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やねうつら (炭義禰パラレル)



 ひや、とまだ冷たさの残る春風が頬に触れ、半分閉じていた目を開いた。陽射しを反射して白く光るノートに見覚えのない縦線が引かれている。うっかりうたた寝してしまったらしい。何せ、窓際にくっつけたローテーブルはすっかり陽だまりになっているし、背中には癖っ毛がピョンピョン跳ねた毛布を巻き付けているから、温かさにうつらうつらしてしまう。あふ、とあくびをひとつして首をほんの少し巡らせる。

 ふふ、と思わず笑ってしまうのは、「毛布」なんて考えてしまったけれど、そんな言葉が似合わないくらい白くて綺麗な鼻先が禰豆子の肩に乗っているからだった。前髪の先や分厚い睫毛に日が当たって、青っぽく透けている。絵の中から春に飛び出してきたみたいな人だ。それでもやっぱり毛布になってるくらいは言わせてもらいたい。中学校から出された入学前の課題を見ると言ってくれたのに、十分もせずに眠りに落ちて禰豆子の背中をぽかぽか温めているのだから。

「義勇さん」

 声をかけながら消しゴムを取り出して縦線を消す。反応が無いのでもう一度名を呼ぶともぞりと肩先に身じろぎが伝わった。

「寝てますよお」

 「うん」とも「むう」ともつかない唸り声が上がってまた笑ってしまう。義勇は本当に朝に弱い。そんな時間に屋根裏に潜り込んだ禰豆子に非があるとは分かっていたので、それ以上は言わないことにしたのだが、義勇がもぞもぞと身じろいで顔を上げた。起きようとしてくれているらしい。あふ、と禰豆子に続いてあくびを漏らす。

「ごめんなさい、義勇さん。眠いのに」
「いや……おれも、このじかんは、さすがに」

 ぼんやりした声でぼんやりした言葉が続いたが、言いたいことは察した。義勇は朝に弱いが、同時に真面目で勤勉な人でもある。本当は規則正しく早寝早起きしたいのだといつも言っては竈門家の人々を褒めてくれる。禰豆子も実は家族の中では一番の寝坊助で、長女なのにと歯がゆく思うこともあるから、義勇の気持ちが分かる気がするのだ。胴に回された左腕に触れて体を捻った。耳元に口を寄せる。

「あのね、義勇さん。内緒の話があるんです」

 重そうな義勇の瞼がゆっくりと上がり、春日で透き通って光る蒼い瞳がころりと転がった。瞼ががひとつ、ふたつ往来して、眠気をなんとか遠ざけようとしている。

「ないしょ」
「義勇さんと私だけの秘密だから、誰にも言っちゃだめですよ!」

 義勇をなんとか目覚めに繋ぎ止めようとした言葉はギリギリ届いているようだ。まだどこかぼんやりとして見えるけれど、目元から目尻まで涼しく半月を描く目がじっと禰豆子を見下ろしている。

「分かった」
「絶対、絶対ですよ!約束」

 禰豆子が立てた小指を義勇はたっぷり十数秒見つめ、のそりと腕を上げた。それから約束、と繰り返して小指を絡めて上下に振ってくれる。ついつい笑みになる顔をまた義勇の耳元に寄せた。

「あのね、義勇さん、私ね」

 こそこそと話す声がくすぐったいのか、蒼い睫毛が震えて目が閉じる。早く言い切らないと思うのだが、禰豆子も恥ずかしくてためらってしまう。えっと、と迷う言葉と一緒に息を吐いて義勇の肩が小さく揺れるのが申し訳ない。意を決して息を吸い込んだ。

「お兄ちゃんが好きなんです」

 瞼がまたひとつ、ふたつ、行ったり来たり。眠気はもうすっかり飛んでいて、何かを考えているようだ。

「……知ってるが」
「まだ途中です!」

 眉根が少し寄った呆れた表情に禰豆子もむんと頬を膨らませて返す。すると義勇はすぐに引き下がって眉根を開いた。すまないと謝られ、禰豆子もこちらこそと慌てて頭を下げた。一見難しいように見えてとても素直な人なのだ。時々弟みたいに感じてしまう時もあるし、兄以上に甘えてしまっている自分に気づくときもある。いつの間にかすっかりそうなっている。だからこうして誰にも言うつもりの無かったことを吐き出してしまう。触れた腕をぎゅっと握った。

「お兄ちゃん、中学生になって、声が変わって体も大きくなって、他にも色んなことが変わってきて、それで……」

 制服を着るようになったせいだろうか、声や背のように目に見える違いがあったせいだろうか、それまでほとんど変わらずに成長してきたのに、兄が急に先を走り始めたような気分がしている。たった一年、禰豆子は何も変わっていないのに。

