一人でなら半日かからない道行きも、連れ立って行けば一日かかることに気が付く。
自分にとっては随分久しいことなのですっかり忘れていたが、幼い子供というのはすぐに熱を出すし、涙鼻水鼻血擦り傷切り傷ですぐにぐしゃぐしゃになるし、嘔吐腹痛成長痛あたりは日常茶飯事にこなす。初めの頃こそ毎度血相を変えて町医者に駆け込んだり鱗滝を頼ったりしていたが、三年も経てばさすがに慣れが出てきた。子供の扱いがうまくなったわけでは決してないが、いかにして怪我や病気を予防させるかを考える余裕が出てきたということである。とりあえず冬は冷やさないでおく。これに尽きる。とにかく厚着を厳命し、冬の山越えを敢行することになった。
雪が多少積もっていても人の往来の絶えない低い山の、ならされた道である。日頃の鍛錬もそれなりに作用しているらしく、さほど険しくはない道程なのが幸いして子供たちは皆元気なものだ。雪がしんと静めた山道を白く華やかに騒がしている。住み込みの者たちには遠出する機会がそう多くないので、きっと新鮮に感じるのだろう。雪を見ると思い出す情景があるが、それとは似ても似つかないものを見ているなと思う。
しんしんと降る雪の中、義勇が突き立てた刀傷を受けながらも倒れ伏した兄を庇い、守ろうとする娘の姿。
山を越えた先にある村では雪は積もっておらず、灰鼠色の雲から降りてくるのは微かな細雪だ。しかし足元から這い登るような冷気に満ちている。さすがに疲れが出てきたのか子供たちは義勇の周りに固まって団子のように暖を取りながら歩いていた。言葉も少なになっていて苦笑する。一番歳の若い少年などは義勇の羽織に縋るようだ。それでも弱音は吐かずにいるので気づかないフリをしてやる。
「あ、義勇さーん!」
山の麓で大きく手を振る姿に目を丸めた。艶やかな長い黒髪を結い上げる美しい姿は記憶から随分変わっているけれども、つい先ほどまで脳裏にいた娘だった。安堵した様子の子供たちに押し出されるように近づくと、満面の笑みで駆け寄ってくる。笑みを浮かべていると本当に兄とそっくりだと思う。炭治郎の家にすっかり居ついている鴉に道行きを見守られていたようだから、義勇たちが近づいて来たことを知って待っていたのだろう。
「やっぱり!」
挨拶もそこそこに、禰豆子は笑みのままそう言って片腕に引っ掛けていた羽織を引っ張り出した。何のことだかまったく分かっていない義勇に背伸びをしてその羽織を着せようとする。仕方なく腕を通せば柔らかな感触に包まれた。綿が入っているなと思っている隙に、首に襟巻をぐるぐると巻き付けられ口元まで覆われる。
「お兄ちゃんが義勇さんはきっと薄着してくるからって」
町の人はみんなそうだから、などとぼやかれるが、義勇だって鱗滝の元で幾年も過ごした山際の育ちである。そもそもこれは薄着ではなく、鍛錬を続けてきた義勇にとって必要十分な装いであるだけだ。しかしそれを口にする前に、一番口達者な門下生が「先生、こどもみたいだ」と呟いて子供たちがくすくす笑い始めてしまった。先ほどまでの疲弊した表情はどこへやらだ。やれやれと呆れていると、禰豆子が身を屈めて門下生たちと目を合わせる。黒雲母のような艶やかな黒の中に光が溢れている。
「みんな元気そうで良かった」
兄と共に道場を訪れて来ることもあるので、禰豆子と門下生たちとは顔見知りではある。しかし炭治郎ほど頻繁ではないし、炭治郎のように一緒に遊んでくれる兄のような存在でもない。年頃の少年たちにとって美しく成長した禰豆子は気軽に近寄りがたい存在のようだった。
「でも、あんまり先生を困らせちゃダメだよ」
首を傾げて笑顔で咎められ、どれもこれも目を逸らして口元をまごつかせている。それをふふふ、と愉快そうに笑って禰豆子は体を起こした。兄とよく似た素直で温かみのある、しかし芯の強い笑みに義勇の目元も自然に緩む。
「迎えがあるなら炭治郎が来るかと思っていた」
「私もてっきりそのつもりだったんですけど」
