文字数: 7,989

千日紅



※ 2018-05-27発行 いちみかプチ「蒼天白月・再」アンソロジー「祝言 -結-」に参加したものの再録です。
※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 がたり、大きな揺れが体に伝って目を開いた。

 どれくらいだろうか、どうやら眠っていたらしい。小刻みな揺れが地に触れた足から膝へと途切れずに伝わる。すぐにこの手狭な箱が牛車の中だと気づいたのは、緩やかに車輪の回る音がするからだ。無意識に手を伸べて床にぺたぺたと触れていた。金の蒔かれた鞘を引き寄せて己が刀を探していたことに気が付く。楽坐から片足を立て腰をわずかに上げ、物見の向こうから外を窺う。まず目に入ったのは白く筋の刻まれた木の幹だ。次はそれを覆う青漆の葉の色。それが見える限り鬱蒼と続いているらしく、ここがどこかまるで分からない。ぎい、ぎい、車輪を回る音がするのみで、その他の声も無い。思案するように小さく首を傾げた。一度腰を床に戻して坐す。

「すまんが、止めてくれるか」

 ぎい、ぎい、二度ほど車輪を回して箱は揺れなくなった。しかし待てど暮らせど牛から軛が外される音がしない。車が下がる様子も無いので、今度は身を乗り出して前簾を上げた。牛の滑らかな黒毛の背は確かに見えるが、その先にはただ木々が立ち並ぶ道が続くのみだ。馬を曳く者の姿が見えない。これ、誰か、と呼びかけても応えがない。

「お前が俺の言葉を聞いたのか?賢いやつだ」

 思わず笑んで言うが、牛は振り返りもせずただ尾の房をくるりと回すだけだ。つれない態度を笑って右手で捲り上げた前簾を戻す。いくら賢い牛と言っても自分で軛を外すことはできまい。後ろから車を降りることにした。座ったままくるりと体を回し、後簾を巻き上げる。その先もまた木々の立ち並ぶ道だけがまっすぐに続いていた。
木の陰になって漂う少し湿った空気がふわりと舞い込んでくる。吸うと、淀みがひとつも感じられない清浄さが胸を満たして、吐けば、心地良く体の力が抜けた。ここはきっと良い場所なのだ。ひと呼吸でそれを悟った。何故だかそれだけのことが嬉しく、愉快で、簾を掲げたまま呼吸を繰り返していると、突然すっと白い指が簾の端を掬い上げて止めた。ぱち、ぱち、目を瞬くとすぐに人の顔が覗いた。

「お困りですか」

 柔らかい笑み。早朝の爽やかな青空のような髪、その空に昇る日輪のようなべっ甲の瞳。随分美しい男もあるのだなと感心して眺める。すると、男がほんの少し眉尻を下げてまた笑うので、そう言えば問われていたことを思い出す。

「いや、ここはどんな涯だろうと考えていた」
「聞いてどうなさいますか」

 柔らかい声。細雪が地に触れる時もこんなに優しい音はしないだろうと思う。ただ瞳には一瞬ちらちらと、何か蜃気楼のようなものが揺らいで見えた。

「もし此岸の涯と私が答えたら、貴方はどこへ逃げてしまうんでしょう」

 男が身を屈めて車の中へ乗り出すと、柔らかい笑みに影がかかる。それでもべっ甲の瞳は尚光る。それを間近で楽しく眺めながら、笑みのまま小さく唸った。

「ううん、そうだなあ。良いところだから少し留まってみるのも悪くないかもしれんなあ」

 ぱっと、男の口元から笑みが消えたが、それでもどこか柔い印象を与えるのは顔の造りの細かいせいだろうか。きゅっと丸くなっていた瞳が熱で溶けたように細まる。

「……困った方だ」

 柔らかい笑みをまた浮かべた男は乗り出した身をゆっくりと戻した。それから白い手袋に包まれた長い指を差し出す。

「よろしければ、私がご案内申し上げる」
「やあ、これはありがたい。甘えるぞ」

 踏板から地までは少し距離があるため、差し出された手を取って飛び降りる。身を支えるように手を添えていた男には少しの危なげも見えない。

 車の中から太刀を取り、緒で腰に結いつけ己の風体を見分する。銀鼠の色をした袴に白い単。肩にはやはり白地の、しかし細かく刺繍の施された打掛がかかっている。袖口や裾、裏の八掛などには朱色の布が当てられていて、よく見るほどにめでたい着物だ。

