いだった。アレンから伝染して罹患した病だと確信している。

 身を切るような冷え込みの中に飛び込む。冬の空はまだまどろみの中に居るが、東の端に火が灯って少しずつ焚きつけられている。その色がアレンの鮮やかな幻影を思わせた。

 決まった距離を走り切り、シャワーを浴び、身支度を終える頃にはリビングにはすっかり朝が満ちている。人間らしい暮らしに逆行してテーブルに潰れているアレンに苦笑する。

「おはよー……」
「おはようございます、アン」

 重い眠気を背負いながらも、エプロンを身に着けスタンバイしているアンに満面の笑みを向けた。昨晩もバイトだったはずだが、この三日なんとか皆勤賞を維持していることには敬意を払いたい。夏準もエプロンを着け、アンにひとまず野菜を用意させる。これまでの人生に料理という習慣が全く無かったアンは、細かいところまでひとつひとつ見てやる必要がある。が、夏準が何か言うたびにワタワタとキッチンを右往左往するのが愉快で手間には感じない。

「ねえ、夏準」
「なんですか?」
「もう、そろそろいいでしょ?」
「何のことですか? 毎朝早起きできて偉いですね、アン?」
「言い訳くらいはさせてよ!」

 カブを危なげしかない手つきで切り終えたアンは、包丁を丁寧に手放して身を乗り出した。夏準としては別に一生このままでもいい。そんな思惑が何故だか伝わったらしくアンが必死の形相で首を横に振っている。

「仕方がないですね。一応、聞いておきましょうか」
「あれは色々タイミングが重なっちゃったの! 邪魔する気なんか無かったんだよ! ほんとに!」

 三日前の「デート」の一件について、面白がっているとばかり思っていたアンだが大いに反省するところがあったようだ。人生の酸いも甘いも知ったような顔で子供のような悪戯を仕掛けてくる困ったところがある半面、誰かの守りたい領分とうまく距離が取れる繊細な人間でもある。悪意がないことはそもそも分かっている。第一、夏準としては知られようが知られまいがどちらでも構わないのだ。悪い状況にならないようコントロールできる自信があるし、あのお人好し集団に何かができるとも思っていない。有無を言わせず笑顔を維持しているだけでアンがあれこれ気を回してくれるのでありがたいくらいだったのだが。

「まず、雷麺亭で紗月くんたちにバッタリ会って……」

 アンが語るところによると。

 休日の予定がぽっかり空いてしまったアンは、ショッピングに集中できない事情があり、ガツンと気持ちを切り替えるため雷麺亭ののれんをくぐった。そこで紗月、玲央、北斎、そして四季とリュウが仲良くカウンターに並んでいるところに遭遇したらしい。

『な、なあ……アン』
『なに? どーしたの?』
『紗月ちゃんホラ、早く! 気になってんでしょー?』
『ウキ? ウキウキキー?』
『うるせえ! っとに、人のことバカにしやがってこいつら……!』

 何か話したそうな紗月に気を使ったのか玲央と北斎がひとつずつ席をずらしたので、導かれるまま紗月の隣に座ってラーメンを注文した。頬杖をついて覗き込むとたちまち話しづらそうになるスレていない紗月がかわいい──とのことだが、夏準にはよく分からない。何を考えているのか分かりやすいので遊びがいがあるのは理解できるが。

『ヨ……ヨンパチと……』
『夏準と?』
『つ、つつつ付き合ってるって……本当か』
『え!? なんで知ってんの!?』

 その場の空気はたちまち固まった。そしてアンは自分の口を呪った。あ、と口を押さえるも全てが今更のことだ。驚愕の視線を一身に受け、アンの焦りは頂点に達した。

『ごめん! 今の忘れて! お願い! ノーコメントってことにさせて? ね?』
『う、い、いや、でも……』
『って言われて忘れられるわけないよね……もー僕ってなんでこうなんだろ』

 がっくり項垂れるアンを隣に座る北斎がよしよし撫でて慰める。自分でも一か月全く気づいていないようなことをまさか紗月たちに知られているとは思わず動揺してしまったらしい。紗月に縋るように懇願したが反応は思わしくなかったようだ。きっとアンの予想する原因と実際の彼の心情は全く異なるものだろう。

『さすがに僕もびっくりしちゃったなあ。全然そんなんじゃないって思ってたからさあ、BAEって』
『そうだよね。僕もその可能性頭に無くってさ、全っ然気づいてなくて』
『じゃ、じゃあなんで……』
『なんで?』

 先ほどまでの威勢をすっかり失い、泣きそうな目でボソボソ喋っている紗月を不審に思いつつ、アンは玲央の問いについて思いを巡らせてみた。伸びたラーメンと紗月を絡めたリュウとそれを制止する四季の即興ラップをBGMにして。

『やっぱり……二人にしか分からないことがあったんじゃないかなあ』

 その時のことを思い返し、アンは夏準に苦笑を傾けて見せた。夜用に煮込み始めたソルロンタンの水面を眺め、生活に根差したそれをどこから聞かせてやればいいか迷ってしまった。そういう意味では確かに、アンは知らない時間というものが欠片のように存在するかもしれない。