山に向けて歩き出す禰豆子に義勇も続くと、まだ歩くのと一番年若い門下生が泣きそうな声で呟いた。禰豆子はまた笑って、もうちょっとだからとその頭を撫でてやっている。現金なもので、顔を真っ赤にした少年はもう少し気張る覚悟を決めたようだ。だがこれから坂が続く。とうとう音を上げたら背負ってやるしかないか。そう思いながら禰豆子のつむじを見下ろすと、心底愉快そうな顔が義勇を見上げた。
「義勇さんの顔を見たら義勇さんのために舞ってしまいそうだから頼むって言われて」
ふっふ、禰豆子の肩が揺れる。思わずそれをまじまじ眺める義勇が更に面白いのか、禰豆子の忍び笑いは止まる様子がない。
雲取山に戻った炭治郎は、竈門家が代々守ってきたという年始の神楽も続けることにしたようだった。全て終わった後の年明けから三度、あの戦いを共に経た多くの人が訪ねてきてそれを見守ってきたのだと聞いている。伝聞になるのは義勇がそこに加わったことがないからだ。門下生たちを置いて出かける気にはならず、惜しい気持ちが強くとも毎年断ってきた。だが今年は当の門下生たちが歩けるから連れて行けと言って聞かず、炭治郎もそれを快諾したので甘えることにしたのだった。
「今更ですよねえ。みんな分かってるのに」
禰豆子はこそこそと低い声を出して続けた。今年はこの舞を見に来る人は随分少ないのだとは義勇も炭治郎から聞いていた。鱗滝は若い者は若い者でやってくれとつれないことを言っていたし、宇髄は三箇日の後に宴を開くことにしたからと直々に勧誘に来た。神楽もいいが、肝心の炭治郎と飲めないのはつまらないなどと言われて、見たくても見られない者からすれば贅沢な話だと呆れたものだ。だから丁度良かった、などと炭治郎に喜ばれていたが、実のところ逆だというのが禰豆子の想像だ。きっとみんな義勇に神楽を見せたい炭治郎の想いを知っていて、気を利かせているに違いない、と。
「私が話したこと、お兄ちゃんには内緒ですよ?」
にんまりと目尻を下げて笑う禰豆子から目を逸らして前を向く。禰豆子の手製だろう、分厚い襟巻と羽織の中でぬくぬくと熱が巡る。大勢の中、隅からでも見ることができればそれで満足だと考えていた。せっかく年始しか見られないものを、わざわざ辞退することもないだろうに。
「義勇さん、笑ってます?」
「笑ってない」
「うそうそ、笑ってます!目で分かります」
禰豆子が背伸びをして覗き込んで来ようとするので思い切り顔を逸らすと、けらけらと幼子のように笑い声を上げる。くすくす、門下生たちの忍び笑いもまた腰のあたりに生じている。今度はどこにも味方はなさそうだった。笑ったことで活気を取り戻したのか、義勇を追い越しそうな門下生たちを禰豆子が褒める。餅をいっぱい用意したからね、ぼたん鍋もあるよ、あれここ破けてる。着いたら直してあげようね──禰豆子の明るい声に励まされて、あっという間に門下生たちは山を登り切ってしまった。
「待ってたぞ半々羽織!俺と勝負だ勝負!」
「ちょっと!ちょっと待てよぉ!ここで手合わせとか始めたらわけ分かんないことになんだろぉ!?炭治郎かわいそうだろうが!せめて神楽終わってからにして!」
そして突然現れた猪頭の男に硬直を強いられていた。以前より逞しくなった胸板を雪に晒す様は素直に感心するが、相変わらず落ち着きのない男である。勢い良くこちらに突進して来ようとする伊之助を善逸が必死に止めている。
「久しいな、我妻。嘴平」
「久しいですね!?久しいですけど!普通に挨拶しますね!?見えてますかこっちが!?」
「健勝そうで何よりだ」
「はいどうも!お元気そうで何よりですよそちらも!!」
くすくす禰豆子が笑い、それに善逸が顔を真っ赤にして飛び上がり、その隙に伊之助が義勇に突進してきて、門下生たちが「先生を守るぞ」と悲壮な決意を固め──と色々あったが、すぐに善逸が禰豆子の傍について御用聞きに回ろうとし、じゃれつく門下生たちを伊之助が転がすという形に落ち着いてしまった。一人手持無沙汰な義勇がどうしたものかと思っていると、禰豆子が声をかけてきた。
