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九日思い、一重ねる



 十日を空けて、今日もまた炭を目一杯担いで山をひとつ越える。

 全てが終わって何をしようかと考えた時、結局炭治郎は炭焼きに戻ることにした。代々やってきた家業であったし、炭を焼いているとなんだか家族と繋がっていられるような気持ちもする。もしかしたらこの先考えが変わることもあるかもしれないが、ひとまずはと思って禰豆子と共に雲取山に戻った。七日炭を焼き、窯の番を任せて山の麓に近いいくつかの町で炭を売り歩く。十三の時から五年で、より遠く険しいところにも訪ねていけるようになったのは鍛錬の思わぬ効用だなと思う。

 目的地には昼過ぎに出ても夕方には辿り着ける。以前は一日はかけた道のりだった。

 炭治郎と同じように何をしようかと考えてまず、義勇は狭霧山の麓の町に居を移すことにしたようだった。街中にあった以前の屋敷は人に譲ってしまったと聞いた。たった四日間の記憶が強く思い返されて、ほんの少し寂しく思ったのを覚えている。以前よりは小さいが、それでも立派な門構えだ。以前の屋敷は重厚な門扉に閉ざされていたが、今は格子の木戸があるだけなので少し入りやすい印象になっている。

「こんにちは、義勇さーん!俺です!竈門炭治郎です!」

 どちらにしてもお構いなしに入ってしまうのだが。木戸を押し開けて声をかけると、すぐに義勇の門下生の少年たちが数人、籠を手に駆け寄ってきた。満面の笑みで矢継ぎ早に挨拶され思わず炭治郎も笑みになる。

「いつもありがとなあ。どうだ、頑張ってるか?」

 はい、と大きな良い返事。あれができるようになりました、これが上達しましたと懸命に言い募る姿が微笑ましい。炭治郎が担いできた大籠を地に下ろすと、競うように手を伸ばし、半分だけ炭を取り出してそれぞれの籠に乗せた。残りの炭が鱗滝のためのものだと知っているからだ。

 鱗滝は変わらずに狭霧山に住んでいるので、義勇に炭を分けた後、炭治郎は鱗滝の元へも必ず通っている。時折義勇と連れ立って訪ねる。義勇としてはいずれは鱗滝もこの屋敷にという気持ちがあるようだが、鱗滝には全くそのつもりが無さそうで、二人の間には言葉なき攻防があるようだった。二人には悪いが、それを匂いで感じ取っている炭治郎は微笑ましく思ってしまう。

「先生は道場か?」

 聞けば、少年たちは目を見合わせて笑みを取り交わしている。早く早くと急かされながら背を押され、何がなんだか分からない。ひとまずされるがまま前に進んだ。一番大柄な少年が炭治郎の代わりに炭籠を背負ってくれた。

「なんだ、どうしたんだ」

 笑って問うが皆くすくす笑って炭治郎の背を強く押すだけだ。何か企んでいるらしい。

 義勇は居を移してすぐ、その門戸を開いて子供たちに剣を教えるようになった。最初は孤児を一人二人住まわせながら鍛えていたが、最近は近所の子供たちや青年たちが通って教えを乞うようになってきたようだ。住み込みの門下生も随分増えた。義勇は当初こんなに広い場所でなくても良かったのに、と家探しを世話した藤の家の者に感謝の匂いのするぼやきをよく零していた。しかし三年経ってみて炭治郎が思うに、もっと広い屋敷でも良かったくらいだ。

 背を押されて歩いた先は道場の裏手にある庭だった。門下生たちがしいっと口元に指を当てたので気配を消して覗き込むと、義勇が巻き藁を前に刀を構えている。吸う空気吐く息までもが清い水に浸されたかのような気迫。義勇が刀を構えただけで感じるそれが久々に手指を痺れさせる。

