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九日思い、一重ねる



 十日を空けて、今日もまた炭を目一杯担いで山をひとつ越える。

 年始が騒がしく過ぎていったおかげで義勇に会うのを随分久々に感じる。色々な人に会ったし訪ねて来てもらった。だが実のところ義勇とは輝利哉への年始の挨拶の場でも顔を合わせたし、宇髄の主催する宴でも近い席に座ったのだ。ただ、義勇はどちらの場でも道場があるからと長居しなかった。炭治郎は炭治郎で年始の神楽に来られなかった者たちに囲まれ酒をたらふく飲まされる形になって殆ど言葉は交わしていない。

 今年は見に来たんだろう。どうだった。色々な人に突つかれたが、答えは単純だ。うん、来てくれた。神楽を見せられて良かった。炭治郎の返事に喜んでくれたのは千寿郎くらいで、後は皆大抵似たような微妙な顔を浮かべ、がっかりした匂いを漂わせてきた。さすがの炭治郎も気が付いたが、これはひょっとしなくても色々と察されている。

 勿論恥ずかしさもあったが隠していたわけじゃない。うまく言葉にできなくてそんな単純な答えしか返せなかった。あの日、炭治郎と義勇との間で確かに何かが変わったことを。

「こんにちはー!義勇さん!」

 いつものように遠慮なく屋敷に足を踏み入れると、神妙な顔をした門下生たちが迎え出てきた。いつもと違う出迎えに面食らっていると、いいから早くと背の大籠を降ろすようせがまれる。その緊迫した匂いに不穏を感じてしまう。

「義勇さんに何かあったのか」

 一番歳上の子供の両腕に手を添わせて目を覗き込んだが、分かりませんと答えられる。匂いには困惑が強い。少なくとも絶望や悲しみを嗅がないことになんとか気を持ち直し、門下生の大きな瞳に映る己の顔の硬さに気付いて驚く。その剣幕に門下生からも驚いたような気配がして、ごめんな、驚かせたなと屈んでいた身を起こす。

「分からないって……一体何が……」

 とにかく早く道場へといつかのように背を押され、自分から足早に歩き出す。道場の前まで来たところで、門下生たちに何故か口々に励まされて謎が深まった。頑張ってください、炭治郎さんなら大丈夫です。応援と信頼は有難いが、一体炭治郎は何を頑張って何を乗り越える必要があるのか。困惑していると焦れたように門下生たちは炭治郎を道場の戸口に押し込め、こそこそと気配を消してその背を窺ってくる。

 ぺたりと裸足で道場の冷たい床を踏む。神棚の下、鱗滝の贈った「上善如水」の書を背に座す義勇が音もなく目を上げた。格子窓から入る夕陽の中、淡く朱色に染まった肌や髪、青空を深く沈めたような藍色の瞳。やっぱり、いつでも特別だ。炭治郎の中で義勇は。

 義勇は何も言わない。動きもしない。炭治郎を変わらない表情でじっと見つめている。なんだかそれを懐かしいと思い、門下生たちが困惑していた理由に思い当って安堵した。義勇からは怪我や病気といった匂いは一切しない。瞑想によって鎮められた心からはただ清涼な香だけがする。きっと門下生たちにとってはそんな義勇が珍しいのだ。何か炭治郎がまずいことをして、義勇の不興を買ったのだと気を揉んだに違いない。三年を経てこの人が如何に炭治郎を懐にすっぽり納めていたかを実感する。思わず笑みになり、炭治郎は誰にともなく申し訳なく思った。咎められても、真剣な顔を保てそうにない。

 ひたり、ひたり、足運びを変えて義勇の視線に吸い寄せられるように近づく。そして膝の先が触れるかと思う近さで腰かけた。炭治郎の背丈は今、義勇とほとんど変わらない。見つめる瞳は正面にある。目を合わせるとぴくりと膝の上の拳が動いたが、それだけだった。何も言われない。それをいいことに炭治郎は思う存分義勇の輪郭を目でなぞった。