「裏に神楽台があるんです。一昨年元隊士の人たちが組んでくれて。炉があるのでその傍に座っていてください!」
日が暮れちゃう、言うだけ言って禰豆子はばたばたと家に入って行った。善逸も手伝うよとそれに続く。門下生と伊之助の相撲にも終わりが見えないので、仕方なく義勇は一人で家の裏手側に回った。
木で組まれただけの簡素で小さな神楽台の上に、炎を模したような独特な柄の着物を纏った男が静かに座している。目で見るまでそこに男がいると気づかなかった。「炎」の一字が書かれた白布で顔が覆われ、いつもの明るい表情は窺えない。雪の中、ぱちぱちと篝火が燃える音だけがする。風が吹いた。顔の白布、赤みがかった髪と臙脂の鉢巻きが揺れる。
何か壊してはいけない場が既にそこにはできあがっているようだった。努めて気配を消して神楽台の前に作られた東屋の下に入る。茶室の待合腰掛に床をつけたような造りで、神楽を見る人の風雪を避けるために作られたようだ。禰豆子の言葉通り、床の中央の炉には火が焚かれているが、床には上がらずにその縁に腰かける。炭治郎の正面だ。庇の中央に据えられた柱に肩を預けた。
始まるよ、と禰豆子の明るい声がする。伊之助行こう行こうと門下生たちがはしゃいだ声を上げて駆け込んでくる。親分と呼べと憮然としつつ、満更でもない様子の伊之助が床に上がり、禰豆子と善逸がそれぞれに鍋や食器を持って後に続く。義勇はその賑やかな気配を感じつつ、しかし動かずにただじっと正面の炭治郎を見つめていた。
すっと、音もなく炎の橙色に染まった指が伸び、膝元にある鉄剣を手に立ち上がる。あまりに気配が静かなので、まるで不動のはずの大木が突然動き出したかのような奇妙さを感じた。コオオ、と風が渦巻くような音。呼吸だ。白い息が風と雪に混じって流れていく。鉄剣が脇近くで構えられ、頭上から振り下ろされた。火炎が疾る。ダン、と裸足が床を強く蹴った。前傾したまま体を捻って回転し炎が渦巻く。その勢いのまま床をダン、とまた蹴り上げ体が宙を舞い炎の一文字を描いて静かに神楽台に降り立つ。そのまま体をゆらりと揺らして神楽台をくるりと舞い、ダンダンダンと小気味の良い音と共に龍が身をくねらすように火炎が尾を引く。
目を逸らす隙を完全に見失っていた。ただ義勇はじっと炎の軌跡を目で追っている。
「義勇さん、寒くありませんか」
ハッと夢から醒めるような心持ちで目を上げた。義勇を覗き込む禰豆子の笑みがすぐ真上にある。炭治郎は相変わらず舞を続けているが、いつの間にか辺りは深い闇に包まれていた。門下生たちの姿はなく、風邪を引くといけないから家で寝かせましたと教えられる。炉の近くでは伊之助が横になりうとうとと頭を揺らしていて、それに呆れた様子で善逸が布団をかけてやっていた。一体どれほど経ったのか。少なくとも数刻は経っているようだったが、義勇にとってはほんの一瞬だった。狐狸に化かされたのかと思う。
「寒くはない」
本心だった。風雪の吹き付ける軒下にいて尚、義勇の指先から足先まで炎に当てられたように熱を持っている。その答えに、そこがいいんですね。と禰豆子は優しげに笑った。それからすとんと義勇の隣に腰を下ろし、綿入りの羽織の中に潜り込んでくる。ふと鋭い視線が背中を刺して振り返れば、善逸が般若もかくやという顔で義勇を見つめていた。思わず禰豆子を見下ろす。
「いいのか?」
「いいです」
「……見てるが」
「いいんです。恥ずかしいから」
見下ろす禰豆子の耳はほんのり赤い。耳の良い善逸は禰豆子の小さな呟きさえ拾って、ね、ねず、と言葉にならない呻きを漏らしている。ほとんど眠りの世界に身を浸している伊之助と、炭治郎の神楽にすっかり夢中になっている義勇しか居ないとなれば、憎からず思っている相手と二人きりになってしまう。それはまだこの少女にとっては扱い兼ねることなのだろう。その年相応な幼気が微笑ましく、義勇は好きなようにさせておくことにした。神楽に目を戻す。