「参りましょう。こちらへ」

 じっと動かぬ様子を不審がる様子もなく、男は一度離れた手のひらを再びするりと結びなおした。ゆっくりと歩き始めるのについて進む。牛車は、と問おうとしたところで牛も車も消え失せていることに気が付いたので、ただ黙って手を引かれていることにした。どのみち、あの狭い車に二人は乗れまい。

 少し湿った木々の気配の中を進む。時々風が吹いて男の右肩にかかる外套がふわりと浮かせた。派手な洋装だとまじまじ眺めているとふと、その外套にある紋が箱に描かれていた紋とよく似ていることに気が付いた。あの牛車はこの男のものだったのか――今度こそ問おうとしたが、それよりも先に男がくすりと小さな笑みを漏らした。

「どうした?」
「いいえ、何やら少し……緊張しております。まるで逢瀬のようで」

 振り返った顔は、少しはにかんだ愛嬌のある笑みだ。見つめているとどうでもよくなって笑みが込み上げてくる。声を立てて笑えば、男の眦も嬉しげに緩められていく。それが不思議に心地良い。

 緩やかな曲がり道をただ歩む。鳥の声ひとつしないが、青漆の大葉が風に揺れるとさやさやと音がする。あれは桐だろうか。桐は男の紋にもある。背の高い木々の先、空では男の髪色に似た晴天が広がっているものの、足元のあたりは白く滲んでいる。まるで木々に閉ざされているような道だ。
 男の横顔と時々握り直される手のひらを楽しみながら、単調な道をひたすら歩いて幾許か。男がああ、と感嘆のため息を吐き出して腕を引いた。

「美しいもんですなあ」

 木々の隙間から見えるのは花園だ。男はどんどんと道を逸れてその中に入っていく。足を踏み出すたびに草の匂いがすっと鼻を通る。小さな毬のような淡い紅紫の花が無数に白い袴の裾を飾った。白の混じるその花の色は、肩にかかる打掛と少し似て見える。

「ご覧なさい、この紅色を。こうして百日は久しく色づくらしい」

 べっ甲の瞳は、今や炉に投げ込まれたように蕩けている。大の男のくせにどこか幼いその横顔がおかしくなって隠さずに笑った。

「本当に嬉しそうな顔をする。お前は、美しいものが好きか」

 どこか照れたように、それでいて愉快げに目を細め男はええと答える。ゆっくりと振り返り、繋いでいた手を両手で柔く暖かく包み込んで笑む。

「美しく、華やかで、しかし力強く、そこにあるだけですべてに息吹を吹き込むような」

 一歩、男が近づくとまた草の匂いが立ち昇った。すぐ間近に日輪のような丸い瞳がある。

「美しさを愛しております」

 男は包み込んでいるこちらの手のひらを殊更優しい目で眺め、頭を小さく下げた。手の甲に恭しく口を付けすぐに離れていく。柔らかく熱い感触はほんの一瞬で驚く暇すらない。灯がぽっと生まれたように心地良い熱が手の甲から伝わる。繋ぐ手の力を男が弱めたので、腕をするりと引き抜いた。熱を帯びたままの手の甲が不思議で、己の唇も同じように重ねようとして――背筋をざわざわと這う気味の悪い気配が突然矢のように飛び込んできて身構えた。

 一瞬早く、庇うように前へ出ていた男の肩の向こうには、大太刀を肩にかけた巨体の男の姿が見える。瞳の無い洞穴のような眼窩の奥で怪火を揺らめかせ、大きな口を歪めて笑っているらしい。おどろおどろしい風体は恐らく鬼の類だろう。大きな足に踏みにじられた草花がたちまち色褪せて朽ちていく。

