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postlude / prelude



「アレン」

 すっかりこの部屋の一部になってしまっている声が未だにくすぐったくて、難しい顔を維持するのに苦労する。録ったサンプルを聴き比べるために肘をついて口元を隠していて良かった。引き上がりそうな口角を抑え込む。

「まだですか?」
「……まだ」

 二人だけの部屋になっただけで角が取れて子供みたいに甘えてくる声がベッドからちょっかいをかけてくる。きっと誘惑に負けて振り向けば、普段はどこでも見せないような拗ねた表情を浮かべているに違いない。ふん、つまらなそうな鼻息が聞こえる。

「もう今日はやめにしておきましょう。どうせ返事できるくらい集中が切れているんですから」
「いや、これから降りてくるはずだから」
「来ません」

 あまりにも理不尽な断言にとうとう負けてしまった。ガクリと肩が落ち、手が外れ、笑みを押さえ込むものが何も無くなる。観念して画面から目を離したが、予想とは違い夏準はアレンの方を見ていなかった。布団が白く盛り上がっている。作曲が佳境に入った時以外は基本的に規則正しい生活の中に居るから、そろそろ眠気が勝ち始めているのかもしれない。ちょっかいが寝息に変わってしまうのは結局寂しくて、アレンは仕方なく負けを認めた。椅子から立ち上がってベッドに腰をどすんと落とす。

「夏準だって早く聞きたいだろ? 俺たちの次の曲」
「効率の話をしてるんです」

 壁に向かってこちらに背を向けている珍しい体勢だ。なんだかそれだけのことすら面白くて、宥めるように布団の山をポンポン叩いてみる。言葉が続かないので、身を乗り出して枕に沈む横顔を覗き込んだ。

「……聞きたいだろ?」
「何を言わせたいんですか?」

 眠気にも不機嫌にも霞んでいない瞳が、愉快そうにアレンを迎えた。結局またアレンが誘い込まれてトラップにハマっただけらしい。苦笑してポン、ともう一度布団を軽く叩けば、もぞもぞも白い塊が動いてこちらに寝返りを打った。

「集中が切れた時には、短時間でも睡眠を取ったほうがむしろ効率が上がります」
「ステージ近かったらそんなこと絶対言わないくせに……」
「当たり前でしょう。誰が最初にアナタの曲を聞くと思っているんですか?」

 何も知らない誰かが聞けばきっと意味の分からない問い返しだろう。けれどアレンにとっては何よりも聞きたかったアンサーだ。勝ちを確信した笑みをわざわざ崩す気持ちすら起きてこない。「分かったよ」、白旗を揚げる代わりに布団をめくって体を横に倒す。素足に触れる夏準の温もりが心地良い。肩の位置を調整して腕を首に回す。そうすると頭を抱えるような格好になって眠りやすいので気に入っている。顎のあたりに夏準の額がくる、立っている時にはない距離も好きだ。夏準も呆れた表情を浮かべつつ、アレンの腕を通し縋るように縦に長い体を小さくしてくれている。細い髪に指を通すと何かの甘い匂いがするので、意識し過ぎないように気を付けながら目を閉じる。

「アレン」
「ん?」

 囁き声が首元をくすぐるので笑みの混じった声が出た。肩に頬が寄せられる感触がして頭の後ろのあたりをまたポンポン撫でる。

「不器用かと思えば、案外器用なところもあるんですね」

 声の温度が何度か下がっている気がして瞼を押し上げた。回している腕をなぞるように夏準の指がするすると服の上を走る。

「もううまくスイッチを切る方法を見つけたんですか?」
「スイッチ?」
「最初はこの距離だけで照れていたのに」

 せっかく腕の中に収まった頭があっさり起き上がって離れてしまった。皮肉げな笑みが鼻先で傾けられて気まずく目を逸らす。

「いや、照れてっていうか……狭いから。こう、どうしたらうまく収まるか分かんなかっただけだろ?」

 先に眠っている夏準と向き合って眠るのはなんだか悪いことをしている気分がして、背中を向けて眠ってみたりしてみたこともあった。あんまり見られていると眠れないからと夏準を壁際に追いやって背中から腕を回して眠ったこともある。散々笑われた振動すら思い出せる気がして表情に苦さが滲んできてしまう。

 「アレン」、夏準も同じことを思い出しているのか愉快そうに目を細め、アレンの名前を丁寧に声でなぞった。

「ボクはアレンの弟やペットになりたいわけじゃないですよ」
「……何言ってんだよ」

 思いもしない言葉に意表を突かれる。そんな想像、これまでしたこともない。が、言われてみるとなんだかそんな夏準を思い描けてしまえそうだ。最近思わぬ可愛らしさを日常の隙間からいくつも拾ってしまっているせいかもしれない。

「随分余裕ですね?」

 ふくく、喉の奥で笑っていると、夏準の視線に一筋の針が混じった。ヤバイ、本能で悟った時には目をやられている。毒の代わりに塗り込まれているのはやっぱり何か甘いものだ。夏準の上半身の重みが肩にゆっくり枝垂れかかってくる。

「いい加減、教えてください」
「な、何を」
「どんなことを考えていたんですか? ボクに」

 視界がぼやけないギリギリの近さの笑みに、また好き勝手心臓を弄ばれていた。逃げる視線を咎めるように指先が目尻をなぞってくすぐられる。

「何をしたかったんですか? それとも、されたかったんですか?」
「い……や、だから俺は何も」
「嘘ばっかり」

 くす、吐息が鼻にかかった。それを追うように唇が鼻筋に添えられてすぐに離れていく。胸元に置かれた手は当然アレンの心臓のBPMを把握しているに違いない。あっという間に穏やかな空気を搔き乱されて悔しい。

「アナタの夢の中で、ボクはどんなことをしていました? やってあげますよ。同じこと」

 誓って言うが、何か妙なことを考えたことはなかった。罪悪感というより、単純にイメージが湧かなかったし、生活は既に隣り合っているから想えるだけで割と満足できていた。何か欲望が伴うような気持ちではなかったのだ。

 しかし、夏準との間にあった壁がいつの間にか溶けて低くなり、ついには消えて、更に想いがうっかり通じてしまってからが問題だった。以前より明らかに近づいた距離、増えた接触。少しも嫌がる素振りはなく、楽しんですらいそうな態度。全く何も考えなかったし、妙な夢を一切見なかったかと問われると──

「わっ」

 体をがばりと起こしたので夏準をベッドに放り戻す格好になった。丸くなった目がこちらに戻ってくる前に布団をひっ掴んで夏準に被せ、腕を回し壁際に追いやって封印する。

「アレン」
「そこから出てくんな」

 責めるような声だが、アレンだって責め立てたい気持ちをぐっと抑えているのだから勘弁してほしい。ぎゅっと腕の力を強くすると、よく慣れた振動がすぐに伝わってきて顔をしかめる。布団越しの体温に頭を擦りつけて抗議する。

「しょうがないですね。今は、大事にされてあげます」

 くぐもった声が心底楽しげなのに腹が立つ。人の気を知っていて煽らないでほしい。

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