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誰にか見せん、君ならで (へしみかへし)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10700900
※ 映画本丸(という設定)です。過剰な妄想だったり都合のいい解釈がなされていたりします。

 ぽん、ぽん、軽い音がして紙風船が中空に押し上げられるたび大歓声が沸き上がる。上がった数を数える者もいる。その場の誰もが笑顔だが、小さな両手を懸命に差し出す主は至って真剣だ。それがなんとも可愛らしい上、そんな挙動に一喜一憂している刀たち──自分が面映ゆく、いかにも珍妙で、長谷部は思わず笑みを漏らした。見れば誰もがそんな調子だ。和やかなこの時の流れが早くも日常に溶け込みつつある。

 主の代替わりを無事終え、本丸の空気は一気に和やかなものとなった。時間遡行軍の攻撃や工作もひとまずは小康状態と見える。先の攻撃は随分大掛かりだった。撤退に追い込んだことでそれなりの損害を与えることに成功したのだろう。遠征で遡行軍を追いかけ回していた者たちも、今度は新しい主がこの本丸の生活に馴染めるよう城内を奔走している。霊力が普通の人間に比べ並外れているとはいえ、何しろ主はまだ幼い。今のところ出陣先や遠征先は難局から離れたところに限っていた。主の成長と共に徐々に戦線に復帰せよ、というのが政府の達しらしい。

 顕現したばかりの頃のように畑仕事や鍛錬に打ち込み、その他は主の元に集って時を過ごす。概ね他の刀たちも長谷部のように過ごしているようだ。今も外に出ている刀の他はほとんど居間に集っている。昼下がり、縁側には初春の柔らかい陽光が入って明るく、温かい。薄絹をかけたような青空を笑い声が耐えず突く。冬の間、緊張状態が続いた日々が夢のようだった。すっかり気が緩んでいる、と指摘されたとて今なら誰もが甘受するだろう。長谷部もそうだ。段々軌道がぶれ始めた紙風船をはらはらと見守りながらもまた笑う。

 ふと、その時。
 間合いのきわに気配の足先が触れたのが分かった。ここで言う「間」は長谷部の知覚の境界だ。短刀などはもう少し広い間合いで敵の気配を察知するようだが、今「それ」に気付いたのは長谷部だけのようだった。もしくは、気づいていても気にしていないのだろう。当然だ、「これ」は敵ではない。だが、長谷部にとっては見過ごせる日常の気配でもないのだ。

 部屋を出るため、おもむろに立ち上がろうとした時だ。丁度そこで紙風船が主の手元を大きく離れていった。すぐ隣に座っていた倶利伽羅江が慌ててそれを掴んだが、力加減が悪かったかくしゃりと形が歪む。主は気にした風もなく紙風船が手元に戻るのを笑顔で待っている。しかし倶利伽羅江は焦燥を顔に滲ませたままおろおろと紙風船の扱いに迷っているようだった。

 そこにすっと紺青の袖が垂れ、黒い鞢に包まれた指がひしゃげた紙風船を優しく持ち上げた。春陽と同じように倶利伽羅江に笑みを降らせた男は、手の紙風船にそっと口を付ける。ふう、息を吹き込めば紙風船が元の形に戻る。そういった所作が妙に似合う男である。紙風船に何か宿るのではと思う。

「ほら、主。じじいとも遊んでくれ」

 差し出された紙風船をはにかむように受け取った主は、こくりと頷いた。部屋の中の刀たちを嬉しげに眺めた男──三日月は、そのまま倶利伽羅江の隣にすとんと座る。中腰のままになっていた長谷部はそれを合図に今度こそ立ち上がった。

 部屋を出る前には主に挨拶が必要だ。しかし主の傍には今三日月が座っている。葛藤は一瞬だったが、表情から笑みが消えたのが自分でも分かった。不思議そうに見上げてくる主の傍まで寄って膝をつく。

「主、少し失礼します」

 頭を下げ、すぐに踵を返した。背に視線を感じるが気付かないふりをして廊下に大股で歩き出す。早足で一歩、二歩。速度を落として十歩、十一歩。そこで、それなりに年月を重ねた床がきしりと鳴いた。己の足元からではない。

「……なんだ」
「なんだ、じゃないだろ」

 振り返らずとも、気負わずに済む気配で誰かは分かっていた。やはりそこには呆れ顔の日本号が待ち構えている。無視してもいいのだが、そうすると余計にやかましくなるのは経験上明白だ。

