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天国は青い (パラレル)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8143395
※ 現代パラレル、以前twitterで公開したものです。

 不思議な人の話をしたい。

 私には弟が多い。と言っても、全てが実弟というわけではない。私は粟田口宗家の長子であるから、その下に続く本家の子も分家の子も皆弟ということになる。兄は常に弟の模範であらねばならないし、弟は常に兄に対して至恭至順を心掛けねばならないのだった。
 粟田口は古い家だから、遙か昔に作られたそういうしきたりを後生大事に守りたがる。少しでもその決まり事を揺るがす者が出れば、長老衆が躍起になってその者に「不埒者」、「気狂い」の烙印を押し、身包み剥いで家から蹴り出すだろう。そんな行いが罷り通るほどには大きい家であって、時代錯誤で頑迷な人間を量産することにだけは長けた家であった。

 批判的に口火を切ってはみたものの、私は宗家正妻の長子として家じゅうの期待を集め、幼い頃からそういったしきたりと戯れて暮らしていたのだから、今更不便などは感じない。ただ、分家で自由に育ってきた弟の中には宗家を苦手とする者も多くいる。それを敏感に感じ取った本家の人間たちが、隙あらばそんな弟たちを攻撃しようとすることだけはどうにも許せない。長子が弟を率いる、というのは家が与えた役目だが、一途に私を慕ってくれる弟を守りたい、という強い想いは私自身の内から出るものだ。

 少し話が長くなってしまったか。ともかく、話は弟の一人である五虎退が剣の稽古で怪我をしたところから始まる。これは私の実弟で、私を補佐する者として家の期待も大きく、猛々しい名を付けたものが、諍い嫌いの非常に心根の柔く美しい子供だったために、哀れなほど肩身を狭くして暮らしている。しかし、何をやらせても筋がいいので、分家でうだつの上がらぬ輩を打ち負かしては、卑怯にやり返されることが度々起こるのである。一対三でひどく打ち据えられた際、手首の骨に僅かながらもひびが入り、大事を取って入院させた。事を大きくし、狼藉者への処分を重いものにする狙いもあった。

 また兄の顔に泥を塗ったと、一体誰が余計なものを吹き込んだものか。今思い返しても腹立たしい。入院初日の五虎退の顔色はひどいものだった。弟たちと共に毎日のように通い詰め、あれこれと気分転換を試みたが、花が綻ぶような笑みは、見えたと思ってもすぐに陰ってしまう。万策尽きたかと弟たちと頭を突き合わせていたところ、ある日、突然に五虎退は顔色を晴れやかなものに変えた。

 屋上の庭園で素敵な人に会ったのだと言う。五虎退の話を聞き、頷き、それでも人を憎まず己を責めるお前は立派だなあと笑ったらしい。そうして最後に、もう読み終わったからと本を一冊くれたのだそうだ。動物の生態を解説したもので、五虎退はそれを毎日のように眺めた。虎も、獅子も、幼いうちは小さく弱く、守られながら狩りを覚え強くなるのだと教わった、と言う。

 包み隠さずに言えば、私がはじめに覚えたのは嫉妬だ。自分が兄として為すべき、成したいことを、赤の他人がいとも簡単にやってのけたのだ。悔しくないわけがないだろう。しかしそれに劣らぬぐらい感謝もしていた。弟が外野が余計に与えた気負いで心を痛めているのをこれ以上見ているのはとても辛かった。それを解き放つことは、比較の先に居る私には決してできないことだっただろう。

 礼を言うつもりで、会うことにした。五虎退に手を引かれ、初めて屋上庭園に入った。上層階に入院している者とその縁者だけが入れる場所だ。当然、上層階に入院できる者は限られている。家にしろ名にしろ金にしろ、何かを余る程持つ者たちだ。

 病院の屋上が開けていると問題があるんだろう。庭園にはガラスが張られ、天空に向かってドーム状になっていた。鮮やかな緑の木々に、陽光が柔らかく降り注いで輝いている。どこかから風を取り込むのか、はたまた空調か、肌に時折当たる風はほどよく涼しい。病院であることを忘れそうな空間だった。

 美しく刈り込まれた針葉樹を背にし、その人はベンチに腰かけ本を読んでいた。俯いていると長い前髪が影を作り、顔色を青白く見せる。繊細な顔の造りがそうさせるようだった。口元には薄い笑みがある。五虎退が三日月さん、と弾んだ声で名を呼ぶと、ゆっくりとその面が上がった。男が男に対して抱く感想としてはおかしなものだが、美しい、と思った。今に至ってもその人の印象は変わっていない。美しい人だ。初めて見た時に思った、「人形のように」は次第に消え去ってしまったのだが。

