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金円柑



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 どんな言葉が相応しいんだろうか。

 首筋の汗を手ぬぐいで拭いながら縁側へ腰を下ろし、刀身をその脇に手放した。見上げた空には灰色の雲が陰鬱に這いずっている。これはきっと、じき一雨くるに違いない。ああ、降ってしまうのかと残念に思う。あんなに美しい刀が。人の身の、人の瞳を以てはじめて見る空が晴天でないなど。

 日課の素振りの間、いつも無心であることを己に課している。自分が思案に暮れがちな性質であることはよく知っていた。それは茎の銘のようなものなので、安易に変るとも思わない。だから戦場では万一にも迷わんようにする。吉光唯一の太刀、弟たちを統べる長兄は常に正しい道を取らなければならないと思う。弟たちがどこへ向かってもよいように。

 だが、戦場であの刀を拾ってからずっと、頭からあの姿態が離れない。すらりとした痩躯だった。しかし、優美な反りが「斬れる」ことを疑わせない。ああ、抜くんではなかった。誉を取って、更には見たことのない刀を発見しすっかり浮かれていたのかもしれない。本丸の梅雨空とは対照的な晴天の下、ざらりと古風で洒落た鞘から抜き去った。ためらいもなく、遠慮もなく。思い返すのも恥ずかしく、呻き声が漏れ出て顔を覆ってしまう。

 美しい刀だった。人の身を持つ者は皆そう思うようになっているんだろうか。白波のような打除けが光るのを阿呆のように見つめてしまった。それから、慌てて鞘に戻すのもいかにも間抜けな仕草だ。鼻を両手で覆うようにして、じっとりと水気の含まれた空気を吸う。そして大きく吐く。はあ。

 今の主は病弱な方だ。新しい刀に小躍りでもしそうなほど喜んでいたものだが、空模様とともに崩した体で顕現は難しい。その場に居る者皆で逸る主を諫めたのは、さすがに出過ぎた真似だっただろうか。ええ、痛いほど分かります。気になりもするでしょうな。あれほどの刀から、どれほどの男士がまろび出るものか。

 少なくとも一晩休んでから、そう話はまとまった。それでこうして一晩明けたので、あの刀とまみえることになる。私が拾ったあの白刃。どくどくと血の流れる音がどうしてこんなに苦しいんだろう。頭が重い。私の体も主のように崩れたのか。

 ずっと考えている。素振りの最中、目覚めてからも、ひょっとすると夢の中でさえ、いや戦場から帰ってずっと。初めてその目にかかったら、何と言うのが相応しいんだろう。

 縁故の類から始めるのが難しいとすると、自己紹介から始めるんだろうか。何故私はそれをこんなに口惜しく思っているんだろう。私が貴方を見つけたんですよと、口走ってしまわないことだけ気を付けなければ。私が見つけたんです。貴方の古雅な鞘を、優美な白刃を、三日月の打除けを──

 きし、床板を鳴らした足音にはっと顔を上げた。陽光よりも控えめに、しかしそれに増して艶めいて光るものがふたつ。見知らぬ顔だ。歩く度に鈴の音でも響きそうな優雅な身のこなし。主とその刀しかいないこの本丸で、見知らぬ顔と言えばそれは。重い雲間も日差しを取りこぼしそうな和い笑み。困ったもんだ。まだ何も見つかっていなんです。貴方にかける最初の一言が。なんだろう、ここは。やはり「はじめまして」なんだろうか。

「一期一振」

 は、の口のまま間抜けに固まってしまった。和い笑みが愉快そうな笑みに変るから気恥ずかしくなる。慌てて口を閉ざすと、ついにはふふふと笑われてしまった。真横にまで近づいた男がついにはこちらの鼻先までしゃがみ込んでくる。

「知っているさ。見つけたぞ」

 いかに名器と謳われる楽器でもこんなに耳に心地よい音は出せんはず。くらりと頭が揺れてしまいそうで、恐ろしくて、しがみつくように床に手をついて目前の瞳を見つめる。白波を朝ぼらけの空に浮かべたような三日月の打除けがふたつ。

「……ありがとう、ございます」

 口から出たのは、「はじめまして」に相応しい言葉とは到底思えない。だが不思議と心にしっくり馴染んだ。うん、嬉しげに返る応えがまた、何故だか胸をいっぱいにした。

(2018-06-13)
三代目いちみかワンライ「はじめまして」

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