Zip your lips!
何かきっかけがあったわけじゃない。ふと、意識が薄暗い自分の部屋に戻ってきた。ヴァースはかなり良い出来に仕上がってきたのに、どうしても考えていたフックと噛み合わない。エフェクトを強めにかけてみたり、逆にメロディーに絞ってみたり、敢えてフロウを外すことを考えてみたり。ひたすら試行錯誤を繰り返していた手がなんとなく止まった。画面の右肩に表示されている時刻はもう早朝に近い。あと数時間もしない内に夏準が起き出す時間になる。
「もうこんな時間か……」
ゆっくり息を吐き、凝り固まった肩から中途半端に残る集中を押し流した。目元を擦りつつ一旦ヘッドホンを首元に落とす。すると、静かな部屋に穏やかな音が反復していることに気が付いた。すう、すう、波の音のように微かに寄せては返す吐息。振り返る前に口元が笑みに緩んでしまった。
スラリと縦に長い体が壁際に背をつけて小さくなっている。一応はアレンのスペースを考慮しているのかもしれない。椅子を背後に滑らせて立ち上がりベッドの端に腰かける。無防備な寝顔を楽しめるくらいにはすっかりこの状況に慣れてしまっている。
いつものようにからかって遊んでいるつもりなのか、それとも本人なりに甘えてくれているのか、夏準はこうして度々アレンのベッドを占領しに来る。しかしアレンは自室に居るとどうしても機材が目に入るわけで、そうなると当然音をいじりたくなってくるもので、こうして侵入されたことに気づかないこともよくある。夏準はアレンが気づいていようがいまいが別にどうでもいいのか、特に何も言ってこない。徹夜すれば重たい瞼にキスをしてジョギングに出ていくし、机で潰れていればブランケットがかけられている。
しかし、よくよく思い返してみると──今日は一応、何か言葉を交わした気がする。半分以上作業に意識を突っ込んだまま、夏準が居るなとその瞬間だけ認識し、「ここってdadadaladala、みたいな感じだとどうだ?」などと音ハメについて意見を聞いたような、いや「ような」じゃない、間違いなく聞いた。夏準の答えを参考にそこをアレンジしたので間違いない。その時の呆れた苦笑がパッと頭の中に閃いた。
果たして、このままでいいのだろうか。何かもうひとつ足りないのは楽曲だけじゃないかもしれない。もっと『恋人』らしい行事というものが存在するのでは。物凄く今更な気づきだが、一度意識してしまうとどうにも引っかかる──アレンは元来、アナログでマメな男だった。
タブレットを操作する手元に突然別の手のひらが差し込まれた。ファントメタルの羽が添う長い指。慌てて顔を上げる。
「夏準」
さああ、イヤホンを外した途端細い雨の音が飛び込んできた。こちらを呆れたように覗き込む夏準の肩の向こうには傘が開いている。モデルの仕事を終えた足でやって来たらしく、髪のセットの雰囲気がいつもと違う。
「いつから居たんですか」
「えーっと……30分くらい前かな。ギリギリ降りそうで降らない感じだったんだけど」
「だからわざわざ待ち合わせなんてせずに車を寄越すと言ったんですよ」
「いや、それだとなんか違うかなって……」
夏準の仕事終わりに合わせ、スタジオ最寄り駅前のコンビニで落ち合う事にしていた。別に店の中に居ても良かったのだが、特に見るものも無いので軒下で作業をすることにしたのだ──そこでワンテンポ遅れて気づいたが、もしかするとここは「全然待ってない」が正解だったのでは。
「風邪を引いても知りませんよ。うつさないでくださいね」
「大丈夫だって。ちょっと待っててくれ。傘買ってくる」
天気予報では曇り時々晴と見たはずなのに。どうにも決まらない。タブレットをリュックに放り込みつつ店に入ろうとしたが、それを遮るように傘が視界を覆った。振り返ると、傘を傾けた夏準が呆れを引きずった笑みでこちらを覗き込んでいる。
「必要ありますか? 傘ならもうあるのに」
一瞬であの日傾けられた傘の記憶と結びついてしまって、言葉どころか表情にすら迷ってしまう。にやつきをこらえる気持ち悪い表情になってしまっているんじゃないかと気が気じゃない。ふ、と白い息と共に夏準がいたずらっぽく笑って傘を引いたので慌てて横に並んで歩き出す。
