文字数: 14,745

誰にか見せん、君ならで (へしみかへし)



 ホーホケキョ、鴬が美しい声を響かせる。今日も空は青く、薄紗のような朝の春霞に滲んでいる。春は天候が変わりやすいものだが、ここのところは晴れ続きだ。春暖の二文字がよく似合う。細い雲が流れているのをぼうっと見上げる。

「……長くは、ならなかったな」
「何がだ?」

 そこではたと一振でなかったことを思い出す。隣を見やれば、鶯丸の愉快げな笑み。瞳の翡翠を砕いて糸に仕立てたような髪が春陽に透けて光る。

「お前は春がよく似合うな」
「ああ、よく言われる」

 ふふ、と笑い合って茶を啜る。鶯丸とは言わば「茶飲み友達」だ。近侍と留守居役が板についてきた頃から、しばしばこうして並んで茶を飲んでは本丸についてあれこれと取り留めもなく話すのがすっかり「ならい」になっている。

「最近、その調子だな」
「気が抜けたのかもしれんな。このところ、随分慌ただしかった」
「そうだな」

 皿の上の団子を手に取り、鶯丸はその皿を三日月のほうへ押し出す。有難く一本つまみ上げたところで鶯丸は続けた。

「そうとも、言える」

 互いに団子皿に体を傾けているので、鶯丸の笑みが近くなっている。付き合いはそれなりに長く、よく気の付く男だ。やはりこの男の前で隠し立てなどする気は起きない。

「長谷部か」
「まあ、そうだ」

 三日月が素直に頷いたからだろう、鶯丸は身を引いて団子に戻った。薄紅の団子がひとつ、その口の中に消えていく。三日月もそれに続いた。控えめな甘さが口の中に広がる。

「正直、俺も驚いた。文句を言うくらいは想像していたが」
「主のためだと言っていた」
「なるほど。成長したな、長谷部も」
「うん」
「それで、近侍はどうなったんだ?」

 しばらく三日月を抱きしめた長谷部は、無言で三日月を解放した。その後、特に交わす言葉もなく、二振して焼餅を黙って食い、黙って茶を啜り、そのまま部屋を出ることになってしまった。つまり、結論どころか話し合いにさえなっていない。

「……分からん」
「そうか」

 何とも言えない思いをそのまま吐露したが、鶯丸の返事は軽いものだった。それを意外に思っていると、ちらりと柔らかい笑みがこちらに向く。

「まあ、焦る必要はないんじゃないか?今は出陣も少ないからな」

 いつの間にか団子の消えた串をぱたりと皿に置き、再び湯呑を取って茶を啜る。はあ、鶯丸の漏らすため息には春が潜むような華やぎがある。

「のんびり主を待とう。茶でも飲んでな」
「そうだな。そうするとしよう」

 また笑みを交わし、三日月も団子を口にした。

 誰もいない縁側に座ったのは一振になるためだ。あの日ここに座った長谷部も同じことを考えていたのだろうか。

 顎に指を当て思案する。ざっと強い風が吹いた。今日も暖かい春陽だが少し風がある。あの日の長谷部もこの春風のようだった。春陽の中に突然流れ、髪を吹き上げ裾を翻し頬を叩く。あの日の唐突な言葉を、手を、腕を今日も思い返している。

 守るべき歴史には、少なくともそれぞれが信じている正しい「形」がある。それが人によって、物によって、違うところにあるだけだ。だが主――「心」をこの本丸へと呼び覚ました前の主は三日月に言った。明日という歴史も守ってほしいと。なすべきことはまだある、と。明日という歴史の正しさを知る者はない。未来の己しか知りようのないものだ。

「主」

 いい主だった。戦には不向きなほど清廉で、優しい男だった。相手の尊厳を踏み荒らすことを何より嫌がった。そんな主に柄を取られた三日月の「心」は、その影響を大いに受けた。その意を汲んでやりたいといつも思っていた。だからあの時、三日月はこの本丸を去る主の最後の願いを第一に考えていた。代替わりのために折れることを、自然なこととして受け入れていたのだ。

 ここにあるのか、と長谷部は呟いた。その時初めて、自分がここにあることを知ったような気がした。

「主、どちらへ?ああ、またあれを──」

 ぱたぱたと小さく愛らしい足音を追いかける声は柔らかい。縁側の向こうに現れた笑顔の審神者の後ろに、まさしく今思い描いていた刀の姿があった。優しく愉快そうな笑みが、三日月を認めた瞬間にすっと消える。そうすると怜悧な印象が強い。ざっとまた風が吹き、男の前髪をばらばらと揺らし、長い服の裾を舞い広げた。

 立ち居振舞いに戦姿、その全てが苛烈な男だ。素直な男だとも思う。下手なごまかしを許さず、白刃を見せろと藤色の目が語る。笑むと、体を翻して縁側の向こうに消えてしまった。

「おやおや、主」

 長谷部に気を取られている内に、主は三日月の背まで無事に到達したようだった。日陰に冷やされた縁側では主の体は湯たんぽのように暖かく感じる。くすりと一つ笑って背負いあげてやる。

「主はじじいの背中がお気に入りか?」

 はにかむような笑みで、小さな手が首に回った。きゅっと巻き付く思いのほか強い力が愛しい。

「これは光栄だ。はっはっは……」

 あやすように体を上下に揺らしてやりながら、庭先へと足を踏みだす。主が首元から顔を突き出して指を伸ばすので、そちらへ体を向けた。

「うん?あちらか?ああ、あれだな。相分かった」

 指の先には梅の木々がある。以前共に散歩をしている時に見つけたものだ。日当たりが悪く開花の遅いこのあたりの木々を気にしていたことをすぐに思い返す。この主もやはり心根が優しい。それを嬉しく思いながらゆったりと庭を行く。