「お兄ちゃんにもいつか彼女とかができたりするんですよね」

 自分のまだ知らない中学校という世界で一足早く大人になっていく炭治郎に、禰豆子は確実に一年置いて行かれることに気が付いてしまった。もちろん頭では分かっていたけれど、身に染みて感じるのは初めてだった。

「そうしたら、もう、きっと、今みたいにはいられない」

 離れ離れになりたくないのに。「もう二度と」。

 何故だかそんな考えがよぎる。それから途方もなく寂しくなってしまう。兄の手を探して、小さい頃のようにぎゅっと握っていたくなる。

「それで最近、ここに逃げてくるのか」

 知らず知らず下がっていた頭にぽんと大きな手のひらが乗って顔を上げた。ぎこちない指先が、それでも優しく頭のてっぺんあたりの髪を梳いてくれる。弟や妹に見せられない自分の幼さが恥ずかしくて、優しい兄を困らせたくなくて、ついつい避けがちになっていることに義勇は気づいていたらしい。気まずくなってジャージの胸元に額をくっつけると、後頭部をぽんぽんと軽く撫でられた。

「……別に、いいだろう。今のままでも。思うのは自由だ。何だって」

 顔をまたがばりと上げる。けれど義勇の表情はいつも通りだ。当たり前のことを言っている、みたいな声と顔の色だった。とつ、とつ、水滴を垂らすように嘘も偽りもない言葉が続いて川になっていく。

「それにあいつが、お前をないがしろにするような奴を選ぶとは思わない」

 不思議な気分だった。嬉しいとも安心とも違う、懐かしいような妙な気持ちになる。心臓をこわごわ撫でられているみたいだ。やっぱり嬉しいと思っているし安心させられている気もする。膝を立てて義勇を見下ろすように起き上がった。厚い両肩に手をかける。

「義勇さんも?」

 ここが漫画の世界だったら大きなハテナが義勇の頭から転げ出していたに違いない。うまく伝わらないことがもどかしくて一層身を乗り出す。

「ちゃんとお兄ちゃん、私も義勇さんもまとめて好きになってくれる人を選んでくれるかな」

 禰豆子の影で暗い色になった蒼の瞳が真ん丸になった。義勇は黙って禰豆子を見上げている。禰豆子も見えてきた希望と不安に揺れて思わず独り言をこぼしたようなものだったから、すぐに言葉が出てこない。

「……なんで俺が出てくる」
「だって、だって義勇さんが好きだから」

 義勇はまだ夜の海のような目を丸めている。何も返してくれないことがやっぱりもどかしい。そうしてハッとひらめいた。義勇は禰豆子の七つも上だ。炭治郎より遥かに早く先を行ってしまう人だった。

「義勇さん、どこかへ行っちゃうんですか?」

 咄嗟に義勇の首に抱き着いてその左肩に鼻先を付けた。全体重を難なく受け止めてはくれたものの、義勇はやはり何も言ってはくれない。

「卒業したら、ここを出て行っちゃうんですか?」

 おい、と困ったような声が上がった。おかしなことを責め立てている自覚はある。義勇は家族でもなければ親戚ですらない。それでも義勇がここを去り全く知らない人になってしまう想像が辛くて腕の力を緩めることができない。

「だめです」

 その時、最近やっと聞き慣れた低い声が温かい手と一緒に頭へ降ってきた。その大好きな感触に気を抜きそうになって慌てる。秘密の話をしていたはずなのにいつから聞かれていたんだろうか。顔を上げたが、床に膝を付けた炭治郎は義勇の右肩からその顔を覗き込んでいるようで首筋しか見えない。

「だめですよ、義勇さん」

 少し身を起こして二人の顔を覗き込めば、満面の笑みの炭治郎を義勇が驚いた顔のまま凝視している。猫が尻尾を踏まれた時みたいな顔だ。

「ずっとここに居てください。どこにも行かないでください」

 普段は兄として見せない、少しだけ拗ねたような声と笑み。そして炭治郎はちらりと目を上げて禰豆子にいたずらっぽい笑みを送った。ずっと昔、花子や茂、六太がまだ生まれていない頃にだけ見た禰豆子だけが知っている笑みだ。二人で秘密を共有する時の共犯者の顔。

「俺も、禰豆子と同じです。義勇さんが好きなので」

 ふ、と思わず笑ってしまって、ごまかすように義勇に抱き着くと、炭治郎も同じように背中から義勇をぎゅうぎゅう抱き締めているようだ。困ったような身じろぎを何度も繰り返していた義勇も、最後にはとうとう諦めてくれたらしい。考えておく、という憮然とした返事に兄妹できゃあと喝采を上げた。

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