「一体どんな用事ですか? アン抜きで、なんて。何か厄介ごとじゃありませんよね」
「そういうのじゃないって。ただ、遊びに行こうと思っただけだよ」
「……遊び」
アレンの言葉を繰り返す夏準は、まるで生まれて初めてその言葉を聞いたみたいな反応だ。新曲を出すステージも決まっている状況でそんなことを言い出したアレンに心底戸惑っているらしい。一旦思い立つとどうにも気になってしまい、詳しく話さずに待ち合わせの約束だけを取り付けてしまっていたことを素直に反省する。
「この天気だし……映画か、水族館とか」
調べた限りでは、天気が良ければもっと選択肢もあったはずだったのだが。天気ひとつでここまで行き先が絞られるとは思わなかった。同じく選択肢を失った人々でごった返していないといいが。
夏準はやっぱりアレンの言葉を生まれて初めて食べた珍味みたいな顔で咀嚼し、そして「なるほど」と呟きを雨粒のようにひとつ落とした。スマホを取り出す。
「この時間なら……映画じゃないですか? 水族館は閉まるのが早いようですし、少し距離もあります」
「そっか。じゃあ、それで」
何故かまた呆れた笑みが向けられてしまったが、それも一瞬だ。手近な映画館の情報を手際よく調べた夏準が映画のタイトルをいくつか挙げる。それは知ってる、それ面白そうだな、何を見るかでそこそこ盛り上がりつつ歩く。
「持っとくぞ、傘」
片手でスマホを操作する姿に一切の危なげはないが、夏準ばかりに調べさせているのが少し気になった。せめて傘を支えておこうと思って手を伸ばしたのに傘の柄を握る手が逃げていく。
「ボクはアナタを見つけないといけないんでしょう? これからも」
夏準の笑みにはやはり、アレンをからかう意地の悪さが滲んでいた。夏準もあの日のことを当然覚えているし、思い返している。それは二人にしか分からないリリックだ。やっぱりアレンはどんな顔と言葉を返せばいいのか分からなくなってしまう。今降る小雨に似た柔らかい何かが降り注いで胸を満たす感覚がする。
結局、アンにも土産話を持ち帰れそうなホラー映画を見ることになり、交わす言葉の流れが緩やかになった。傘を打つ雨の音、重なる靴音、コートやジャケットの擦れる音。その隙間を穏やかな感情が埋める。鼻先でメロディーが渦巻き、指が腿を軽く叩いてビートを刻む。
「……夏準。あのさ、ちょっと待ってくれ」
「この天気でですか」
最後まで全て言い終わらない内にもう、夏準はアレンが何をしようとしているか悟ってしまっているようだ。多分アンでも同じ反応だっただろうと思う。それが分かるくらいにはアレンも自分の習性を理解している。リュックを腹に回しかけていたアレンは気まずい笑みを返すしかない。夏準は笑みのまま小さく息を吐いた。
「どうせならどこか入りましょう。風邪を引くのはアレンだけで充分です」
言うなり辺りに視線を巡らせ始めるので慌てて正面に回る。腰を落ち着けてメモを始めたらどうなるか、自分でもびっくりするくらい簡単に想像できてしまっている。その「いつも通り」を疑ってここに居るのだから、それでは意味がない。
「本当にちょっとでいいんだよ」
「映画は逃げませんよ。レイトショーまであるんですから」
「夜も外で食べて帰ろうと思ってるし……」
「……へえ?」
髪が分けられたセットなので、額の下で片眉が少し上がったのがよく見えた。探るような視線をアレンに送り、コートのポケットにスマホを戻し、空になった手が伸びてくる。ひやりとした温度が指先に触れた。正面の笑みが深くなる。
「冷たいでしょう? アレンが待っているというので、仕事を終えたまま出てきたんですよ。まずは体を温めて移動しませんか?」
人差し指がつ、とアレンの中指の先から手の甲をゆっくり辿る。雨音に溶けそうな囁き声には甘えるような響きがある。そうすればアレンが頷くと完全に分かっている計算づくの手つきに声、ダメ押しの覗き込んでくる目。もう騙されはしない──と、毎回思っている。
