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舌の上の未知



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8143395

 このほど、一期一振はこの「本丸」の一員として、太刀ながら人の身を受け己が身を己の意思で振るうことになった。我が事ながらなんとも奇妙な話である。一通りの事情は理解しているものの、「腑」に落ちないものがある。人というものはあべこべにはたらく心と体をどう操っているものなのだろうか。こんなにも不可解なのは欠けた記憶のあるせいかとも思ったが、それはこの城に顕現した名だたる刀剣たちの誰もが通った道らしい。戸惑うことも多かろうと審神者は一期に骨喰と鯰尾、二人の兄弟の部屋への仮住まいを勧めた。

 兄弟たちに歓迎されあれこれ構われている内は、一期も気が弾み苦もなく過ごせたが、既に本丸での生活がある兄弟たちにはそれぞれ任された仕事がある。審神者や他の刀剣たちに遠慮がちに声をかけられると、皆名残惜しそうにそれぞれの仕事へ向かっていく。中には遠征に出ており、まだ顔を見ていない兄弟も居た。思うよりもしっかりと責を果たそうとする弟たちを頼もしく思う反面、顕現したばかりで何の仕事もない一期は手持ち無沙汰になってしまった。今日は休みをもらっている、と骨喰が残ってくれたのが幸いで、部屋でぽつぽつと言葉を交わす。沈黙の中に水滴を落として言葉を滲ませていくようなその口ぶりが懐かしい。

 そうして数刻を随分のんびりと潰しただろうか。それまで一期をひたと見つめていた骨喰がふと視線を逸らした。追うと、陽射しが障子に影を映しているのが分かる。

「入るぞ」
「ああ」

 骨喰が躊躇わずに返事を寄越したということは、それなりに親しい相手なのだろう。胡坐を正し背をピンと張る。身構えて見つめる障子がすっと滑った先には月夜があった。我ながら奇怪な表現だが、咄嗟にそう思ったのだ。立派な誂えの着物とそれに見合う泰然とした風体が陽光を遮り、しかしうす暗がりに決して沈まない整った容貌がそう思わせたのかもしれない。

「一期一振、よく来た」

 間抜けなことに、ぽかんと口を開いてしまった。相手の笑みにも瞳にも口ぶりにも気安さがある。名を聞かずとも、名だたる名刀であることがその身から馨っている。一度見たら二度とは忘れられないだろう美しさだ。しかし一期にはまるで身に覚えがないのだ。

「はっはっは、いい。いい。俺はじじくさい昔話なんかをしに来たわけではないぞ」

 一期が記憶の浅瀬で足踏みしているのを見透かした顔で、男は一期から言葉を奪った。それからほれ、と両手で抱えているものを一期に見せ付けるように掲げる。朱塗りの膳だ。漆の器がその上にいくつか乗っており、薄く湯気が上っている。

「骨喰、兄を俺に貸してくれるか」
「俺は構わない。兄弟に勧められた本でも読んでおく」

 何やら一期の与り知らぬところで、何らかの締約が結ばれたらしい。しかし一期には何が何やらさっぱり分からなかった。麗しい曲線で描かれた顎を姿勢を正したまま凝視する一期に気がつき、男は楽しげにまた笑った。よく笑う男だ。しかしわけも分からず笑われているのに、不思議と嫌味を感じさせない。春に桜が咲き、秋に紅葉が散るような自然な笑みだった。笑う度夜の色をした深い藍色の髪がさらさらと流れ、金糸の頭飾りがゆらゆらと揺れる。

「座るぞ」

 男は膳をそっと一期の前に置いた。当然男はその向こうに座るものと信じていたが、男はさらさらと衣を鳴らし一期の隣に優雅に腰を下ろす。随分と距離が近い。明るい月夜を玉にしたような瞳も、それを飾る睫毛も、その間ですっと通った鼻筋もよくよく見えた。思わず観察に徹してしまうほどに。

「一期、お前ものを食ったことはあるか」
「は…いえ」
「無いだろう?これがすごい。俺もたいそう感動してな。いち早くお前に味わわせてやりたいと思っていた。それが叶う日が来ようとは」

 よくできた人形のような笑みと瞳に、きらきらと生気が躍る。ただ黙って佇んでいるだけでこの世の理すら引き寄せてしまうような見目だが、そうしているとまた違った美しさが泉のように湧き出ているようだ。怒涛のように押し寄せるこの刀の気配に言葉をすっかり失っている内に、馴れた手つきで男は箸を手に取った。器を手に取り、そこに乗る彩り鮮やかな「食べ物」を摘み上げる。

「あ」

 少し待ったが、続く言葉は無かった。あ、その一音で言うべきことが終わったことを証明するように男がもう一度それを繰り返す。何を言われているのか、咄嗟には理解できなかった。いや、何時を過ぎても理解できる気はしない。男の笑みがやや怪訝げに曇ると妙な焦りが背を走る。助けを求めるように目を泳がせば、幸いなことに骨喰がこちらを見ていた。

「兄弟、俺も昔、同じことを言われた」

 思わず目を瞬き、骨喰と男とを交互に見つめる。ひょっとしてこれは、この本丸の通過儀礼というものだったのか。その仕事この男が親切にも買って出てくれているのかもしれない。なるほどそれならこの慣れぬ臓腑にも落ちるものがある。やや戸惑いつつも、一期はそろりと口を開いた。男は満面の笑みに戻って箸を運ぶ。やや大きな芋が押し付けられるように口の中に放られた。味が、香が、熱が、舌の上で溶けるような感触は確かに驚くべきものだ。

「美味いか?」
「ええ、これは…すごい、ですな…」

 新たに運ばれる人参を素直に咀嚼してはみる。しかし通過儀礼と呼ぶべき「常識」ならば、どうしてこうも甲斐甲斐しく世話をされるのがぎこちなく気恥ずかしいのだろうか。人で言えば「長子」として己を戒めてきた結果だろうか。もう一度視線を泳がせると、今度は気配で気がついたのか数瞬して骨喰が顔を上げた。

「俺に声をかけたのは兄弟だった。もちろん、俺は断った」

 俺に面白いかどうかは分からないが、参考になるかもしれない。口を開いたまま、舌の上で未知を転がし凝固する一期に骨喰はそっと本を差し出して立ち上がった。真横から繰り出される鮮やかな緑の豆にすたすたと部屋を出て行くその背を止めることもできない。手中の書には華やかな色が踊り、やたらと目の大きな姿絵がでかでかと描かれていた。

いちみかワンライ「食事」

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