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一体全体 (パラレル)



 「男に生まれたなら」、これは父の口癖だった。多くを語るな。どんな苦しみにも黙って耐えろ。速く、毅く、円熟たれ。退くな、立ち止まるな、常に前進しろ。錆兎にとって父は尊敬できる人だった。いつも父の背を見ていたから、その教えはそのまま錆兎の背骨になった。生きていく上で窮地に立たされた時、迷う時、いつも錆兎を頼もしく支える。

 しかし、父は錆兎がまだ幼い頃に己の役目を全うして死んでしまった。父は「守手」だった。守手は国を災厄から守り、祓い清める神楽を舞うことのできる「舞手」を命を賭して守る役目を担う。「守手」はそのために、必ず二度死ななければならないと言われている。一度目は仮初の死だ。家名を捨てて「舞手」を守護することに徹する。これを守手の間では「幽世くぐり」と呼ぶ。そして二度目は一度くぐった幽世へと完全に入る。本当の死だ。

 錆兎は正しいと思う道を、父が示してくれた道をひたすら常に前進してきた。だからそれにどんな結果が伴っても後悔しない。

「なく、な……ぎゆ、う、」

 同じ育手の元で守手を目指す親友を庇い、災厄の象徴たる鬼に深手を負わされた時もそれは変わらなかった。これが幽世をくぐって戻る往来になるか、二度と戻らぬ旅路になるかどうかは分からない。しかし何者にも代えがたい友を一人の男として守った自分を誇らしく思う。きっと父も未熟を叱りはしても許すだろう。

「男、なら……そんなふうに、泣くんじゃない……」

 青みがかった大きな瞳から涙をぼろぼろ零す友にかけてやった言葉は、かつて父から言われた言葉でもあった。だが錆兎も義勇のように泣き止むことができなかったから、父もこんな気持ちになったのかと思う。苦笑して、最後の力を振り絞って癖毛を撫ぜてやった。

 友との別れは寂しい。だが、己が切り拓いた運命なら、これも受け入れるべき男の道だ。

 現世と幽世を散々行き来して、お前はまだまだだと父に蹴り出されたのか錆兎は現世に戻ってきた。そして幽世をくぐった者として、幼い舞手を守ることになった。

 継ぐ者が絶えたとされていたはずの日の舞手が市井から見つかったと少年はたちまち祭り上げられていた。豪華な衣食住がこれでもかと注がれたが、少年が見出されたきっかけ──鬼に家族を奪われた事実に誰も目を注がなかった。

「男なら、そんなふうに泣くんじゃない」

 本来なら守手は舞手に口を利くことすら許されない。しかし錆兎は面を外し、木刀を突きつけ、何度も稀少な舞手を転がして泥だらけにした。真っ青な顔をした世話係たちの視線が煩わしい。半身をもがれるような苦しみに必要なものは砂糖のような甘さなどではない。錆兎はそれを痛いくらい知っている。

「黙って耐えろ。どんなに苦しくとも」

 口で叱責していても、内心では感心していた。日の舞手──炭治郎はぼたぼた涙を零しながら、それでも決して木刀を手放さない。何度打ち伏せてもよろよろと立ち上がる。瞳には弱い自分に対する怒りが赫く燃えていた。こいつは強くなると思った。

「守手として、俺がついていよう」

 錆兎の言葉に炭治郎は目を丸めた。この少年に必要なものは形ばかり優しい憐れみではない。錆兎もそうだったように、どんなに情けなくとも見捨てずにその背を押し返してやる誰かだ。

「お前が一人前の男になるまで」

 炭治郎はとうとう木刀を下ろしてしまったが、今だけは許してやることにする。顔をぐしゃぐしゃにして泣き出す少年の頭を撫ぜてやる。少年柔らかい癖毛は、友のそれを彷彿とさせた。

「錆兎」

 声が震えている。錆兎だってきっと、声を出していれば震えた。八年越しに見る親友は、大層立派な美丈夫になっていた。逞しい体の厚みに古傷だらけの両手。たゆまぬ鍛錬の跡が窺える。

 行方不明になっていた炭治郎の一つ下の妹の行方を捜す内、水の舞手が保護しているとの噂を聞いてなんとか接触を試みようとして幾月。舞手はいつも鬼に狙われる危険を伴うので、国の要人だけが参加する国家規模の祭祀でもない限りは顔を合わせる機会はない。炭治郎のようにまだ幼く未熟な舞手は尚更で、半ば軟禁状態だ。それをなんとか掻い潜り、守手罷免の危機をこれまで以上に味わいながらなんとか辿り着いた先に居たのがまさか義勇だとは。

「本当に、錆兎、なのか……」

 錆兎は幽世をくぐった者だ。その問いに答えてはいけないことになっていた。だが今更だと思って苦笑を返してやる。瞬きをひとつもせず錆兎をひたと見つめたままゆっくりと錆兎に歩み寄った義勇は、両手が錆兎の両腕に触れ、驚いたように息を吸った。それから、は、と息をひとつ吐く。苦しい胸を撫でつけるように、震えた吐息がはあああと続き、義勇の体から力が抜けた。ふらりと揺れた頭が肩に乗ったので支えてやる。

「言ったろう」

 眼下にある義勇の肩は震えていた。自分で選んだ道とは言えど、それが罪悪感を煽る。残した者にいくら悔いが無いとしても、残された者には海より深い悔いが残る。それも痛いほど知っていることだった。