「あんまり露骨じゃねえか?」
「何が言いたい」
「とぼけるねえ……分かってるだろ。じいさんだよ」

 じろりと睨むが、今更それに怯む相手でもない。というかそもそも、この男が怯んで見せたことなど一度もない。長谷部に遅れてこの本丸に現れたくせ、この男には最初からしおらしさなど微塵もなかった。顔を合わせた頃は何度斬り捨ててやろうと思ったことか。当時、取っ組み合いにまで至った数は未遂も含めると両手の指では足りない。

 じっと静かに見下ろしてくる紫紺に、ふうと諦めのため息を吐いた。身体から力を抜いて前方へと目を戻す。

「日本号」
「おう?」
「付き合え。道場へ行く」

 返事を聞く必要がないのでさっさと歩き出す。どうせ日がな酒ばかり飲んでいるような奴だ。数歩進むと、図体に見合わぬ軽やかさで背後の気配も動く。

「ったく、的になってくださいってか?……そうはさせるかよってな」

 憎まれ口だが、鼻歌など口ずさんでいるところを見るに乗り気らしい。腐っても槍である。

 ここ最近では珍しく道場に他の刀の姿はなかった。三本先取の打ち合いを辛くも制し、長谷部は道場の外に置かれた縁台に腰を下ろした。は、と思わず吐いた息は熱いが、春の日陰にある道場は日向と違って空気が冷たい。額に首筋に伝う汗がひやりと冷えて心地良い。

「それで?ちったあ話す気になったのか?」

 あそこでああしてりゃ、こうしてりゃとぶつぶつ呟いていた日本号も道場の外へと顔を出した。戸口の段差にどかりと尻をつけ、懲りずに酒壺を傾けて喉仏を晒している。最早小言を言う気も起きない程見慣れた光景だ。

「ならん」
「おいおい」

 酒壺が手元へ、批難するような目が長谷部へと戻ってきた。それを軽く躱して首にかけた手ぬぐいで汗を拭う。薄い布一枚で防げるような視線ではなかったが。しかし正三位だか何だか知らないが相変わらず横柄な男である。刃を交えれば話す、などと言った覚えは一切ない。

「……何と言えばいいか分からん」

 言って、再び口元を引き結ぶ。声に出してみると呆れるほど情けなく響く言葉だった。そんなものを吐き出した自分はまるで腑抜けのようではないか。不愉快になって立ち上がると、日本号もそれを追って立ち上がった。木槍の柄をひょいと持ち上げ、おもむろに脇腹を小突かれる。

「うい」
「なんだ」
「ういうい」
「やめろ」

 睨むが、やはり怯まずにやにやとした嫌な笑みを返される。これだからこの男と長話はしたくないのだ。打ち合うくらいでちょうどいい。木槍を叩き落として足早に自室へ向かう。

「かわいいねえ~へし切ちゃんはぁ」
「その名で呼ぶな!長谷部だ!」

 自分が常ならぬ態度を取っており、それを少しも取り繕えていないことは自覚している。

 誰もいない北側の薄暗い縁側。服の裾を払い、ひやりと冷えた床に腰を下ろし、長谷部は深いため息を吐き出した。とにかく一振ひとりになりたかった。あれから日本号は何も言ってこない。だがあのにやついた顔で見つめられる度に居心地が悪くなるのだ。物言いたげな他の刀たちの視線も日に日に煩わしく感じてくる。

 三日月宗近を避けている。間合いに気配が入れば、姿を見る前に必ず踵を返した。名が出れば口を閉ざし、他の話に変わるのをじっと待つ。遠征や出陣の部隊に組まれれば無論否やも何もないが、幸い代替わり以降その機会はない。この現状を考慮されている可能性もあるだろう。分かっている。これが、稚気満々たる行いであることは。

 しかし頭で分かっていても、「心」はそう簡単には動かないものなのだ。かつて主が──その「心」をこの本丸に呼び覚ました前の主が長谷部にそれを教えた。だから日本号と衝突し行軍にまで支障を来した時ですら、あの方は長谷部を咎めなかった。「心」は誰しもが持っていて、だがそれぞれに違うものだからうまくいかないことはよく起こる。

「主」

 思わず呟いた長谷部に、記憶の中の主が答える。相手がどんな「心」を持っているか、見てみることができればいいのだが。難しいものだ。

 そう言って主は長谷部と日本号に優しく笑いかけた。そういう方だった。采配は振るうが、「心」の在りようまでは求めない。刀たちを信頼し、全てをそれぞれの刀の胸の内に委ねていた。日本号と話そうと思ったのはあの言葉があったからだ。だが、今は。あの時とは違う。