炭治郎の話によれば、善逸は人の感情さえその耳で聞き分けるのだという。それならば義勇も禰豆子も善逸が妬むような想いを互いに抱いていないことくらいは分かるだろう。
炭治郎と同じく禰豆子にとっても、義勇はきっと特別な存在だ。それは自惚れでなく事実だと思う。だがそれは偶然、あの日、義勇がここに居たというだけのことなのだ。義勇にとっては、いや誰にとってもこの二人こそ特別だ。この二人の意志と絆の強さが無ければ、きっと何も変わらなかった。この兄妹は誰にとっても誇りだ。尊ぶべきものだ。美しいものだ。慕わしいものだ。愛おしいものだ。そしてそれは全て義勇が取り零した悲劇から生まれたものだ。いつもそれを思い返す度に胸が痛む。この二人を──炭治郎を自分だけが留めておけないことを義勇は知っている。
「義勇さん」
かつては深く傷つけたこともある腕を持つ義勇の肩に、何の恐れもなく禰豆子は温い頭を預ける。
「見ていてくださいね、お兄ちゃんを」
言われなくとも今まさに目を奪われたままだ。火炎にたわむ熱気と遊ぶように休みなく舞い踊るその姿に。ダン、ダンダン、小気味良い足音は少しも弱くならない。風がまたひとつ大きく吹いて、顔にかかる布が翻った。目が見える、今日初めて。鉱石に熾火を秘めた赫い瞳が、ひたと義勇を見ている。ぎゅっと禰豆子が義勇の腕を掴んだ。
「神様に取られたら嫌だから」
何故だかその目に、言葉に、ひどく心が揺さぶられた。片頬がひやりと冷えて何かと思えば、知らず涙が流れていたようだった。涙を零すのは幾年ぶりだろうか。禰豆子が袖を伸ばしてそれを優しく拭ってくれた。
「義勇さん、ありがとうございます。いつも」
何に対しての礼なのか分からず、何も答えられない。しかし禰豆子はそれを責めることもなく、言葉を重ねることもなく黙っている。炭治郎の神楽を二人してじっと眺めた。
また数刻、気づけば辺りには黎明の白んだ空気が漂っている。肩にかかる禰豆子の頭は重く、いつの間にか寝入ってしまったようだった。背後からも同じく伊之助や善逸の寝息が聞こえてくる。
炭治郎が闇を断つように炎の一文字を切ると、さっと木々や雪雲の隙間を旭光が走った。剣を振り抜いていた炭治郎は、それを正面に立たせ、天に捧げるようにして静かに頭を垂れた。そして神楽台に恭しく礼をして地に降り立つ。ぐぐ、ぐぐ、と積もる雪の冷たさを気にした様子も無く裸足で義勇の元まで歩み寄ってくる。
すぐ正面で炭治郎が足を止めた。ぺらりと布が捲られ、鉢巻きが拭い取られると汗の匂いがした。ぽたりと一滴顎の先を伝って落ちる。笑みのまま炭治郎はじっと義勇の言葉を待っているようだった。
「……お前の炎に巻かれる者は幸せだな」
凄かった。素晴らしかった。見ごたえがあった。美しかった──なんでも言えたはずだが、いつもロクに回らない義勇の口は今日も思いもしない言葉を吐き出していた。白く淡い光に包まれた朝の中、炭治郎はふっと唇から笑みを零す。
「それなら」
笑みだ。炭治郎はとにかく義勇の前で笑みを絶やさないでいる。それは変わらないはずだ。しかし今のそれが記憶の中の少年のどの笑みとも重ならないことに今更気が付いた。愛嬌のある丸い瞳は変わらないが、凛々しく研がれた輪郭と、逞しく太い首や厚い肩。精悍な青年が義勇をじっと見下ろしている。瞳の奥には熱気がくゆるような赫が光る。
「義勇さんは幸せ者ですね」
頬をするりと撫でられぽかんと見上げていると、炭治郎は眉を下げて大人びた苦笑を浮かべた。
「結局、折々義勇さんのために舞ってしまった。ヒノカミ様に怒られないといいんですが」
ふふ、とまた空気を揺らすように青年が笑い、優しい声で禰豆子の名を呼んで揺すった。ううんと呻く声で止まった朝がまた動き出す。
年が明けた、夜が明けた。炭治郎は十九、義勇は二十五になる。