「男なら、そんなふうに泣くな。義勇」
「……そうしてきた」

 腕に縋る手の力が強くなり、背が丸くなる。錆兎は名目上、この浮世との関りを断ったはずの身だ。それでも錆兎のことを確かに覚えていて、その生き方を胸に刻んだ誰かがいるというのは心を励ます。

「でも今だけは許してくれ」

 傷つけてしまったことはやっぱり悪いと思うが。遠い昔もそうしたようにポンポンと癖毛の髪を叩いてやった。視線の先に妹と手を取り合って微笑んでいる炭治郎がいて、自分の過去の未熟を曝け出したような気持になり、何故だか気恥ずかしい気持ちになってしまった。

 そんなこんなで、幽世をくぐった者とは思えぬほど、このところの錆兎は充実した暮らしを送っている。これが己の信じる道の向かった先というならこんなに嬉しいことはない。きっと誰にも羨まれる。

「錆兎は、いいなあ」
「……何がだ」

 しかし、稽古をつけてやっている合間の休憩で、炭治郎がポツリと漏らした言葉には目を丸めてしまった。まさか本当に羨まれるとは思っていなかった。しかもそれがあまりに唐突なので面食らってしまう。

「強くて、綺麗で、格好良くて、背も高いし、頼りにされて」

 俺に敵うところがないや、ぼやく炭治郎の言葉には己への落胆が色濃く、錆兎へ意識が全く向いていない。言う者が言えば過剰なおべっかにも聞こえかねない称賛を、その真心を全く疑わせずに聞かせると言うのも一種の才能だろう。師と同じように鋭い嗅覚を持つこの少年にこの照れる気持ちが嗅ぎつけられないといい、と思う。

「俺にはお前のような優しさやひたむきさはないぞ。俺にいいところがあるのなら、お前にもある」

 それにこの少年の魅力は何よりもその伸びしろだ。きっと瞬く間に錆兎を追い越して立派な舞手になることだろう。頭をポンと撫でてやるが、素直な炭治郎にしては珍しく納得した様子がない。首を傾げ、しゅんとしょげた睫毛の先を見下ろす。

「だけど」

 沈黙。躊躇うな、男らしくない。先を促すと、炭治郎は目を細めて笑った。この天真爛漫な少年らしくない、切なげな表情だった。

「義勇さんが好ましく思うのは俺じゃないから」

 ごめん、何を言ってるんだろう俺、と気を取り直したように笑みを取り戻し、炭治郎は木刀を手に勝手に稽古に戻ってしまった。

 一悶着はあったものの、日の舞手との稽古を許されるようになった義勇とは度々顔を合わせるようになっていた。旧友とこうして再び親交を重ねられることを幸いに思うし、炭治郎が妹との時間を持てることも自分のことのように嬉しく思う。

 義勇は水の舞手としての素養が早くに見出されていたが、鬼に生家を襲われ行方知れずの扱いになっていたらしい。その事情を勘案して思い返せば、守手の卵である錆兎たちが鬼に襲われたことにも納得がいく。しかし義勇は、そのせいで錆兎の身に起こった何もかもを自分のせいだと思ってしまいがちだ。この八年という大きな空白をこれから埋めていく過程で、時間をかけて正していくほかないだろう。

「錆兎は凄いな」
「急にどうした」
「精神も技も熟達している。敵わない」

 並んで炭治郎の演舞の稽古を見てやっている中で、炭治郎から厳しく目を逸らさないままポツリと義勇が呟いた。友に真っ向から褒められて悪い気はしないはずなのだが、どうにもこの間のことが思い返されて嫌な予感がする。義勇と同じく炭治郎から目を逸らさず、錆兎は慎重に言葉を選んだ。

「見ない間に、お前の技の冴えは俺を遙かに超えた。今や惚れ惚れするほどだ。これ以上何を望むんだ」

 義勇もまた基本的に素直な男だ。幼い頃のような分かりやすさは減じてしまったものの、錆兎の言葉の裏を疑うようなことはないし、わずかな表情や気配で喜んでいることを簡単に察せる。しかし今、錆兎の言葉を受けても義勇の気配は少しも動かない。

「だが」

 沈黙。嫌な予感が深くなる。この沈黙には既視感がある。つい先日も味わったばかりだ。

「何だ。どうした」
「俺はお前になれない」
「当たり前だろう、そんなことは」

 なる必要もない。八年の空白の内に、錆兎と義勇はそれぞれで師の教えを実践し、高め、それぞれの方法で極めることを目指している。それが分からない義勇でもないだろう、思わず炭治郎から完全に目を話して横を向けば、どこか寂しげ下を向く睫毛。これにも見覚えがある。

「炭治郎がお前の技を、綺麗だと。好きだと言っていたから」

 いや、何を言っているんだろうな、俺は。忘れてくれ。そう続けられるが、この流れで「そうか」と頷ける奴がどれほど居るのだろうか。これも男の受け入れるべき運命だというのか。

俺はどこで何を間違えてこの二人をこの道に放り込んだ。いや、男らしくない言い訳だが、どう考えてもこいつらは勝手に飛び込んでいっただろう。何故俺を間に置く。俺はこういう話が一番苦手なんだ。父の教えにも答えがない。父さん、ここで俺は男らしく何を言うべきなんだ。一体全体、どうしたらいい。

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