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明ける/染める



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12055149

 いつも、夜の中に居る。

 夜の中に居る時、目に映る全ては濃いか淡いかだけの違いだ。空は一面黒々と塗り潰され、月明りは皓々と白い。月明りが照らせば人肌は淡く、吹き散らす血は濃い。ただ濃淡の差だけ分かっていればよく、色があったことをもうよく思い出せない。陽が昇ればすべてのものは淡くなり、輪郭がぼんやりと暈ける。ほんの少し世界が薄くなっただけで、結局そこは夜のままだ。

 昔は陽の光の下で、もっと多くの色を見ていた気がする。手を繋いで散歩をした先に見つけ、姉に差し出した菫の色。嬉しげに色づく姉の頬の色。新しく仕立ててもらった着物の誇らしい色。剣を振るう度に翻る錆兎の髪の色。雨の中の鍛錬でぐしゃぐしゃに汚れた服や肌の色。その雨が上がった空にかかった虹と笑顔の色。今はそのどれもが失われてただの濃淡に置き換わっている。大人になったせいなのかもしれない。その他に特に理由も思い当たらない。考えたくもない。そう思っていた。

「夜が明けましたねえ」

しみじみと安堵の声を漏らして炭治郎は目を細めた。いつ何が起きても対処できるよう夜通しで備えていたが、今日のところは空振りで済んだようだ。

「最近はもう、朝はすっかり冷えますね」

 炭治郎が障子に指をかけて外の様子を伺うように少し引いた。生まれたばかりの弱い曙光がその隙間分だけ炭治郎を柔らかく照らす。毛先に赤みの滲んだ癖のある黒髪。躍る火炎のような痣。明々とした日輪を象った耳飾り。緑と黒の市松模様の羽織。

「義勇さん?」

 障子の外を覗き込んでいたその瞳が優しい光を湛えたままこちらを向いた。磨く前の鉱石のような赫い輝きを宿す黒い瞳。

「眩しい」
「あっ、すみません」

 思わず漏れた呟きを、炭治郎は苦情だと受け止めたようだった。障子がパタリと閉ざされて炭治郎に付いた色が褪せないまま少し薄くなる。スンと炭治郎の鼻が鳴って、義勇のほうを不思議そうに振り向いた。きっと不快な匂いを嗅ぎ分けなかったのだろう。炭治郎の鼻が利くことに口下手の義勇はいつも助けられる。言葉が正しく伝わって、通う。

「義勇さん」

 炭治郎の眉が下がって、瞳が少し細められる。それから音もなく立ち上がって、ゆっくりと義勇に近づき、その正面に腰を下ろして姿勢を正している。少し色づいた頬の色は薄紅だ。遠い姉の笑みを飾る色もこんな色だったのだろうか──そうだった。薄紅に色づいた頬、額にかかる黒髪に明るく輝く瞳。差し出した菫の紫。着ていた着物の色までもが鮮やかに記憶の中に蘇った。

「炭治郎」
「はい」

 思わず名を呼ぶと、すぐに返事がある。だがそれから先何から言えばいいか分からず黙り込んでしまう。ただ小さく両手を前に出して、手のひらを見せる。微笑みを深くした炭治郎がそっとそこに両手を重ねた。ぎゅっと握り込まれた手はわずかに湿っていてあたたかい。

「義勇さん、呼ばせてください。言葉が見つからないから」

 義勇もそうなら、義勇もまたそうしていいと許されているように思えた。炭治郎、早速名を呼ぶと、はい義勇さんと返事が返る。触れた炭治郎の手のひらには傷やタコの感触があってざらついている。手の甲にも無数の傷跡。日に焼けた肌の色。夜の中に生きる義勇の手も炭治郎より多少薄くとも肌に色があった。遠い昔に剣を握って朝から晩まで打ち合った手や額。茶色い泥や草花の汁でみっともなく汚れていた。だがどんな泥中に在っても錆兎の宍色の髪は鮮やかに広がって義勇を打ち倒してしまう。水面に薄墨を落としたように透き通った瞳と優しい笑み。

「義勇さん」

 返事の言葉さえ思いつかない情けない義勇を、炭治郎は気にしたふうもなく笑う。両手が離されて温もりが名残惜しい。炭治郎は膝を立て少し目線を高くして、義勇の肩にそっと触れた。炭治郎の触れた左肩の指先から臙脂が滲み、右肩の指先から緑と黄色で鮮やかに染まっていくような錯覚がする。思わず目を閉ざすと、すうと口で息を吸う気配があった。だが炭治郎は何も言わない。暗い視界が少し揺れて、硬い隊服の布や釦の感触が頬に触れた。頭を抱き込まれているようなので、そのまま炭治郎の首元に頭を預けた。炭治郎のあたたかい両手が髪の中に触れる。炭治郎の鼻先が頭頂に触れて、すう、と今度は鼻で息をする音がする。

「炭治郎」
「……はい」

 しばらくそうしていたが、名を呼ぶと炭治郎がほんの少し身を起こして離れた。間近で見上げる赫い瞳には薄く涙の膜が張って輝いている。笑みなのに今にも泣きだしそうな妙な表情だった。何故だか胸が締め付けられる。

 後ろ髪に触れていた炭治郎の手が戻り、こわごわと頬に触れた。するり、するりと撫でられる。その度に炭治郎の肌の色を重ねられているようだ。触れられた頬は、見つめられる瞳は、やはり色づいているだろうか。義勇が炭治郎に思うように、鮮やかだろうか。長く夜の中にいて、そんなことを初めて思った。初めて夜が明けてほしいと思った。この男の中で一瞬でも長く自分が鮮やかであるように。

「触れてくれ」

 思わず唇が開く。炭治郎の手がぴくりと止まって、丸い瞳が見開かれた。その玉のような瞳の輝きに口元が思わず緩むのを感じる。

「余すところなく、全て」

 じっと見上げていると、見る間に炭治郎の頬に血が上って紅を塗り付けたように真っ赤になった。耳まで赤い。頬に触れた手も心なしか温もりを増したように思える。その指から逃れて再び首元に頭を預けると、どくどくと血の巡る音がした。心地よくてまた目を閉じる。目蓋の裏に、今まで生きた様々な記憶が閃いては消えていく。あの日、錆兎と見た夕焼けの虹。うわあと重なる感嘆の声の色。

 炭治郎の両手がまた肩に触れた。そして撫でるように動いて羽織が滑っていく。目を薄く開けると、怒っているのかと思うくらい真面目な顔をした炭治郎の瞳が間近に輝いていた。赫い。これまでに夜の中にどす黒く濃く消えていったどんな赤より美しい色だ。ぱさりと羽織が落ちて軽い音がする。

「どうして、俺に、そんなに」

 眉根がぎゅっと寄せられた。震えた声は泣きそうでもあったし、何かを堪えるようでもあった。苦しそうに息を吐いた炭治郎は両手を伸ばして勢いよく義勇の首元を抱き込み、そして体重を胸元にぎゅっとかけてきた。何故だか逆らう気が微塵も起きず、義勇はばたりと羽織の上に倒れる。赤みがかった黒い髪、火炎の痣。熱にほのかに染まる頬と耳、涙に濡れた赫く燃える瞳。

「お前が鮮やかだから」

 ついに感極まって零れてきてしまった涙に触れた。無色透明なのに綺麗な色だと思う。不思議だ。この男に触れられたらきっと、触れた先から色が付き夜もたちまち明けるなと思う。この男のために、そんな突飛なことを考える自分がおかしかった。

(2019-11-30)

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