 タン、と軽い踏み込みのどこから生まれるか分からない鮮やかな一閃。巻き藁の上半分がスパンと飛んだ。そこから体を沈め、舞うように翻って捩じる力で他の二つの巻き藁を断つ。そのままひとつ高く跳んで袈裟懸けに一撃。まるで水の流れのようだ。体のどこにも余計な力が入っていない。義勇の技は未だに日に日に研ぎ澄まされていくようだ。

 刀を鞘にチンと納め、義勇は静かな目を上げた。夕焼けの中、青空を深く沈めた湖のような瞳が迷わずに道場の陰に立つ炭治郎へと向く。

 研ぎ澄まされていくのは見目も同じだった。出会った頃にはあれだけ大人に見えていたこの人も、今になってみればまだ幼さを残していたのだと分かる。今の義勇は滝に削られて凛と立つ渓谷を見るかのようだ。咄嗟に言葉を失って見惚れ、門下生の一人につんと指で突かれてハッとする。

「すみません、覗き見みたいになって」
「別に隠してない。元々お前に見せるつもりだった」

 義勇から気分を害した匂いがしていないことは分かるが、一瞬言葉の意味が分からず目を丸めてしまう。すると渓流のような美しさが、人間味で淡く色づき小さな笑みになった。

「好きだろう」

 ええ、それはもう好きですけど。

「うーん……」

 くすくすと忍び笑いが腰のあたりから生まれていて何故だか気まずい。両腕を組んで思わず唸るが義勇は気にした様子もないようだった。愉快そうに笑う門下生たちが炭治郎から離れて義勇に駆け寄って行く。義勇は一番背の小さな少年に刀を預け、その頭をポンポンと軽く撫ぜた。

「俺は湯を使う。お前たちは片づけと夕餉を頼む」

 はーい、元気で明るい返事をした少年たちが義勇から離れ、にやにやと炭治郎を見上げながら走り去っていく。察されているのだろうか色々と。最近の子供はませているとよく聞くけれど。

 炭治郎は火の扱いが上手いからと、風呂炊きを任されるようになったのはここ一年くらいのことだろうか。屋敷に風呂があるだけでも豪勢だが、義勇の屋敷の風呂場は特別変わっているのではないかと思う。他の風呂場を見たことなどないのでただの推測だが。風呂桶は桶というよりも大きな升のようで、小屋の外のかまどと繋がっている。温度は低いが温泉が近くで湧いているのでそれを引き、満たした水をかまどで温める仕組みだ。銭湯と近いのかもしれないが、詳しくはやはり分からない。炭治郎の家にはそもそも風呂などない。せいぜい井戸水を浴びるか、沸かして体を拭くくらいだ。

 かまどの前に置かれた二つの腰かけにそれぞれ腰を下ろした。これもいつの間にか恒例になっている。湯が温まるまで、こうしてなんとなく隣り合う。初冬の冷たい風がかまどにかかった庇の陰の下を通る。義勇は汗をかいているはずだ。炭治郎は羽織を脱いで義勇の肩にかけた。

「温まるまでどうぞ」
「汗がつくぞ」
「大丈夫です。義勇さんの匂いなので」

 言って「しまった」と思ったが、義勇の匂いに揺れはひとつもない。ずれ落ちないように羽織を引っ張っているだけだ。それに安堵したような、落胆したような妙な気分になってしまうのはなんなのか。ひとつ首を振って積まれた薪を手に取った。かまどの口にいくつか放って火をつける。ぱちり、と火が爆ぜる音がする。

「すっかり板につきましたねえ、先生」
「よせ」
「だって本当のことですから」

 ちらりと見上げた義勇の横顔は心外そうだ。少し照れるような匂いがして隠れて笑う。

 火かき棒で空気を入れ、薪の位置を整えてかまどの口を立派な鉄扉で閉ざす。こうしてしばらく強火を保つのだ。それにしても炭焼きでもないのに立派なかまどだと毎度思う。空気を通さずに薪がよく燃える。