結局、駅の改札口のすぐ正面にあるカフェに入ることになった。丸椅子に浅く腰かけているのはせめてもの決意表明だ。ちょっとメモしてコーヒーを飲み干したらさっさと移動する。浮かんだメロディーが考えていたリリックと相性がいいことに気づいたのでそれもメモしておくが、すぐに移動する。ひょっとしてこのメロディー、ヴァースとフックの不協和を緩和するのではと気が付いたのでそれもメモし──テーブルの端をボールペンで叩いてリズムを取る。足りなかったのはこれかもしれない。タブレットを取り出し、ポケットに放り込んでいるイヤホンを拾い上げて片耳に付ける。片耳は夏準に差し出した。メモ通りにキーボードを叩いてみて新たなトラックを作成し、他のトラックと重ねたり組み合わせたりしてみる。ひたすら微調整を繰り返し、とうとうピタッとハマる場所を探り当てた。
「できた!」
ガバリと顔を上げ、肘をついてこちらを緩い笑みで眺める夏準に身を乗り出す。タブレットを二人の中間まで滑らせ再生バーを動かした。
「ここの繋ぎかなり良くなった気がしないか!? 帰ったらもうちょっと練りたいけど……でも一旦! 見えた気がする!」
「ええ。昨日聞いた時から随分良くなりましたよ」
「だよな!!」
王子様の完璧な笑みと満面の笑みを交わし合って数秒。
雨の冷たい湿り気が暖房で温められた店内の中、人々の落ち着いたざわめきと微かなジャズの音が二人の間を過っていく。手元のコーヒーには最早わずかな湯気の名残も無い。タブレットの表示する時間は既に店に入って2時間近く経っていることを知らせていた。夏準の手元にもタブレットが置かれていて、細かい字がびっしり行儀よく並んでいる。本を読んでいたらしい。思わず顔を手で塞いで俯く。
「……ごめん」
「日を改めますか? いいですよ。帰って作業を続けても」
「い、いやいや、俺が行くって誘ったんだし」
正直、この勢いのまま曲をリファインするという選択には心が引きずられるが、人を誘い出しておいて何もせず帰るわけにはいかない。アレンの心中としてもこのままではいつまでもモヤがかかったままになりそうだ。
「そうだ」
とりあえずタブレットやノートをボスボスリュックに放り込んでいると、夏準がふと声を上げた。顔を上げれば愉快そうな笑みが返ってくる。
「映画の前に少し付き合ってもらえますか? この前、この近くで新しいショップを見つけて。気になっていたんです」
「お、おお……もちろん! 行こう!」
結局こうなってしまった罪悪感もあり、挽回の機会が与えられたような感じがして嬉しくなる。それに「相手の行きたいところに付き合う」というのは、それはそれで「らしい」気がする。もったいないとは思うもののコーヒーには手を付けず椅子から跳び下りる。
冬の寒さを霧状にしたような細い雨の中、スマホのマップを見ながら進む夏準に並んで歩く。ライブのことや学校のことを取り留めもなく話した。気を遣わなくても淀みなく流れていく時間が心地良い。時間にすれば十数分。夏準の行く店にしてはやたら入り組んだところにあるなと思っていたが。
「いや、ここ……」
「ちょっと様子を見るだけですから。嫌ならここで待っていてもいいですよ?」
「そ、それは……」
雑居ビルや小さなバーが立ち並ぶ灰色の街並みの中にぽっかり空いた暗い階段。その壁には往年の伝説のライブやレコードの宣伝ポスターが手招きするように貼り付けられている。控えめな小さな看板に描かれているのは店名らしき文字列とレコードのイラスト。行きつけの店で新しい店ができることを聞いて興奮したことを思い出す。ここだったのか。
アレンに傘を押し付けた夏準は振り返ることもなく階段を下りていく。アレンが大人しく店の前で待っている可能性を微塵も考えていないに違いない。それなりに葛藤しているつもりだったが、傘を畳んで露を払うまで数秒もかかっていないと思う。
下りた店内は思っていたより広く、狭い入口に比べて人影もあった。店の半分はレコード棚だが、半分はバーカウンターやちょっとした機材が置かれている。そのアングラな雰囲気に心が思いっきりくすぐられた。棚に飾られているのもメジャーどころよりも隠れた名盤という印象だ。これは初めて見ましたね、なんて夏準が話を振ってくるので嬉々として解説を始めてしまった。
