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青花瓷 (パラレル)



 夏の夜の湿った気をひとつ、体の奥深くまで吸い込み細く吐き出す。軍靴で石砂利を踏み鳴らさぬよう注意を払いつつ、腰に佩いた太刀の柄を確かめるように触れた。金糸の柄巻が手袋越しにざらりとした感触を伝えている。ぐっとそれを握り込んでは離し、離しては握り込みを繰り返していると、夜気が風に舞う青柳のようにゆらゆらと揺れた。

「よきかなよきかな」
「……何か」

 一期のすぐ背後に立つ三日月に半眼を投げかける。陸士に入る頃はまだ首を反らして見上げなければならなかったものを、近頃は大した苦もなく目を合わせることができるようになった。それを思えば多少の溜飲は下がるようだ。ぴりぴりと張り詰めた空気を一切構わずに美しい男はゆるやかに笑う。

「心の臓の音がよく聞こえる。耳に心地良いぞ」

 夏の虫より風雅なことだ、三日月は笑いながら柄を握る一期の手に己の手を重ねた。それが気に入っているのか、一期がこの太刀に触れている時、それに宿る神霊である三日月はこうしてよく手のひらを重ねてくる。どっとより大きくなる鼓動を逃すことなく聞いているのか、また笑みが空気を伝った。

「……お静かに」
「うん。あまり声を出すと勘付かれるぞ、一期」

 遠目に朱塗りの鳥居が見える。一見して何の変哲も無いように見えるが、重ねた手のひらから流れ込む三日月の神気が鈍色に淀む悪気を察知させた。情報に誤りはなく、御敵は石段の先に潜んでいるらしい。足を止め、きっと鋭い視線を緩やかな笑みにぶつける。

「大丈夫だ、俺の声を聞く者はそうは居らんからなあ。どれ、歌でも歌うか」
「いいえ、結構です」
「ふむ……緊張を解そうと思ったが。難しいものだな。ではあれはどうだ?お前の弟がやっていた馬糞の……」
「『刀守』の中には神気に通じる者も居るようですが」

 いつかのように、三日月はきょとんと目を瞬いてみせた。比類なき美しさで見るものを圧倒する見目を持ちながら、そうしているとどこかあどけない感がある。しかしそれが覗くのはほんの一時のことだ。天下に五剣と謳われる太刀をそのまま顕わしたように、口元にも下弦の月が浮かんだ。

「ならばそれこそ、潜むが無駄というものだ。そうだろう?」

 三日月の強すぎる神威がざっとつむじ風のように夜を疾る。それに誘い出されるように鳥居の向こうで淀んだ気が蠢くのが分かった。

「……緊張などしていません。ただ」

 敵の正体は依然得体が知れないが、各地の名だたる名刀を奪い去り隠匿せんとするその動きから「刀守」と仮称されている。それを阻止し、奪還する特務を遂行する師団は、それを受けて「刀狩」の名が通っている。陸士を卒業してすぐ本隊に任官するはずだった一期は、その揶揄交じりの呼び名が面白くない。そもそも養父の意向を受けてこの特務に就いたのはいいが、この時勢に名だたる名刀を集めてお上は何をしようというのか。今では省部の重鎮として身軽に動けぬ養父が、一期ら兄弟を悪癖の手先に使っているだけのような気がしてならない。

「案ずるな」

 さらり、首元のあたりを肌触りの良い髪がくすぐる。どうやら背後から抱きすくめられているらしい。また不規則に跳ね上がる音に、くっくと喉を鳴らして笑う振動が伝わる。頬のあたりに熱がかっと集まるのをごまかしきれず強くかぶりを振った。

「そうですな……このような癖の強い太刀を私ごときが扱えるか心より案じています……!」
「はっはっは、それは無用の心配というものだ。俺はお前以外に扱わせる気はないぞ」

 どうやら刀の精が見えると養父母に漏らしてから一期の運命は大きく変わってしまったような気がする。元々養母の家はそういった神気のものを扱う生業を持っていたが、次第にその血が薄れ、今では後継の者が絶えてしまっていたらしい。それが、一期をきっかけに二人の弟たちにもその才が見られ、養父母は手放しに喜んでいた。元より手に入れた宝物に興味のない養父は、さっさと一期にきっかけの太刀を下げ渡してしまったのだ。そしてそれを何の因果か、こうして振るおうとしている。

「まあ馴染まぬというなら、探せばいいだけのこと。お前の名に収まるべき刀が他にある、ということかもしれんぞ」

 耳元の囁きはいつものように笑みを帯びている。だが奇妙な言い回しと、いつになくどこか心許ない響きを怪訝に思い咄嗟に振り返った。相変わらずの穏やかな笑みのはずだが、何故だか苦味が混じっているように思える。名を呼ぼうとした。しかしそれを遮るように三日月が顎をわずかに上げる。

「それを祈ろう。それから、武運を」

 前髪を分け入るように、唇が額に軽く触れた。呆然とそれを凝視する一期は余程滑稽らしい。三日月の伸びやかな笑いには最早苦味など欠片も窺えない。何やらまたからかわれてしまったのだろうか。気恥ずかしさと悔しさとがない交ぜになって顔と耳がひたすらに熱い。

「では、行くか」

 ひとしきり笑って満足したのか、三日月がまた一期の手のひらに己のそれを重ねる。緩んだ気を引き締めるように一期は鳥居へ向き直った。この神気溢れる太刀の戯れが御敵の目に触れ、呆れられていないことを祈りたい。

「三日月宗近!参るぞ!」
「あい分かった」

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