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※ 201話とどこかとどこかの隙間のすこし不思議世界
途中下車
タタン、タタン、タタン、タタン
規則正しい音と揺れに目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだった。ぼうっと重い瞼を押し上げる。汽車に乗っているんだなと分かるのはその音と揺れに覚えがあるからだ。グングンと車輪の回る音。少し苦手だなと思う。悲しいことを思い出す。
「目が覚めたようだな」
ハッと顔を上げた。向かい合う椅子に男の人が座っていた。立派な体躯で、炎が燃え上がるような鮮やかな色の長い髪が厚い肩にかかっている。精悍な骨で作られた横顔は窓の外を眺めているようだ。姿勢がやたらといい。窓の外の光を受けて瞳の中でゆらゆら火が躍る。
「よく眠っていた」
「……すみません」
こんなに立派な人の前でうたた寝をしていた自分が妙に気恥しく目を伏せると、風が頬を撫でた。開いた窓から流れ込んできたもののようだ。誘われるように目を動かせば、たわわに実る稲穂がどこまでも続いている光景が飛び込んできた。金色の畝がどこまでも平らに続き、陽光を受けて輝いている。まるで果てが見えない。雲取山の周りにはいくつも山が連なっているので、これだけ広い田を見るのは初めてかもしれない。風に穂が揺れ波立って揺れる。
「わあ、美しいところですねえ」
「美しいものというのは、見る者の心に拠る」
己を恥じたことなどけろりと忘れて顔を上げた。正面の人は眉を下げ、目を細めて窓の外を眺めている。だがこちらが何も言わず戸惑っていることに気が付いてしまったのだろうか、ゆっくりと両の目がこちらを向いた。
「美しいと思える心が大事だという話だ」
「……は、はい」
いつまでも黙っているわけにもいかないので返事をしたが、分かるようで分からない言葉を呑み込めていないことを隠し切れなかった。思わずどもってしまう。失礼だっただろうかと心配になるが、正面の人は優しげに微笑むだけだ。
「君はまだ、幼いな」
「はい、そうみたいです。まだまだ未熟で。頑張ってはいるんですが」
苦笑して、はたと気づく。頑張っているって俺は何をこれまで頑張ってきたんだっけ。それもよく思い出せていないのにこんな生意気な口を利いてもいいのだろうか。まずはこれまでをよくよく振り返らないと──腕を組んだところで眼前に拳が突き出された。
「これを」
拳に握られているのは黒く細長い──鞘、刀だ。その際に炎を象った鍔が付く。呆然と上げた目の先、両目の中で炎が燃え盛っていた。
「君にはもう一仕事ある」
どうすればいいか分からないが、いつまでもその腕を上げさせておくわけにもいかない。両手を差し出して丁寧に刀を受け取る。ずしりとした鉄の重みが両腕に響いた。手元に引き寄せて細かい傷が無数に走る黒い鞘をじっと眺めていると、大きな手のひらが伸びてきた。胸に強く押し当てられる。服越しでも熱を感じる気がした。
「思い出すんだ。何のためにその心があるかを」
「……は、はい」
何を言われたのか全ては分からない。しかし何かとても大切なことを伝えられている。それだけは分かる気がして必死に頷いた。やはり正面の人は優しく目を細めて笑っている。
「君は幼い。未熟だ。しかしよく励む。俺はそれを知っている」
ポオ、と小さく汽笛が鳴ったのを合図に手が離れていく。それがなんだかひどく寂しくなって目で追い縋ったが、正面の人は気にした風もなくすっくと立ち上がった。精悍な横顔を今度は窓とは反対に向けて歩き出す。合わせるように、タタン…タタン…と線路を踏む音が遅くなっていく。
「あの!どこへ、俺も」
慌てて中腰になった両肩をぐっと押し込まれ、座席に戻ったところで優しく叩かれる。やっぱり笑顔だが、目の力が強すぎてどこを見ているか分からない感じがする。
「せっかくだ!もう少し旅を楽しむといい!」
「はあ、でも」
「この鉄道は線路が輪になっているらしい!降りたければまた戻った時に降りればいいだろう!」
「そう、ですか。なるほど」
正面の人が指で作って見せている輪の向こうにある目の色、鼻先を掠める匂いから察した。この人は付いて来てほしくないと思っているようだ。やっぱり寂しい気持ちになって項垂れると肩をもうひとつぽんと叩かれる。
「ずっと見てきた。これからも、見ている」
