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彼岸恋 – ひがんのこい



 一期と共寝をした朝は、いつもより少し遅くに目が覚める。心地よい熱がひとつの布団の中を温めていた。普段は夜の色の混じった鈍色の部屋の中で目を覚ますが、今は何もかもが白く滲んで見えた。正面にある横顔も白く滲んでいる。

 日輪のような瞳がまぶたで陰ると、一期の顔はたちまち幼く映る。まろく描かれた鼻筋や薄い唇は愛らしささえ感じるほどだ。目覚めればたちまち、体の奥底に沈めて研いだ意思の強さが一期を凛と飾るというのに。

「一期一振」

 低い囁きに返事はない。すう、すう、と幼子のような寝息とともに体が上下するだけだ。昨晩とのあまりの違いに笑が漏れてしまう。夜気の残る白い空気がくすくす揺れる。

「今は、同じ岸か」

 言って、その言葉のもたらすあまりの幸福に胸が詰まった。笑みが止まる。人の身は不思議だ。たったこれしきのことで御することが叶わなくなる。

「幸いだ」

 止まった息を無理やり取り戻すように言葉を吐いた。心と体が追いつき、口角が上がる。身を縮め、温もりを求めるように一期の胸元に擦り寄った。

「好きだ、一期」

 とくとくと頬を打つ音の速さは、眠る者のそれではない。くすぐられているような気になって、また喉を鳴らして笑う。三日月殿、自分のたぬき寝入りを棚に上げ、一期は恨めしげな声だ。ちらりと目を上げれば朝日の中で輝く黄金が美しい。やはり一期は目覚めている方がいい。

「危うく聞き逃すところでした」
「はは、やれ困った。また拗ねさせた」

 あまり長い時間じゃれ合っていれば、三日月の部屋から一期の姿を認める者もあるだろう。一期が懸想していることは本丸でもよく知れ渡っているが、その相手を知っている者は限られる。そしてそれを一期は手の内に秘めていたいというのだった。その幼子のような願いが可愛らしく、三日月としても否やはない。

 すっかり「吉光の長兄」の顔を整えた一期は、部屋からそっと出て行った。それでもきっと自室に戻れば朝帰りだ何だのと囃されるのだろう。一期も一人部屋を持ってはいるが、弟がいつも誰かしら泊まり込んでいる。ふふ、限りなく現実に近い想像に笑いながら布団に鼻先を擦り付けた。金木犀のような甘い香がする。すっかり馴染んだ一期の匂いだった。布団に頬を擦り付けてもう一度それを吸い込む。そしてこの匂いを嗅ぐ度に、この匂いが一期のものであると知った日のことを思い出すのだ。

「貴方の顔が、見たくて」

 大坂城の地下を探索する、という任は長期に渡った。一期は自ら志願してその部隊に参加していたが、希望がなくとも審神者はそうしただろう。吉光の短刀がどこかに残されていることが広く知れていたからだ。
しかし、弟と再会を果たした後も、一期は部隊から外れることはなかった。何を求め、何を想いあの城の跡を掘り続けることにしたのか。三日月には分かりようもない。一期も語らない。ただ長くその顔を見ていないことが色々な想像を掻き立てたことは確かだ。それが浮かび、また消える度、胸の奥に細い針が刺さるような痛みがあった。ここに居る一期一振は、この本丸に顕現した刀剣男士であって、三日月の過日に眠る付喪神とは違ったものだ。それをきちんと、思い知っていたかった。そのはずだった。

「俺もそう思って、目が覚めた」

 普段なら心の奥底で転がすようにして楽しむ感情を、この時ばかりは、抑えることができなかった。体が勝手に動いて障子をざっと押し開く。

「み、」

 突然のことに黄金色の瞳を丸くする一期の腕を掴み、部屋に引き込んでしまう。傾いた体を抱き止め、その体越しに障子を閉じた。少し身を屈め、目前の肩口に顔を伏せた。甘い香がする、と知ったのはこの時だ。

 ただの付喪神に香などあろうはずもない。それが遠い過日との違いを浮き彫りにして、余計にたまらなかった。最早三日月には己の心と、体を御する術が分からない。あたふたと身じろぐ一期の、存外に厚い体にただ縋っていた。

「このまま」

 あの、だとか、ええっと、だとか、絶え間なく上がっていた言葉にならない情けない声が止まった。それを幸いに腕の力を強めると、身じろぎすら止まる。

「少しの間、このまま」
「……はい」

 答えはいつもの男の声よりも甘く柔らかい色だった。そっと背中に手が触れ、回された腕にゆるゆると力が入る。一期一振という刀は一度焼け落ち、再刃され、刀剣男士として人の身を手に入れるに至った。過日とは何もかも違う。だが、その心根の柔らかさにきっと違いはないのだろう。

「一期」
「はい」

 どくどくと血潮の流れる音があまりにも大きい。それを慮ってのことなのか、耳元に囁くように応えが吹き込まれた。一期と三日月の間に隙間は無く、胸の音と人の身の熱だけが籠っている。

「俺を」

 言って、すぐにその先を言うべきでないことに気がついた。栓の無いことだからだ。人も物も、いつかは姿形を変え、あるいは壊れて無へと還る。そうならないことを望むことは苦しいことだ。三日月はそれをもう幾百歳も前から知っている。

「俺は、お前を……忘れない」

 外へ望むのでなく内に置いておくだけならば、そうして好きな時に取り出して眺め楽しむだけならば、何も苦しいことなどない。幼子が美しいと思うものを誰の目にも触れぬよう集めて隠してしまうようなものだ。胸の裡にある数々の記憶がきらりと光っては三日月の心を満たす。

「いいだろう?」

 もう心も体も平生変わらぬ通りに戻っていた。身じろいで、力の緩んだ一期の腕からするりと抜ける。しかし笑みを傾げて覗き込む一期の顔は、三日月とは反対に困惑で染まっていた。どこか不服そうにも見えるその顔色は、初めて見るものだった。

「それでは何も分かりません」

 硬い声は、三日月が一期の気に障ることをした証左だろう。だが一期の手は三日月の腕を掴み、離れる三日月を引き留めている。

「まるで向こう岸へいるようだ」

 腕を掴む力は強い。「もっと、こちらへ」、囁いて、今度は一期から三日月をその腕の中に閉じ込めてしまった。またどくどくと血潮がうるさく騒ぐ。二度目でやっと三日月は気がついた。やたらに大きく響くのは、その音が己の物だけでないからだ。

「此岸へ渡ってきてください」

 心の奥底に積もり、いつの間にかひとごとのように眺めていたそれが、何であるかを三日月はその日に知った。一期の甘い香とともに胸に刻まれたのだ。

「私が手を取っていますから」
「うん、このまま。ずっと」
「はい、ずっと」

 返事は、これまで聞いたこともないくらい甘い色をしていた。

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