 気配がする。近くはない。だがまっすぐ、遮蔽するものが何もない先に。思わず反射で顔を上げてしまった。主に手を引かれ、庭池の傍まで出て来た男がふと振り返る。春陽に照らされて艶やかに光る宵闇色の髪、金糸の飾り紐。黎明の空のような青みがかった瞳。明らかに長谷部を認めている。思わず肩と手に力が入った。強張る表情に気付いたかどうか、男はいつものように薄い唇で弧を描いて微笑む。

 体中の血がざわりと不穏に動いた。思わず身じろぐ。分からないのだ。自分が、「心」が、どんな形をしているのか長谷部にも分からない。だからそれを教えてやることもできない。ただ体だけが情けなく逃げを打つ。逃げなければどうなる。何かが変わるのか。それを「心」は恐れているのか?助言を乞うにもあの主はここにはもう居ない。

 三日月は笑みのまましゃがみ込み、長谷部を指さして主へ何事か語りかけている。思わず眉根が寄るが、ひとつ頷いた主が駆け寄ってくるので表情を正す。主を見送って背を見せた三日月にどっと体の力が抜けた。主が縁側へ辿り着く頃には笑みを浮かべられるようになっていた。

「どうしました、主」

 主の前で膝を付き目線を合わせる。すると満面の笑みで両手が差し伸べられたので思わずふっと笑みが漏れた。

「分かりました。主の思うままに」

 空いた主の両脇を取って抱き上げてやると、小さな指が庭の奥を示す。腰を捻って体をそちらへと向けた。

「主?こちら……ですか?」

 頷きひとつ。分かりましたと笑みを返しゆっくりと歩み出す。北側の庭は陽当たりが悪い。木々が並んでいるが、他の方角と比べるとまだ寒々しい色をしている。主が身を乗り出した木の前まで歩み寄ると、丁度主の目の高さにある枝に蕾が付いていた。

「梅の蕾ですね」

 組み紐の結び目のような紅の玉が点々と木の枝に結ばれている。それを主は触れるか触れないかの優しい手つきで撫でた。顔色にはどこか憂いがあるように見える。他の刀と散歩中にでも見つけたのだろう、どうやら前から気にかけていたらしい。

「心配せずとも、もうすぐに咲きますよ」

 笑いかけると、主はまた笑みに戻って頷いた。

「主、皆、ありがとう。少し話がしたくてな」

 主の御許に集められたのはこの本丸の全刀剣だ。御簾は上がっており、上段の間から主がにこにこと刀剣たちを見守っている。その框の手前に座る三日月の声はいつも通りのんびりと間延びしたものだが、不思議とよく通る。長谷部は日本号の隣、中ほどの列で主だけを見つめてそれを聞いていた。

「近侍のことだ。予てより考えていたが……俺は近侍を降りることにした」

 ざわ、部屋の空気が揺れる。日本号が隣で何かを話しかけたそうに身じろいでいるが、声を出すのは憚られるらしい。目線だけが忙しなく前と長谷部とを往復しているのが横目に分かる。長谷部も思わず三日月に目を向けていた。しかしそこにあるのはいつもの微笑みだけだ。

「せっかく新しい主がおわしたのだ。持ち回りで様子を見てはどうか、と考えている」

 ざわざわ、ざわめきが大きくなるが、驚きの中に喜びや好奇の声が混じっている。それを嬉しそうに聞きながら、三日月はうんうんと深く頷いた。そして手のひらを開き、前列に座る山姥切と鶯丸を示す。

「主はもちろんだが、初期刀の山姥切、留守居の鶯丸にももう話してある」

 鶯丸が後方の刀たちを振り返り笑みで頷いてみせる。顔は見えないが、山姥切の背にも特に動じる様子はない。最初こそ驚きはしたものの、他の刀たちもこの発表を好意的に受け止めているようだ。当たり前だ。主の腰元で、懐で、最も近くで働きたいと思うのは刀剣男士の本能のようなものだろう。長谷部とて、何度三日月の座る場所を羨んだか知れない。しかし今、長谷部はどうしてかその言葉を容易に受け止めることができないのだ。喜びよりも衝撃が遙かに勝っている。まるで後頭部に大岩でもぶつけられたかのようだった。三日月はざわつく刀剣たちを慈しむように見つめている。また目が合った。