 珍しいものを見つけたものだと目を男の横顔に戻して、更に驚くことになってしまった。先ほどまでの涼しげな瞳と柔らかい笑みはどこへやら、炉の中で燃え盛る炎のように瞳が白く輝き、体中の気配を鋭く研いでいる。

「……先ほどとまるで違う。随分烈しい目をするな」

 男は敵に一糸の油断さえ見せないまま、ちらりと目だけを寄越してまた正面を睨みつけた。

「私の信じるものを、美しく頭上に輝くものを、踏みにじるものがあれば」

 じりり、男が足をにじると草花は吐息を漏らして場違いに優しい香を漂わせる。男は空手だ。腰に太刀も無い。しかし相手を威嚇するだけの「格」が姿勢や呼吸に宿っていることが窺える。

「私は決して許してはならんのです」

 今にも得物なしに敵へと飛び掛かりそうな男の腕を掴んだ。無理矢理に腰の太刀に触れさせる。それを支えに手早く下げ緒をほどいた。さすがに慌てたようで、殺気を散らして男は太刀を両手で腕の中に納めてくれた。それに満足して微笑むと、何か言いたげに男の口が開き――しかし、ここぞとばかりに生まれた隙を逃すはずもない。敵が仕掛けてくるほうが早かった。男は素早く腰を落とし重心を整え、鞘から太刀を引き抜いて跳躍した。どんな舞よりも鮮やかに敵の首を薙ぎ、返り血の花弁の中で刀を納めている。

 それを見て悟る。体が勝手にあの太刀を明け渡したのは、これを見るためだったのだろう。喜びに満ちた胸で名を呼ぼうとして、それを知らないことに初めて気が付く。知らぬはずがないのに。

 柔らかな笑みに戻った男は、頬にかかった血を手袋で軽く拭い、その手袋を乱雑に野へ捨てながら歩み寄ってくる。瞳にはまだ消し切れぬ強い光が宿って、目を逸らすことを許さない。肩が触れるほどの距離に戻って、どちらともなく再び手のひらを重ねていた。

「ああ、ほら――見ろ、あれを」

 打掛がずれぬよう気をかけながら繋いでいない左手を伸ばす。花園の只中に横たわった鬼の体から、ちらちらと青い光が明滅していた。何かと思って眺めていると、それはたちまち青い火柱となって鬼の体をたちまち朽ちさせようとしている。それだけでなく、青い炎が紅に紫にと揺らめきながら草花に燃え伝っていく。ぎゅっと、不意に手のひらが握り込まれた。痛むほど強い力だ。

「どうした」

 敵へと向かう時とはまた違う、硬い横顔だった。どこか青ざめて見えるのは炎のためか血色のためか分からない。男に引きずられるように一歩、二歩と後退して火から離れる。

「火を怖れるか」

 怖れる、その言葉に男は弾かれたように面を上げた。不思議な顔だ。悔やむような、悲しむような、途方に暮れたような、打ちひしがれたような、そのどれでもないような。迷いに迷って目を伏せ、舌の先に乗せるものを懸命に探しているように見えた。

「……分かりません、ただ……苦しい」

 ぱちり、ぱちりと火花が散る音がするのに、不思議と目鼻に煙たさはない。紅い花々の香が細い悲鳴のようにわずかに伝わるだけだ。男がまた一歩退がった。

「私の信じるもの、心で美しく輝くものは、いつもあれの向こうに消える。炎が、何もかもが……」

 男を追ってその顔を覗き込んだはずだった。しかし、曇った銅鏡のように陰る瞳とは目が合わない。それをひどく惜しく思う。これがもし永久に失われることになればきっと、誰もが惜しむだろう。だからこの男は再び――再び?また何かを掴み損ねる。だが、今はそれを追っている暇はない。