『ふ、二人にしか……』
『でも、ちょっと意外でした』

 すっかり打ちのめされた様子の紗月を支えるようにして四季が口を開いた。何のことか分からず首を傾げる。

『てっきり、オーナーのことが好きなのかな、って……思っていたので』
『え!? 夏準が!?』
『い、いえ、アンジーさんが……』
『オー! さすが我らがぼす、モテモッテ~! リュウくんもぼすの魅力にはメロメッロ~! このまま宇宙征服だ~Here we go we go~!』

 四季の首に腕を回してぐらぐら悲鳴を揺らしながら気の抜ける即興フックを気分良く歌い上げるリュウを眺めながら、アンは自慢の束感まつ毛をバシバシと瞬かせた。今の話と僕がセンセーを大大大好きなことと何か関係ある? 自分の発言を遡ってみて──

『……僕!?』

 とんでもない誤解を与えていることに気が付いた。思わずカウンターに両手を付いて立ち上がったが、マイペースな伝説がちょうどその中間に新作ラーメンを設置した。

『僕と夏準!? 違うよ! あるわけないじゃん! 夏準とアレンの話!!』

 ということで、夏準とアレンの関係はその場に居る面々に明らかになった、ということらしい。武雷管の片割れにまでこんな個人的な事情が知れたと知ってアレンが卒倒しないといいが。当人は呑気にスヤスヤ寝入っている。

「それ、言い訳になります?」
「う……ならないかも……」

 満面の笑みを向けると、引き攣った笑みが遠ざかった。切った野菜とドレッシングを和えさせるべくボウルを差し出す。アンはへっぴり腰で恭しくそれを受け取った。

「でも、びっくりしちゃってもしょうがないと思わない!? いつの間にそんな話……」
「知らなかったんですか?」
「知ってたの!? だから言ってよ!」
「案外鈍いんですね、アンって」
「そんなことないって自分では思ってたんだけど……最近ちょっと自信無くなってきちゃった……」
「気にすることでもないでしょう。むしろ面倒が減りますし」

 どうやら出どころは大学らしいのだがハッキリとは分からない。あまりに下衆なゴシップなどはさすがに弾き出しているが、今のところ困ったことにはなっていないので放置している。セレブリティーのそういう話題が好きな人間も世の中には一定数居るので、人目を集める手段の一つとしてカウントしてしまえばプラスにもできる。

 ふと、アンが何とも言えない顔でこちらを凝視していることに気が付いた。アレンとのことを知っているアンとしては居心地の悪い噂なのかもしれない。しかしアンはどうにも余計な面倒ごとを引き付けやすいところがあるのだ。アレンにも言えるが、時折興味に任せて自分から突っ込んでいく時もあるので、首根っこをよくよく掴んでおく必要がある。アンのあごに指を添えて微笑んだ。

「ボクたちを超えられる自信がある人間なんて滅多に居ないでしょう?」
「あは……さすがドS腹黒王子……」
「アレンも安心じゃないですか? divorce cakeを作る可能性が減って」
「変に拗れても知らないからね?」

 すっかり呆れ切った様子のアンを放免してやり、話している内に下拵えしたじゃがいもを電子レンジに収める。その間、戸棚から皿を見繕ってサラダの盛り付けをアンに任せることにした。

「それで?」
「えーと、何だっけ……そうそう、全然信じないから、見てれば絶対分かるからって言っちゃって」

 その流れで夏準とアレンを尾けることになったのは想像に難くないが、アレンがアンに何かを相談して行先を決めてたようには見えない。もしそうしていたら、あんなに頓珍漢でベタなことなんかせずに、もう少し早く「らしい」ことで構わないと思えていただろう。夏準の疑問を察したアンは呆れた笑みをアレンの背中に向けた。

「アレン、どう見てもヘンだったでしょ?」
「まあ……」
「僕に服のこと聞いてきたんだよ!? ステージ衣装じゃなくて! 普段着! これで気づかないわけないよねぇ」
「なるほど」

 それとなく待ち合わせの場所を聞き出して、まああの辺りなら遊ぶところもあるしと深入りしなかったらしい。夏準たちを発見できるかどうかは賭けだったと言うが、改札前のカフェの窓に添うカウンターにいつまでも居座っていたのだから難しいミッションではなかっただろう。

「でもさー、全然デートっぽくならないからみんな信じてくれなくて、意地になっちゃってさあ……」
「……もう一度聞きますけど。言い訳になりますか? それ」
「ごめんなさい」

 何のことはない。元々アンはアレンがうまくやれているか気が気でなく、そこにちょうどいいきっかけが転がり込んで来たということだ。

「まあ、噂を覆すくらいのインパクトはあったんじゃないですか?」
「うん、それは……そうだね、本当に……」
「やっぱり人手があると凝ったものが作れていいですねえ」
「yes, my lord……」

 口ではそう言いつつも、夏準には特に隠したいという気持ちも照れる気持ちもない。むしろ、アンとのことのように話が大げさに伝わったほうが色々と便利だとすら思う。洗いざらい面白い話を白状したアンには感謝したいくらいだ。ただ、アレンはそうもいかないだろう。それを尋ねるとアンは気まずそうに眉を下げた。