 その人、その美しい人の名は三日月と言った。一日の大半をこの庭園で、厚手で紺色のカーディガンと一冊の本と共に過ごしているらしい。五虎退や他の弟と連れ立って、毎日のように庭園へ入れば、三日月は確かに毎日そこに居た。いつ何時も嫌な顔ひとつせず、何の間違いも見当たらない完璧な笑みでいる。弟のうちの誰かが「どうしていつもここに居るのか」と尋ねる答えは笑顔で「寂しいから」。どんな長患いなのかと、恐る恐る聞いた別の弟にもまた笑みを返す。

「病ではないぞ。俺は、ここに居たくて居るだけだからな」

 いつ聞いても、誰が聞いても三日月はこう答える。青みがかった針葉樹を背に、何の混じり気のない笑みを浮かべる。三日月を青く彩るその樹々がブルーヘブンという名であることを知ったのは随分後だった。

 季節が移っても、庭園の木々が寒々しく枯れることはない。三日月は毎日ブルーヘブンに囲まれて読書に勤しむ。五虎退はとっくの昔に退院していたが、私はいつの間にか弟たちの誰よりも――五虎退よりも足繁くこの庭園に通っていた。

「五虎退はどうだ。息災か」
「ええ、前よりも一層剣の稽古に励んでおります」
「うん、それはいい」
「その内賞状か賞杯か、持って見せびらかしに来るでしょう」
「うん、だが、いつかは忘れる」

 声音に感傷的な色は無かった。陽が東から昇り、西に沈む。そんな世の中の定理をなぞるような何気ない声だった。思わずまじまじと見つめた顔には、中天の三日月のように美しい弧を描く眉と唇があり、黎明の前の夜空のような藍色が柔らかく細められている。いつ見ても変わりない、美しい笑顔だった。

「一期、俺はどんな顔をしている?」
「……笑みですが」

 三日月は私の答えにきっと納得しなかったんだろう。しばらくじっと私の顔を眺めていた。それからわずかに首を傾げ、己の口角を指先そっとなぞる。

「そうか?何か、おかしかったか」

 三日月の笑顔におかしなところなど何一つない。だがそれが却って、おかしいと思う時がある。それをうまく伝える術はなかった。伝えてしまえば、何かが壊れてしまうのではと思うと恐ろしかった。

 それから、私が戸惑って三日月の顔色を窺う時、三日月は決まって何かおかしなところがあるかと尋ねた。私はそれにないと答える。実際、美しい笑みであって、私はそれを眺めていることが好きだった。三日月はよく笑う。慈しむような笑みも、伸びやかで素直な大笑いも、少し揶揄するような子供っぽい笑みも、嘘にはとても見えない。疑ったこともない。

 しかし、その他の顔を見たことがあったかと、ふと考えるようになっていた。

 冬が終わり、春へ変わろうとする時、あたたかい庭園の中で三日月はやたらと寒いと言った。カーディガンの上には乱が贈ったショールが増えている。あまりにも寒いと言うので、いつも弟が一人入って座れるほど空けている間を詰めた。本に触れている手に己の手を重ねる。氷のように冷たくなっていた。言わなければ。その時に私は何かに急き立てられていた。今、言わなければ。

「三日月」
「うん?」
「私は、病のようです。しかも、治る見込みがない」

 三日月はきょとん、と宝石のような瞳を春日に透かしながら丸めていた。私はその珍しい顔をじっと眺めながら、絶えず冷たい手のひらをさすり続けていた。滑らかだが、どこか骨ばって細い。

「恋です。これは、非常に厄介な病だと思うんです」

 いよいよ、三日月の顔には表情らしきものがなくなった。ぽかんと小さく口を開け、眉も力なく開いている。それからその、形の良い細い眉がぎゅっと寄って眉間にしわを作った。それは未だかつて見たことのないものだ。

「一期、俺はどんな顔をしている?」
「……笑み、ではないですな」

 潤んだ瞳の中で三日月がゆらゆらと揺れるように光る。五虎退に笑顔が戻ったことをあんなに嬉しく思った自分と、今の自分はまるで違ったものになってしまったかのようだ。彷徨うように私の手を弱く握り返し、私に身を寄せるその顔が嬉しかった。

 病院の庭園で本を読んで暮らす不思議な人。それが今は、すぐ隣でただ人のような顔をして苦しんでいる。それを喜ぶ私は、確かに不治の病を抱えている。

さまざまないちみか「不治の病な一期一振×笑顔以外の顔が不得意な三日月宗近」

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