「火ならいつかは鎮まる」

 男の手から再び離れて、肩の打掛に両手で触れた。そのままひとつ、軽やかに跳躍する。打掛が垂れぬよう、ひとつ、ふたつと爪先で跳び、白い袷を時折翻しては炎と共に紅の小花を巻き込んでいく。みっつ、よっつと跳ぶうちに次第に面白くなって喉元を笑みがくすぐる。しばらくそうやって跳ね回っては炎を巻き取り、少しくたびれたなと思って足を止めると、火はすっかり消えていた。呆然とこちらを見つめる男の顔がおかしくてまた笑う。

「待てば花もまた咲くさ」

 打掛の裾を整えて、いつの間にか先ほどまで無かった紅色の小花が織り込まれていることに気が付いた。めでたいこともあるものだ。ほら見ろ、と裾を持ち上げながら男に近づく。

「ここで共に待つか?なに、春などすぐ巡る」

 男のべっ甲の瞳の中には今確かに、めでたい打掛を着た男が満面の笑みで映っている。男はまるで引き寄せられるようにふらふらとこちらへ身を寄せた。男の瞳の中にある己の顔を見て、ああ、どうやら俺は自分のことすら分からないらしい――ということに今更気が付いた。しかし最早どうでもいいことだ。男の顔がゆっくり近づく。しかし、触れるかと思うところでぴたりと動きが止まってしまった。

「……本当に、貴方は」

 砂糖を煮詰めたような柔らかい笑みが、何かを惜しむような苦い笑みに変わって離れていく。体ひとつ分離れてしまう頃には折り目正しい笑みが顔に戻っていた。殊更丁寧な手つきで太刀を持ち上げ、何かを振り切るように両手でそれを差し出す。

「お返しします。お礼申し上げる」
「いや、いいさ。持っていろ。お前に預ける」

 幼子のように丸くなる男の瞳が愉快だ。別に惜しくないとさえ思う。べっ甲の瞳が夕暮れ時の太陽のように甘さで熔けてしまうところが見られるなら。ふ、と笑みがひとつ漏れたら後は止まらず声を上げて笑う。つられたのか男も喉を鳴らして笑う。そうして唐突に、しかしまるで壊れ物でも扱うように白い打掛ごと抱きしめられた。

「貴方とならきっと、どんな毎日も愉快でしょうな」

 鼻先に小花とも違う甘い香が漂う。金木犀に似たほのかで優しい男の香は、最早不思議にも思わないくらい体に馴染んでいた。

「きっと」

 声がわずかに震えて聞こえたのは気のせいだろうか。横目に見える男の口元は笑っている。

「きっと私を選んでください。決して見失わず。百日経つとも千日経つとも――」

 これは、約束です。

 突風が顔面に吹き付けてきて思わず目を閉ざす。瞼を上げると、燃え尽きた花園も男も跡形もなく掻き消えていた。鬱蒼と立ち並ぶ木々の間に、朱色の鳥居がひとつ、こちらを見下ろしている。その向こうにはずっと石段が続いているらしい。鳥居を優しく撫でつけ、迷わずにその下をくぐった。これは約束なのだから、迷うことはない。

 したした、雨粒が軒先を滑って地に落ちる音が絶えず続く。湿った土の匂いが戸の隙間から這い上って畳に染みついているようだ。近頃は雨が続いていて、今宵で七日になるだろうか。しばらく陽光を見ていないが、少しくらい恋しい気持ちが湧いてくるかと思えばそうでもない。その理由などとうに分かっている。すぐ傍にいつでも日輪よりも美しいべっ甲の瞳があるからだ。

「もう随分長く、そうしていますな」
「うん、俺はお前が好きだ。だからいくら見ていても飽きん」

 この兄を慕う刀たちが寝静まった頃、脇息を持ち込んで何をするでもなくこの男を眺めていることが好きだ。時に書を読んだり、何かを書き付けたり、酒を共にしたり、他愛もないことを話したり、その様をただつぶさに見つめる。それだけのことがこんなにも面白いのだから、人の身というものは本当に不思議だ。