「義勇さんはいつも俺のためを思ってくれますね」

 炭治郎の言葉の意味が分からないのか、義勇の表情が初めて動いて怪訝そうに眉根が寄る。

「義勇さんをこうして見ているのが俺は、昔から好きですから」

 分かっているんですよね。そう続けると見開かれる目、力の入った肩。まるで毛が驚きで逆立っているかのように見えて、炭治郎は笑みを堪えられなかった。にこりと眦を緩める。対する義勇は口元を強く引き締めた。気配なく、すっくと立ちあがる。

「湯を頼む」
「はい」

 義勇が大股で歩き出したので炭治郎もそれに続いた。こちらを窺っていた門下生たちがわたわたと散る気配がするが、きっと義勇も気が付いているだろう。なんだか不本意そうな表情だ。炭治郎の周りを優しく漂う匂いと合わせて、また先ほど感じた気持ちに色が重なる。強くなる。

「照れてますよね」
「照れてない」
「でも俺、義勇さんの匂いなら間違えないですよ」

 義勇はすっと息を吸った。呼吸すらも静かな人なので珍しい。振り返った表情はやはり変わらないのだが、少し怒った匂いが混じっている。とうとう怒らせたかと眉が下がるが、笑みを消すことができない。

「嗅ぐな」
「努力はしますけど、難しいです。義勇さんの匂いなので」

 義勇は足を止めて炭治郎をじっと見て、しかし結局何も言わずに道場を足早に出た。炭治郎に決して横に並ばせないという強い決意を感じて、笑みを空気に滲ませないよう注意しながらゆっくり後を追う。それでも結局この人はかまどの前に辿り着いて腰掛けに座るのだからずるいなあとも思う。最後には隣に並ぶことを許している。

 いつものようにかまどを開き、良い具合に薪を組んで火を点ける。義勇は膝に片肘をついて炭治郎の指先だけをじっと見下ろしていた。かまどの口を鉄扉で閉ざしてぱちぱち薪が炎に爆ぜる音を聞いてしばらく。言葉はない。視線すら合わない。

「義勇さん」

 声をかけたが視線は上がって来なかった。だが匂いに怒りはもう無くなっていて、ただ困惑だけが残っている。やっぱりこうなってしまったかと、炭治郎にあれだけ気を許していた義勇を惜しく思いもする。

「今日、一緒に湯を使ってもいいですか」

 だが、生まれた変化を嬉しく思ってしまっている自分がいるのもまた確かだった。義勇の目が思わずといった風に見開かれ、やっと炭治郎に戻ってきた。やっぱり炭治郎はそれを笑顔で受け止めてしまう。

「せっかく、炊いたので」

 義勇は狼狽えている。今ならきっと匂いが無くとも誰でもそれを知ることができるだろう。しかしここには誰も居ない。門下生たちの匂いもしない。良かった、と思ってしまう自分に炭治郎は苦笑した。かつては自分が何の気なしに言った言葉に追い詰められた、この顔を炭治郎のほかは誰も知らない。しかし義勇は炭治郎にとっていつ何があっても変わらぬ大恩人であることも確かだから、罪悪感がすぐに勝って口を開いた。

「ヘンなことを言いました。すみません」
「……いや、おかしくはないだろう。この前もそうした。別に構わない」
「俺は構います。この前も大変でした。緊張で」

 義勇はきっと努めて以前の自分を保とうとしている。でも炭治郎はそれを見逃すことができそうにない。笑みは止められないが、炭治郎は同時にどこまでも真剣だった。手を伸ばして義勇の手の甲に己の手を重ねた。ぴくり、また小さく義勇の手が揺れる。