また会おう、炎の羽織を翻して去っていく背中にありがとうございますとその名を叫びたかったが、思えば名を聞いていないのだった。キイイと音を立てて止まった汽車からはいくらか人が降りていくようだ。窓から顔を出したがあの人の姿は見えない。駅名すら見つからない。蒸気が鼻先を掠めていくだけだ。せめて景色だけはよく覚えておかないとうっかり乗り過ごしてしまいそうだ。
汽笛が二度鳴らされて、汽車はまたゆっくりと線路を踏んでいく。蒸気が吹き上がる音がして車窓の向こうに流れて行った。一人になった座席でぼうっと外を眺める。タタン、タタン、線路が鳴る。何かを、考えなければならない。タタン、タタン、思い出せと言われた。何かを。大切な何かを。
ほっと吐いた息が蒸気のように白くなって驚く。窓から入る空気がいつの間にかひやりと頬や鼻先を刺してくる。先程まで稲穂の群れだった窓絵は、すっかり雪の水墨画に変わっていた。時折立つ黒い木々と遠い山々、その全てが白に巻かれている。灰色の雲からは絶えず雪が降って窓の前を斜めに通り過ぎていく。窓を閉じなければ、刀を膝に置き冷えた指を窓枠にかけようとした。その腕をがしりと唐突に掴まれる。驚いて振り返ると、その先には雪のように白い面があった。先程の人とは正反対の印象のある人だ。夜のような黒い髪に、人形のように精緻に作られた顔立ち。瞳は木陰に隠れた湖面のように静かで蒼い。
「居た」
川が穏やかにせせらぐ時、こういう匂いと音がするなと思う。ただ見上げる以外のことを忘れていると、腕を掴む人は「はー」と息を吐いた。見開いていた丸い目や肩から力が抜けていくのが見て取れる。
「……探した」
その静かで感情のこもらない声に何故だか胸が揺り動かされて戸惑う。心からの安堵に聞こえた。思わず何か言葉をかけようとしたが、それより目の前の人が顔を上げて車両の奥を振り返るほうが早かった。
「居たぞ!ここだ!」
「あっ、良かったあ!ありがとうございます!」
大声を聞きつけてパタパタと駆けてくるのは少女だ。長く艶やかな黒髪を背に流し、額だけ見せるように結いつけてある。こちらの声にはもっと素直に安堵が滲んでいて、笑みの浮かぶ瞳の端に涙が滲んでいた。大きくて透き通った美しい瞳だ。それにもやっぱり心が大きく揺らされて戸惑いは深くなる。これだけ美しい人と愛らしい少女に必死に探される自分が、なんだか大罪人に思えてきてしまった。痛いくらいに掴まれた腕の先を見上げる。
「俺は何かしてしまったでしょうか……?」
何かこの人たちを傷つけるとか、奪うとか、そういうことをして追われているのだろうか。狼狽えた言葉に、顔立ちが全く違う二人は不思議と似通った様子できょとんと眼を丸めた。しかし少女のほうがすぐに呆れたように息を吐いて、涙の滲んだ瞳のままくすくす笑い始めてしまう。そしてするりと男の人の脇をくぐって、正面にちょこんとしゃがみ込んだ。膝に丸い額が乗って、ふふふ、震えが脚に伝わる。不思議と驚かなかった。そうされるのが当たり前みたいに感じて自由な腕で頭を撫でてやる。震えは止まらずに伝わってくる。
「した」
腕を強い力で掴んだままの人も、ぽつりと呟いた。窓から入る風が髪を揺らしている。前髪が上がったり下りたりして額や眉を見せたり隠したりし、束ねられた黒髪の先が揺れる。言葉のわりに、責めるような声でも目でも匂いでもない。
「だが」
蒼い目が伏せられると、くっきりと目の周りを縁取る睫毛の影が降りてその色が深くなる。ポオ、と小さく汽笛の音ひとつ。
「お前だから許す」
言って、男の人はすぐ隣に腰を下ろした。目の距離が近くなる。膝に伝わる震えごと汽車は揺れる。タタン…タタン…遅くなる線路を踏む音。
「少なくとも俺は」
眼前いっぱいにあった暗い水面が離れていって、立ち上がった。腕が掴まれたままなので体が傾く。男の人が空いた手で少女の肩を優しく叩くと、膝に額を擦りつけてへの字口の顔で起き上がった。膝の上にあった刀が奪い取られていく。
「降りる」
「でも、まだ」
「いいの!」
少女が残った腕を抱き込んで引っ張るので引きずられるように立ち上がる。キイイ、甲高い音を立てて汽車が止まろうとしている。体が傾いた。おっと、一歩男の人の前に近寄ると不思議な匂いがした。何故だか、よく知る大好きな匂いだと思った。初めて嗅いだのに。
「炭治郎」
一瞬、何の言葉か分からなかった。だがすぐにそれが名前だと気が付く。名前を呼ばれたのか、俺は。この人に。この人に腕を引かれている。驚いて思わず振り返る。肩に頬を摺り寄せるように少女が、禰豆子が笑っていた。
「降りよう」
水が穏やかに流れるような声でそう言われて、炭治郎は断る言葉もない。腕をしっかり握られたまま、そうかなるほどと思う。駅名なんか意味はないのか。降りるところはきっと決まっていたんだな。俺の心が覚えている。