「……困った方だ」

 大抵、部屋を訪れて半刻も経たない内に一期はこうして音を上げる。貴方は恐ろしい方だと非難されたことまである。曰く、想い人に一挙一動を見つめられてどんなに心が乱れるか、知らんからそういうことをする。くす、喉元で笑うと一期も同じように笑う。指先で寝間着の裾を弄ぶと、指が絡められて巻き取られる。行燈の橙色の光と、細い雨の音がうまく世界から二口を切り離していた。

「ひとつ、聞いてください」
「うん、聞こう」
「約束を交わして頂きたいんです」

 絡めた指先はそのままに、脇息にもたれる三日月へと一期はそろりと近づいた。

「百日経つとも千日経つとも、どれだけの時を超えたとしても、その美しい刀身が折れて朽ちるまで、私をそうして好いてくださいますか」

 長い指が伸び、するりと顎の先をなぞる。心地良い感触に目を閉じると、くすくすとまた笑みが零された。

「三日月宗近」

 名を呼ばれ、目を上げた。行燈の炎にべっ甲の瞳が揺らいで光る。

「貴方を乞い願う者は、この世に星の数ほどもあるでしょう。ですが貴方が恋い慕うものは、この一期一振が唯一でありたい」

 横髪を弄ぶ指先の感触に目を再び閉ざした。それが答えだ。それをこの美しい刀が望むのなら、三日月は何もかも与えてしまって構わない。

「どうか私を見失わんでください」

 最後の石段の先にはまた鳥居があり、その先は靄に阻まれて何も見えない。しかし人の身の目では見えなくとも、その先に何があるかなどとうに分かっていた。迷いなく足を踏み出せば、よく身に馴染む気が体中を優しく包む。一晩降り続いた雨は夜明け前に止んだようだが、早朝の庭は水気で何もかもが滲んでいるように見える。空には白い雲がずっしりと敷き詰められており、青空の欠片も見える様子が無い。まだ誰も起き出していないのだろうか、仲間の気配は薄い。金気を持つ刀剣とはいえ人の身はやはり陽光がなければ精細を欠くものらしい。錆びる錆びると騒いでいた仲間たちのことを思い出し小さく笑う。まるで遠い出来事を思い返している気分だ。

 付喪神は物に付く化生だ。その本質は「物」であり、人に欲されるからこそ存在しうる。「物」が何かを選んで縁を結ぶためには、その本質を作り変えてしまう必要がある。だからこの世の涯から長い長い参進の儀を辿ってきたなどと言ったら、神気に通じる審神者はなんと危険なことをとひっくり返ってしまうだろう。誰にも知らせず、誰にも気づかせず事を進めなければならなかったが、後ろめたさはなかった。むしろ楽しんでいる。

 白くぼやけた薄墨で描かれた庭を、この日のために贈られた白い打掛を撫でたり引き寄せたりしながら進む。すると、白く筋立った大木の影、毬のような紅色の小花がぽつぽつと開き始めているのを見つけた。思わず口角に笑みが浮かぶ。

「見つけたぞ」

 身を屈め、そのうち一等背の高い花に指を添えた。丸い輪郭を楽しむように何度かなぞり、最後に口付けた。気づけば打掛ごと優しく人の両腕に抱き込まれている。目を閉じたままその首筋に擦り寄った。

「待たせたか?」
「いいえ」

 触れた胸のあたり、ほのかな温もりと共に確かな縁を感じる。同じことを感じているのだろうか、一期がくすぐったそうな笑みを零す。

「貴方が私の伴侶になるために迷っていると思えば」
「はて、迷わせる気があったようには見えなかったがなあ」
「ええ、もちろん」

 耐えられずに声を上げて笑うと、一期は三日月の好きな瞳で微笑んでみせる。そしてまた優しい手つきで三日月の手を取った。

「……これまでもこれからも、そんな気は起きんでしょう」

 竈に火が入った匂いがかすかに鼻先を掠め、囁くような仲間の声や足音が聞こえ始める。やっと「今日」が動き始めたらしい。

 きっと今日もいつもと変わらぬ一日だろう。だが誰が知らずともこの二口は、今日この日から折れて朽ちるまで、こうして手を繋いでいる。

-+=