「でも最初は少し意外でした。義勇さん、柱稽古を始めた時もあまり気が進んでいないみたいだったから」

 ぱち、ぱち爆ぜる音の隙間に紛れて呟いた。今までなんとなく面と向かって聞けないでいたことだった。この人の心の奥に不用意に触れ、嫌悪されることをきっと恐れていたのだと思う。だが今、それがただの悪い想像でしかないことを悟るくらいには炭治郎も成長した。

「気付いてたのか」
「はい」

 やはり義勇の答えには小さな驚きしかなかった。そして気まずげに背を丸め膝に肘をつき、かまどの口をじっと見つめつつぼそりと口を開く。

「あいつらには悪いが、俺が何かを伝えきれるかは今でも分からないままだ」

 迷うような声と優しい匂い。いつも凛として自分を厳しく律している人の素直な吐露は、炭治郎の心をいつも揺さぶる。悲しいこと、辛いことを炭治郎に打ち明けることで少し気分が変わってくれれば勿論嬉しいと思う。

「だが、居場所を作りたかった。俺もそうしてもらったように」

 しかし今日の吐露は違う。前を向いているからこその迷いで、真心で。背を丸めたまま炭治郎を見上げる義勇の表情は柔らかい。義勇を熱心に凝視する炭治郎が面白いらしい。そういう匂いがする。

 不意に腕が伸ばされた。長い指が鼻先に触れる。

「炭」

 炭治郎の鼻を指で拭った義勇の唇が、ふ、と別れて息が漏れた。それが克明に脳裏に刻まれる。知らず体が勝手に呼吸を循環させている。なんだ。何に備えているんだ俺は。

「……義勇さん、湯加減を見てくれますか?」
「分かった」

 義勇は炭治郎の中で渦巻く様々な感情など見えもしないし気にもしない。淡々と言って立ち上がり、炭治郎の肩に羽織を戻して小屋に入っていく。やっと体から力が抜けた。かまどの口を開けると、もうと熱気が薫って炎が顔を出す。

「どうですかー?」
「やはりお前が炊くと温まるのが早いな」
「そりゃあこれだけ立派なかまどがあれば早いですよ!もう少し炊きますね!」
「頼む」

 かまどの上には格子窓がついているので、互いの声はよく聞こえる。ちゃぷりと水が跳ねる音がしたので問えば、もう湯は随分温まっていたようだ。

 しゅるり、と衣擦れの音を聞く。いつもこれだけには慣れない。そわそわと落ち着かない気持ちを抱えつつ、少し火の勢いを弱めることにした。傍らの桶の柄杓を手に取って少し水をかけてやる。じゅう、と音が上がった。炭治郎にも水が必要だろうか。

 タンタンとすのこを踏む音。カタンと桶が上がる音。ざぶりとそれが湯をくぐり、体を洗う音。羽織からは義勇の香がする。

「炭治郎、もういい」
「っあ、はい」

 ハッとした。またぼうっとしていたようだ。慌てた返事を後悔しつつ立ち上がった。薪はもうほぼ燃えているから、かまどの口を開けていればその内燃え尽きるだろう。

「じゃあ……」
「せっかくだ。お前も浸かっていけ」
「ありがとうございます。でも、濡れたまま山に入るとさすがに風邪を……」
「もう行くのか」

 さすがに風呂場からの匂いを辿ることはできないので声から推測するしかない。しかしいつもと変わらぬ声に思わせておいて、ほんの少しだけ寂しそうに聞こえてくるのは何なのだろうか。わざとなのか。炭治郎の願望でしかないのか。きっとそうだろう。分かっている。

「行くのか」
「うーん……」

 炭治郎は思わず腕を組んでしまった。実のところこのやりとりは毎度行われている。俺は遠慮してるんじゃなくて、これを聞きたいだけなんじゃないか、だとか考えて始めてしまうと唸るしかなくなる。

「では、せっかくなのでお世話になります。お湯も後で使わせてもらいますね」
「今入ればいい。お前が炊いた風呂だ」

 いつものように門下生たちと一緒に賑やかに湯を使わせてもらうつもりだったのだが。この言葉は初めて言われたし、あまりにも扱いが難しいのではないか。義勇さん、分かりません。どういう気持ちの言葉ですかそれ。ぱちぱち足元のかまどで火が爆ぜる。火力よ、早く弱くなってくれと何故か思う。