「どうだ?他の者で何か──」
「異論がある」

 ざわりとまた血が体の中で巡る感覚がする。対照的に、長谷部の声に部屋はしんと静まり返った。ぎょっと目を剥く日本号の肘が腕にぶつけられる。

「おい、長谷部」
「いや、いい。どうした、長谷部」

 こんな時でも三日月の笑みは少しも揺らがなかった。日本号をなだめるように手を上下させ、長谷部に目を合わせて小首を傾げている。怒りとも違う、だがよく似た感情に突き動かされ、これまで避けていたのが嘘のようにその目を睨み返した。

「主はこの本丸にまだ馴染んでおられない。近侍がころころと変わるのは好ましくない」
「うん……そうか。そうかもしれんな。ではどうするか……」
「三日月宗近」

 思案するように目を伏せ、顎に指を当てる三日月ののんびりとした所作に苛立ちが募る。いつもこうなのだ。本心か、煙に巻いているのかよく分からない。「心」が見えない。

「お前が近侍に留まるべきだと言っている」

 ふ、と三日月の表情から笑みが消えた。目を丸め、言葉を発することすらなく長谷部を見つめている。どうやら驚いているらしい。よほど意外の言葉だったと見える。よく見れば周囲も同じような思いを持って長谷部の言葉を聞いたらしく、丸められた目がいくつもこちらを向いていて困惑する。

「俺としては」

 時が止まったかのような沈黙に割り入ったのは山姥切の落ち着いた声音だ。畳に拳を付いてするりと後方へと体を向けた。

「どちらでも異存はない。後はそこで決めたらいい」
「そうだな。俺も山姥切に賛成だ。二振ふたりで話してから、主と決めたらいいんじゃないか?他の者はどうだ?」

 隣の鶯丸も笑みを後方へ向けぐるりと部屋を見渡す。誰も声を上げない。長谷部はそこでやっと、自分の首を自分で絞めたことに気が付いた。

 喩えるなら、斬首でも待つかのような心地である。重いため息を何度吐き出したことだろうか。手持無沙汰に開いていた日誌を開いたり、意味もなく捲ったり、また閉じたりを繰り返し、そんな自分に呆れてまたため息。そこでふと、あの気配が間合いに入ったことに気が付いた。ゆったりとした静かな足音。近づくことを敢えて知らせている、と思った。

「来たぞ」
「……入れ」

 すっと襖が開き、いつもの笑みが覗く。さてどこで話すかとなった時、長谷部は迷わずに自室を指定した。誰が来るとも分からぬ広間では落ち着かないが、敵陣にのこのこと足を踏み入れる気にもならない。避けられぬ戦なら、地の利に頼りたい。

「見ろ」

 長谷部とは違い、気負いなく部屋に入って来た三日月は嬉しげに手の盆を突き出した。湯気の立つ湯呑ふたつの隣に鎮座するのは焼餅だ。中に餡が入っているらしく焦げ目の向こうにうっすらと黒が透けている。香ばしい匂いが鼻先に立つ。焼きたてらしい。

「長くなるかもしれないと、歌仙が分けてくれたぞ」
「そうか」

 座卓などといった気の利いたものは長谷部の部屋には無い。盆を受け取って文机に置くと、三日月は後ろ手に戸を閉じた。文机の傍にすとんと腰を落とした時、払われた裾が擦れ、武具がちゃりりと小さく鳴った。

 一度は黎明の空のような透き通った藍の瞳と目を合わせた。しかしすぐに目を伏せて視線を逸らしてしまう。開け放した障子の向こうだけが明るく、鳥たちが陽気に歌う声がする。東向きの長谷部の部屋は、昼下がりには早くも少し暗くなる。この部屋の静かなところを普段は気に入っているのだが、今の静寂は居心地が悪い。ずず、茶を啜る音がした。三日月は相変わらず呑気なもので、話を早く済ませてしまおうなどという気は無いらしい。

「俺も日本号が」

 言葉に迷って、ついには無理やりに話を引っ張り出してしまった。文机の下から引き出したのは酒壺だ。目を上げると、湯飲みを手にする三日月がきょとんとそれを見つめている。

「断ったが、押し付けられた。腹を割るならこれが一番だと」

 続く静寂の中、まるで何か言い訳でもしている気分だ。日本号め。心の中で悪態をつく。分かっている、ただの八つ当たりだ。

「……飲むか?」
「飲むわけあるか!」

 思わず語気を荒げて睨んでしまったが、三日月は気分を害することもなく、はっはっはと声高く愉快そうに笑った。その間延びした響きに何だか肩の力が抜けた。はあ、と息を吐くと、三日月も手の湯飲みを文机に戻した。