「行きます? これから、映画」
階段を上り切って見上げた空はすっかり暗い。夏準の声にアレンをおちょくる色があることすら今はありがたい。これがアレンのことをよく知らない誰かだったら怒りと共に放り捨てられているところだろう。
出入口を塞がないよう、ひとまず軒下で横にスライドした。1階の店は潰れてしまっているのか閉まったシャッターに派手な落書きが踊っている。HIPHOPへの熱量で満ちた店内で吸った空気が冷たい空気に触れて白く濁る。それがアレンの後悔を象徴しているようだ。
「色々考えてたんだよ……一応。食事する場所とかも」
「行きたいんですか? アレンはそこに」
なんだか今日はずっと呆れた声ばかり聞いている気がする。自分でも情けない顔をしている自覚があったので、鼻で笑う夏準に何も言い返せない。
「言っておきますが……そういうことがしたいならボクのほうがよっぽどいい場所へエスコートできますよ」
「うっ……」
「大体、苦手なんでしょう? 気取ったり堅苦しいところ。明らかに無理をしている相手と一緒に居て楽しいんですか? ボクと気が合いそうですね?」
「ぐっ……」
まさに、ぐうの音も出ないパンチライン。まともなアンサーを返せない自分はラッパー失格かもしれない。傘を支えにその場にしゃがみ込んだアレンを見下ろす夏準の目は笑みの形をした氷の塊だ。
「急に何ですか? らしくない」
ため息と共に吐き捨てられた言葉にうなだれる。分かっている。慣れていないことをやろうとして空回っているのは。きっと夏準に任せたり、アンに相談したりすればもっとうまくいったのだろう、とはアレンもよく分かっている。けれど、まずは自分で考えてみたかった。
「俺はずっと……好きなのが当たり前だったから。お前のこと」
それはアレンにとって何か特別な「行為」ではなく、当然そこにあってアレンの周囲に漂う「生活」だ。時に足が宙に浮くほど嬉しくなったり、時に胸に鉛を沈められ苦しくなったりしても、それが外に出ていくことはなかった。その感情の波の狭間に新たな言葉や音を見つけて楽しんでさえいた。
「言う気も無かったからさ。どうこうなるとも夢でも思ってなくて」
このままでいいのか。このままがいいのか。むしろこのままじゃダメなのか。自分の心に素直に問いかけるなら──一人の感情ではなくなったらしいこの関係を、アレン自身はきっともう「生活」に埋めたくない。もう一歩、いや何歩でも夏準にもっと近づいてみたい。
ちらりと目を上げる。アレンの視線を受け止めた夏準は組んだ腕を指でトントンいくつか弾き、セットされた前髪をかき分け、最後にもうひとつ小さなため息を吐いた。
「ボクがアレンと一番長く居るんですよ」
それはアレンにとっても紛れもない事実だ。うん、相槌を返して続きを待つ。が、訪れたのは沈黙だ。何かを察さないといけないらしい。しかし、夏準が何を言いたいのか分からない。分からないのだから気は進まなくとも続きを頼まないとならない。恐る恐る「それが?」と口にすると、夏準はやはり眉根を寄せた。
「好きにならないわけがないでしょう?」
苛立ち混じりの声が最初は頭を素通りした。機材に入出力のコードがちゃんと繋がっていない時と似ている。再生されているはずの音がスピーカーから鳴らない。どこかで途切れて静寂だけが吐き出される。あれでもない、これでもない、とケーブルを挿し替えて、最後にとんでもない大音量が心臓を打ち抜いていった。
「……照れてますか? ひょっとして」
「なんでもない」
夏準の視線から逃れるように頭を抱えて小さくなる。これが憎たらしいことに夏準を喜ばせる反応だったらしく、笑った気配が雨音と一緒に降ってきて耳を掠めた。
「だから、『耐えて』なんかいないです」
また夏準が口を閉ざした。沈黙が根気強く待ち構えているので、アレンは結局誘き出されるように目をまた合わせるしかない。照れで緩みそうな顔をなんとか留めた妙な表情になっている自覚はある。
「いいんですよ? なんでもして。したいんでしょう?」
何も知らない人間ならきっと引きずり込まれるだろう意地の悪い笑みが傾けられる。わざとらしく甘くなる声にむっと顔をしかめる。