「うーーん……」
「炭治郎」

 名をひとつ呼ばれた時点で勝敗は決していた。

「義勇さんは、」

 なんとか服を脱ぎ、なんとか洗い場に足を踏み入れ、なんとか体を流し、なんとか湯舟に浸かって、平常心を唱えつつも心中の炭治郎は既に息も絶え絶えだ。炭治郎が入ると湯舟から湯が溢れ、格子窓から入る夕陽の中でもうもうと蒸気が上がる。湯舟は広いが、男二人が入ると拳ふたつほどの距離しかない。

「最近なんかこう……俺に遠慮がないですよね」

 先に湯舟に浸かっていた義勇は炭治郎が隣に来るまでじっとその挙動を見守っていたが、今は満足そうに湯舟の縁に腕を預け、更にそこに頭を預けている。こちらを見ているのだと分かるが、炭治郎は努めて姿勢を正して正面だけを見ている。

「してほしいのか」
「いえ、そうは全く思いませんけど」

 思わず即答してしまった。湯の熱に心地よさそうに身を預ける義勇を、こんなにもごく近くで見られること自体には何の問題もないのだ。そもそも義勇は炭治郎にとって一生変わらぬ恩人なのだから、遠慮はされるよりされないほうが有難い。何か炭治郎にできることがあれば何でも言ってほしいし、それを何としても叶えるつもりだ。しかし、この状況はどうにも。

「お前が大人になったからだ」

 義勇がいつもより少し緩んだ声で言う。思わず瞳を義勇に向けてしまった。剥き出しの白い肩の向こうに、優しい色をした瞳があった。前に向き直る。

「逞しくなった。強くなった。頼りがいがある」
「少し面白がってるでしょう、義勇さん」
「いや、少しつまらない」

 ずるい、と思いつつまた目を戻すと、義勇は匂いと同じような子供っぽい笑みを浮かべている。むふ、と零れる吐息は少しもつまらなそうには見えない匂いをさせている。

「昔はすぐなんでも感動したのに」

 思わず口を引き結んで渋面になり、腕を組んでしまった。頭が重くなったような胸が痛いような妙な衝動に体を義勇とは反対方向に傾ける。

「うーーーん……」

 そしてそのまま反対側の縁に行儀悪く肘をつき、重たい頭を支えて唸った。

「義勇さんは最近、なんだろうなあ……よく笑いますね」

 よく笑うし、冗談のようなものを言う時すらある。しかし宇髄などと会うといつもの調子でちっとも顔色を変えないので、お前は変わんねえなと呆れられていたりする。表情が緩むのはこの屋敷に居る時、鱗滝と居る時、門下生たちと居る時、そして──

「好きだろう?」

 背にかかった声にドキリと心臓が跳ねた。思わず身を起こすと、義勇は相変わらず湯舟の縁に身を預けたまま炭治郎を見ている。

「俺はお前の特別だから」

 まったく、この人は。

 炭治郎はすっかり呆れて、体を戻して義勇の顔を覗き込んだ。近づく距離に、この期に及んでこの子供みたいな大人はきょとんと目を丸めている。確かに十五の時に「すぐなんでも感動し」て炭治郎は義勇に言った。義勇の決めた一歩が眩しく見えて、それにほんの少しでも寄り添っていたくて、その理由は「貴方が特別だから」で。

 でももう俺も十八だ。貴方が言うように大人ですよ義勇さん。たまにそう言ってしまいたくなる。でもきっと言ったら天地がひっくり返ったように驚いて、今のようにぼうっと炭治郎を見上げたりしないだろう。驚かせるのがかわいそうでもあり、この時間を惜しむ思いが強くもあり。結局、俺は「まだ」十八なんだろうなあ。炭治郎はひとつ笑って、そうですよとだけ拗ねた声で返した。

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