「そうか。長谷部は俺と、腹を割って話したいか」

 裏は無いのだろう。今ならそれだけは分かる。これはこういう男なのだ。だがやはり気に食わない聞き方だと思った。眉根を寄せ、口をへの字口に引き結んでから懐紙に包まれた焼餅に手をつける。大口でかじると甘みがあたたかく口内に広がった。言葉を探しながらゆっくりとそれを咀嚼し、ついに飲み込んだ。

「……他意はない」
「うん?」
「俺は主のためを思って言っただけだ」

 齧った餅を皿に置き、まっすぐに三日月を見据える。三日月もほのかな笑みで長谷部を正面から見ていた。

「分かっている。俺だけでなく、他の者も分かっているさ」
「不慣れな主を不案内な刀がお助けできるはずもない。お前なら経験だけはあるんだ。わざわざ今変えなくてもいいだろう」
「うん、うん。そうだな」

 長谷部の話を聞こうとしているのは分かるが、たまにまるで利かん坊の相手でもしているように扱われていると感じることがある。それがひどくもどかしいのだ。きちんと長谷部の言うべきことが伝わっているのか、届いているのか分からない。

「俺はお前が気に食わなかった」

 三日月の柔らかい笑みの上で、形の良い細い片眉が困ったように下がる。しかし話を止める気はない。

「主を独占するのも気に食わないが、年寄風を吹かせて何もかも知ったように話すのも気に入らなかった」
「ははは、そうかそうか。いやこれは。すまんな。気を付けよう」
「だが、お前は俺より遙かに、この本丸のことを考えていた。主と同じように、俺たちも守ろうとしていたんだ」

 信長公のことや、主の代替わりのこと、それら全てが明らかになった時、長谷部はひどく強い後悔を感じた。長谷部は主のためを思い、主のためだけに身命を賭して働いている。しかしいつからか、この本丸での生活にも愛着を感じるようになっていた。ここが失われたら、きっと何もかも忘れてしまいたくなるほど辛い思いをすることを理解していた。だからこそ何も気づけなかった自分を悔いた。もっと注意深く見ていれば、予兆を知ることができたのではないか?三日月宗近という男が背の向こうに隠しているものを見透かすことができたのではないか。

「どちらにしても、俺には到底理解できない、全く別のものだと思った」

 戦でも変わらぬ呑気者で、主に重宝されているくせ、どれほど主に忠義を尽くしているかも分からない狸じじい。
 主やその刀たちを丸ごと愛し慈しみ、そのためなら命を擲つことも厭わない本丸そのものの具現のような近侍。

 どちらがこの男の本質であれ、長谷部からは遠い。遠いのであれば自分の世界の外のこととして素知らぬふりができる。あるいは己とは全く違うものとして素直に感心できたかもしれない。

「だが、あの時、俺はお前に触れた」

 白い手袋に包まれた両手を見下ろした。そこにはまだあの日の感覚が残っている。あの日、三日月の肩を支えた感触が。

「重かった。軽くもあった。熱もあった。血の匂いもした。それが……それが、離れない」

 三日月が近侍を降り、長谷部と何も変わらない太刀となる。そうなった時に、長谷部は三日月の「形」をどう捉えればいいのか分からない。それを知っても構わない状況に血が騒ぐのが恐ろしい。

「三日月」

 途方に暮れた目で名を呼んだ。三日月は笑みもなく、長谷部をただ見つめ返していて返事をしない。それでも長谷部は再びその名を呼んだ。三日月。

「触れてもいいか」

 三日月の口が小さく開いて、何かを言いかけたようだが音は出なかった。長谷部をただ見つめている。長谷部もただ三日月の目をじっと見つめ、待つ。しばしの沈黙を挟んで、神妙な顔で三日月はひとつ頷いた。

「……分かった」

 返事を聞いて、戦に臨むような気持になった。息を吸い、膝をにじって三日月に少し近づく。そろそろと両手を伸ばし、両肩に手を置いた。紺青の着物がさらりと指の先で滑る。厚みのある肩を掴み、それをゆっくりとずらして二の腕へ、肘へ、手首へと下ろしていく。最後に皮の鞢に包まれた両の手を掴んだ。硬い手甲の下に柔らかい感触がある。やはりそこにある。それにどうしようもない気持ちになって身を乗り出した。胸元に防具の固い感触があり、首筋に飾り紐が触れた。

「あるのか、お前も。ここに」

 抱きすくめられた三日月は、身じろぐこともせずしばらく黙っていて、最後にひとつ、うん、とだけ返した。

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