「怒ってるってよりへこませちゃった。恥ずかしいのかと思ったけど、違うみたいだね?」

 アレンの根には思春期の少年のように堅いところがあるので、もちろん照れもあるだろう。ただ、それ以前に未知に対する戸惑いがあるようだ。おそるおそるこちらに向く目や手が愉快だと思う。

「大事にしたいそうですよ? 『ステップ』を」

 あまりに初心な言葉を思い返して笑いがぶり返してしまった。肩を揺らして笑っていると、「あのさ」とアンが言葉を挟んだ。見れば柔随分らかい表情が返ってくる。

「それはステップじゃなくて、夏準を大事にしたいんだよ、多分」

 咄嗟の返事を不覚にも見失った。

 正直なところ、服装については普段との違いは分からなかった。だがジャケットには見覚えがあったなと思い出す。アンと一緒になっていい買い物だと褒めたものだった。

 「デート」からずっと、アレンは夏準の顔を眺めては目が合うと逸らしてを繰り返している。ピッタリ距離を詰めて白状させたところ、どうキスをするか思い悩んでいるらしい。何もかも今更な気がするが、夏準の顔も言葉も覚えていないあの日のやり直しはアレンにとって、意味深いものなのだろう。

「アレンって、たまにかわいいよねえ」
「……そうですね」

 ふは、とアンが噴き出した。それに同調するように高い声を上げて電子レンジが鳴く。陽気に揺れる空気にくすぐられながら、やれやれとドロワーからマッシャーを取り出した。

「惚気てる!」
「アンもかわいいですよ? ボクの手伝いをこんなにも買って出てくれるんですから」

 電子レンジから山盛りのジャガイモを取り出し、ボウルをアンの前に置いてマッシャーを握らせた。今朝のメインのエッグスラットに使うものなので有り余る元気を存分に使ってもらおう。残ったものは別の作り置きにも使える。アレンジしてデザートにしてもいい。

「ボクの愛情ですよ。アン?」
「ya, yass……」

 ふっ、ふっと耳障りな息遣い。嗚咽に引きつる呼吸を必死に押し殺す音。セピア色をした豪奢な部屋の中を呆れた気持ちで眺め、端の椅子で一人小さくなっている少年を見つける。はあ、聞こえよがしに息を吐く。

「꼬마야、また泣いているんですか」
「두려워」

 今回は以前とは違って、少年も最早武器を持たないようだった。情けない呟きが嗚咽に滲む。冷たい夏準の声から逃れるようにますます背中が丸くなった。どう考えても夢でしかないのだから、さっさと目覚めてしまいたい。が、そういうわけにもいかないらしい。いくら待っても動いてもただ不快な息遣いの稚拙な演奏を聞かされるだけだ。仕方なく夏準のほうから歩み寄ることにした。

「넌 무섭지 않아?」

 隣まであと一歩、というところで拒むように泣き言が増えた。怖くないのか、そう問われたら夏準は怖くないと即答するしかない。人に弱みを晒すことは、いつでも急所を狙われるリスクを負うのと同じだ。それが本心であれ虚勢であれ、夏準は頷いてはいけない。

「よく、分かりません」

 けれど、夢の中の登場人物とそんな渡り合いをするのも馬鹿馬鹿しい。率直な答えに涙まみれの醜い顔が上がった。何を言われたのか分からない、というような戸惑う表情に苦笑する。本当は知っている。自分だって、アレンのことを笑えないくらいには不器用な性根をしている。

「分からないのも当たり前です。初めてなんですから」

 愛されたいと願うこと、愛して裏切られたくないと恐れること、誰も彼も等しく軽蔑すること、簡単に離れていくその背を怨むこと、それにはもう慣れ切っている。何度も心の壁を削って傷を作った鋭利な刃。

 けれど新たに手にしたこの、恋というものがどんな鋭さを持っているのか夏準にもよく分からない。なんでもない瞬間のひとつひとつが、夏準をきっと麻痺させている。気づけば今までの何よりも深い傷を負うかもしれない。それでももう決して手離せなくなっている。

「정말 멍청해」
「ええ、そうですね」

 恋は愚か者の知恵であり、賢者の愚かさだという言葉があるが、夏準にとってはきっと後者なのだろう。だが最早どうしょうもない。夏準はもう一人の部屋には居ない。アレンの行きたいところへ一緒に行くつもりならしょうがない。

「あの二人のせいですから、少しくらいは泣くのを許します」

 手を伸ばして丸い頭に触れた。自分で自分を撫でる、やっぱり愚かな行為。けれど少年も自分もよく似た顔で微笑んでいた。

 ふっと、意識が浮き上がった。いつもの時間。しかし薄暗い部屋に響くのは加湿器の音ではなく、自分のものではない寝息だ。狭いベッド。こだわりのない枕やマットレス。小さくなって寝ているせいで硬くなっている体をすぐに伸ばせないのは、頭を抱えるように腕が囲んでいるからだ。

 正面にある呑気な寝顔に思わず笑って、目元をアレンのスウェットに擦りつけた。

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