「すまんが、その餞別は受け取れそうにない」
またも、しじまが大河のように横たわっていた。だが、庭先が少しずつ騒がしくなってきている。主に馴染み深い者たちが屋敷を右へ左へしているのが遠目に窺えた。刻が迫っている。それを、再びうつむき顔色を隠すつむじを見つめるだけで過ごしたくはない。なかなか見えぬ面が、びくりと揺れるだけの肩がもどかしい。
「千里万里を隔て、百代千代を経ようとも、この身が折れん限りは俺は覚えている」
耐え切れないとばかりに一期はがばりと顔を上げた。その顔色は進退窮まれりとでも言いたげに弱々しい。やっと戻ってきた黄金色の二つ目に、三日月の中で初めて生まれた「怒り」とやらはさっさと霧散してしまった。ふ、と笑みが漏れる。
「そもそも、忘れ方が分からん」
思えば、一条の星が空を駆けるよりも、一陣の風が髪の先を弄ぶよりも短い刹那だった。だがどんな流れ星よりも美しく、どんな旋風よりも荒々しく三日月の心にこの男の姿は描かれている。唐物の白磁に描かれた美しい青花のように鮮やかで薄れそうにもない。
「私は。私は……」
「うん?」
「くそ、」
元来穏やかで礼を重んじるこの男が悪態を吐くのは稀なことだ。驚きに息を止めるその一時の隙を突くように、一期は三日月の腕を力任せに引いた。この男の前で張るような気はもはや持ち合わせていないので、三日月は均衡を保つこともできずそのまま一期の腕の中に収まった。
「身を砕かれるようなこの想いを、どうしていいか……分からんのです……!」
背に回り腕のあたりを締めつける一期の両腕の力は粗雑で強い。まるで一期が三日月にその切っ先を突き立て、今まで覚えたこともない激情への困惑や苦しみや痛みをその傷口から注ごうとしているかのようだ。眉根に力が篭るが、それでも三日月は笑みを浮かべた。
「では祈ろう」
日ごろ名に適う良きものであるべく努めるその姿が、今三日月の肩に面を押し付けて崩れ去っているのだ。伝わる震えに、えも言われぬ愛おしさを覚える。三日月も一期の背に腕を回し、人が泣く幼子を宥めすかすようにそっと撫でた。
「必ずお前と見えるよう。再び縁が重なるように」
刀はその主によってさだめもまた変わる。だが三日月も一期も浮世に頻く沖つ波に揺られ、人の与り知らぬ力を得た身だ。願えばあるいは、神の真似事も叶うかもしれない。
「お前が俺を忘れたなら、俺はまたお前と出会おう」
ぐ、と強くなる腕の力は何を訴えたつもりか、息を抜かれるようにふふと笑った。