「俺も、もう大人ですから」

 もう変わってしまった。戻れない。だったら止まらない。先にこの人がいるなら、止まりたくない。

「義勇さん、湯加減を」
「……分かった」

 炭治郎を呆然と見つめる義勇に声をかけると、何か術でも解けたように目を瞬いた。それからふらりと立ち上がり、心許ない足取りで小屋に入っていく。風呂の蓋を上げようとして取り落としたらしい大きい音をかわいそうに思いつつ、炭治郎は気を抜いて思わず笑ってしまった。

 その後はいつもの通りだ。格子越しの衣擦れや水音にどぎまぎして、門下生たちと騒がしく湯を使い、一緒に膳を並べた。門下生たちに代わる代わる話しかけられるのに忙しく返事する炭治郎に義勇の表情はやっと緩み、門下生たちがやっと人心地ついた匂いをさせる。なんだか義勇たちを振り回してしまったような気がして申し訳なくなる。

「行くのか」

 門下生たちが寝支度を始めた頃、炭治郎は籠を片手に義勇の私室の前に膝をついた。いつもは寝る前の一刻程は義勇の私室で話したり将棋を指したりするので、寝間着を纏っていない炭治郎を義勇は意外そうに見ている。炭治郎はなんだか気まずくなって己の頬をかいて苦笑した。

「今日はなんだか少し、浮かれ過ぎてしまったなあって……。鱗滝さんに会って頭を冷やしてきます」

 夜半の訪問を疎まれないといいが。もし鱗滝が寝ているようだったら狭霧山を久々に夜通し駆けようかと思う。なんだか気が騒いで落ち着かない。やはり炭治郎は浮かれている。義勇のことをきちんと慮ることができなければ、本当の意味で大人とは言い難いだろう。

 義勇は炭治郎の言葉を聞いて、すっと立ち上がって炭治郎のごく近くに膝をまた付いた。炭治郎が好きだと言ったごく近い距離だ。静かな所作、静かな目。それから少し馨る──寂しい匂い。

「もう、行くのか」

 いつも風呂場越しにしか聞かなかった声に、こんな匂いが、表情が伴っていたのか。それをたった今知った。きゅっと胸が締め付けられて苦しくなる。思わず手を伸ばして膝の上の拳に両手を重ねる。

「義勇さんが行くなと言うなら」

 行きません。俺はどこにも。

 静かだった。門下生たちはもう眠ってしまったのだろうか。開けた障子の隙間には義勇の部屋の灯が満ちていて、義勇を懸絵のように飾っている。蒼が底に敷かれた瞳は今、伏せられている。何かを躊躇う匂いがする。しかし答えを諦めきれず、炭治郎はここでは引かないと決めた。じっと義勇から目を逸らさない。長い沈黙を経て、義勇の目が上がる。

「行くな」

 きっぱりとした声だった。もう困惑も迷いもない声。胸がまた苦しくなって、炭治郎は思わず身を乗り出して義勇を抱きしめた。ぐっと硬くなった体を絶対に離さない気持ちでいると、やがて力が抜けて背に手がおずおずと触れた。嬉しくて肩に頬を摺り寄せる。ん、と驚いたような呻きが漏れた。なんだかそれが堪らなくなりぎゅっと腕の力を強くする。おい、と不満そうな声がひとつ。

「お前は炭焼きだろう」
「はい」
「加減しろ。焦げる」

 義勇の肩に頬を寄せたままきょとんと目を丸める。顔を見ずとも炭治郎が呆けているのが分かったのだろうか、ふっといつものように気を許した笑みの匂いがした。

「うーん……」

 なんだか悔しくなって鼻先をぐりぐりと肩先に押し付ける。むふ、と義勇が笑う。きっと子供のような顔をしている。炭治郎の背に触れた手がこわごわと撫でる動きをした。この人はしょうがない。きっと炭治郎が義勇によって困るのが好きで仕方ないのだ。

「すみません、焦げてください」

 ふふ、と首元で空気が揺れ、慕わしい義勇の匂いが鼻に触れ炭治郎も笑う。冬の夜の暗がりの中、そうしてしばらくくすくすと笑いあっていた。

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