「だから考えもしてなかったって。それに! 色々あるだろ多分……ステップ、みたいなやつが」
ス、一音だけ降ってきてその後の言葉が続かない。怪訝に見上げていると、顔が逃げるように逸らされた。口元が抑えられ、肩がわずかに揺れている。笑われていると悟って眉根が寄る。
「ステップ……?」
「何がそんなにおかしいんだよ」
「アレン、言ってたじゃないですか。こういうなんでもないところが好きだって」
それはアレンの差し出したもので夏準の心が揺れるのが嬉しかったのであって、別に馬鹿にされたのが嬉しかったわけじゃない。思い返せば確かにそう取られても仕方ないような言い方だったかもしれないが。それを一から十から説明するのはさすがに照れくさいしダサい気がしてロクな反論もできない。
「いいですよ。付き合いましょう。まずはデートですか。それで? 次はどんなステップなんですか? その後は? 文通でもします?」
「お前は!」
このまま喋らせていると永遠にからかわれて終わりそうだ。立ち上がって言葉を遮る。夏準は愉快そうな笑みを残したまま、それでも一応口は閉ざしてくれたようだ。
「お前はないのか? 俺にどうしたいとか、どうしてほしいとか、あるだろ?」
「……음」
笑みが消え、考えるために口元に指が添えられたのでほっと安堵したのも束の間。その口元によく見慣れた良くない笑みが戻ってくる。肩を傾けてまでごく近くで覗き込まれて少し体を引く。
「なるほど? そちらのほうがお好みでした?」
「そっちってどっちだよ! だから俺がどうじゃなくて」
「ボクとしては、なんでもいいんです。本当に」
「だけどそれじゃ……」
「アレンにボクがほしいと懇願さえさせれば気分がいいですからね?」
完全にギアを上げてきた夏準に口角が引き攣る。それを指先でつつくように撫でられて思わずシャッターに背中を付けた。
「ボクがほしいですか? 何をされたいんですか? 言ってみてください」
「あー……! もう」
こっちは真剣に考えているのに。濁流のようにからかう言葉を押し出されて思考が全て頭の外に放り出された。自分ばかり翻弄されているようでつまらない。ひとつ呻くように悪態を吐いて夏準の胸元を掴んで引き寄せた。
睨みつけたまま唇をただ押し付ける。ぼやけた視界の中でまつ毛が動いて目元をくすぐる。楽しむように目を閉じた夏準が気に入らなくて、一度離れた唇をもう一度押し付けて唇で唇を挟みこむようにして離れた。
「ちょっと、黙っててくれ」
「……はいはい」
ちっとも動揺していない夏準がやっぱり恨めしいと思うが、それよりも時間が経つほど自分の衝動的な行動が恥ずかしくなってくる。まだろくな「やり直し」がひとつもできていないという事実に気づいてからは更に後悔が新たなトラックとして追加された。思わず頭を抱える。
「ちなみに、ですけど……」
悶々とした感情を編曲して脳内で垂れ流しているアレンを横目に夏準が飄々と口を開いたので横目だけを寄越す。返される心底楽しそうな目がまた嫌な予感を煽った。
「アンと……あとあれは悪漢奴等の方々ですかね」
「は? いきなり何……」
「尾けてたみたいですよ? ボクたちのこと。さっきの店で隠れることを忘れてましたけど」
「え!? は!? あー!!?」
夏準の視線がアレンの後方へ飛んだので勢いよく振り返り──慌てて階段に隠れる見慣れた髪色や焦った表情をしっかり見てしまう。本当に何から何まで全く決まらない。口は災いの元なんて言葉もあるが、こんなダブルミーニングを誰が予想できるというのか。その場に再び崩れ落ちたアレンに夏準が心底愉快そうに喉を鳴らす音が追い打ちをかけた。手に持っていた傘がアレンの代わりにバッタリ道に横たわる。
「慣れないことはするものじゃないみたいですね? アレン」
「……そうだな」
「わざわざこんなことする必要ありません。ただ」
夏準が肩に手を置いた。見上げると、少し屈み込んでアレンを覗き込んでいる。野次馬に拾われないような囁き声が甘く落ちてきた──ただ、空いている隙間を詰めて眠るところから始めたらどうですか。