「おや、これは。もう咲いていたか」

 主の首元のあたりにある枝についた蕾がいつの間にか開いている。他の蕾も開き始めていて、五分咲きといったところだろうか。日当りの良い場所に比べるとのんびりしているかもしれないが、その内に満開になるだろう。

「良かったな、主」

 微笑みかけると、主はもう枝を見ていなかった。三日月の顔を嬉しげに眺めている。それに気づいて少し驚いてしまった。

「……主はこんなにも小さく軽いのに、よくぞものを知っているなあ」

 はっはっは、と体を揺らして笑えば、主も楽しそうに声を上げて笑った。

「突然悪いな」
「いや」

 畑仕事を終えたところを呼び止め、そのまま連れ立って長谷部の部屋に向かったのだ。文句は出ないが、長谷部の口元はむっすりと引き結ばれている。内番着はところどころ汚れ、春の土の匂いがした。好きな匂いだが、長谷部としては早くいつもの装いに戻りたいのだろう。どこか苛立った様子でそれで、と切り出している。

「やはり俺は、近侍を降りるぞ」

 皺の寄った眉根が開くと、存外幼い顔に見えた。東側の薄暗い部屋の中、藤色の瞳に影が下りて濃い色に染まっている。今度こそ何か文句が出るかと思ったが、返る言葉がないので話を続ける。

「もっと他の刀のことを知りたくなった。今までそうしてこなかった気がしてな」

 これが守るべき明日へどう繋がっていくかは分からない。だが、この本丸の刀や自分について、今までとは少し違った見方をしてみたいと思う。

「……分かった」

 しばらく三日月をただ見つめていた長谷部は、しかし何も言わずに了承だけを寄越す。この男の性根にも主がいることは三日月も前から知っていた。礼を言うぞと答えたが、それについては鼻息ひとつだけが返された。

「話は終わりか?」
「いや、まだある」

 三日月を部屋から追い出すつもりだったのだろう。中腰の長谷部は怪訝そうな表情で三日月を見下ろしている。三日月が笑みのまま動かないでいると、渋々と言った様子で腰を戻して跪坐になった。三日月の話次第ではすぐに立ち上がってしまいそうな雰囲気だ。それがなんだかこの男らしく、思わず笑みを漏らしてしまった。機嫌を損ねた長谷部の眉根がまた寄る。畳に拳をつき、楽座のまま長谷部に近づいてその表情を見上げた。

「まずは長谷部、お前を知りたい」

 長谷部がしかめ面をややのけ反らせて後退した。信じられないものでも見るような嫌そうな表情だ。同じ部隊に組まれたことは数知れないが、少なくとも戦場でこのように後退したところを見たことはない。

「よく見せてくれないか」

 また中腰に戻ろうとする長谷部の手を取り、その場に推し留めた。白い額に勝気に吊り上がる眉。鈍く光る鐵のような髪と怜悧に通った鼻筋。それを間近でまじまじと眺める。何とも言えない表情で固まっていた長谷部は、とうとう、はっと息を吐いた。息を止めていたらしい。

「もういいだろう!」
「いや、もうひとつ分からん」
「三日月!」
「あれも」

 指の先には刀掛け。金霰鮫の鞘に紅の柄巻と下げ緒。目を引く華やかな拵えは間違いなく打刀へし切長谷部だ。

「見せてくれ」

 長谷部をその場に留めるために取ったままの腕を、幼子がするように軽く引いて揺らしてみる。しかし長谷部のしかめ面は変わらない。嫌だと言われたら、無論引き下がるつもりだ。刀の矜持はそれぞれ違う。それを踏み荒らす気は無い。しかし長谷部が何も答えないので、三日月も諦める時機が分からないでいる。何故だかどうしても気になった。この男の突き付ける白刃が。

 はあ、これみよがしな勢いのあるため息ひとつ、長谷部はとうとう立ち上がって三日月の腕を振り切った。そしてのしのしと大股で刀掛けへと歩み寄り、無造作に刀を取る。そしてざらりと鞘を滑らして躊躇いなく三日月の鼻先にその切っ先を突きつけた。言葉は無いが、これでどうだ、と目が語る。

 突き付けられた刀身をじっと眺めた。なるほどと思う。春風に巻き上がる桜吹雪、大岩にぶつかる白波、苛烈なこの男そのもののような刃紋だ。それを見つけたことがなんだか嬉しく愉快で、ほうと息を吐く。刀がぴくりと少し揺れた。刀越しに見上げた顔は、もう不機嫌そうな顔をしていない。不思議な表情だった。「どうしていいか分からない」とでも言いたげな。

 三日月の目に気付いた長谷部は、慌てた様子で刀を鞘に納めてしまった。耳がやたら赤い。

「待て、まだ見たい」

 腕を伸ばし床に垂れる下げ緒を掴むと、長谷部はまたびくりと体を震わせて後退した。そしてそんな自分に戸惑うように左右へ目を泳がせ、勢いよく身を翻して三日月の手から逃れる。

「閉館時間だ!」

 ばたばたと大きな足音を立てて長谷部が廊下へ出て行く。襖の開いた部屋に残された三日月は、しばし呆然とし、それから大いに声を上げて笑った。

 ホーホケキョ、鶯が暖かい春を歓迎するように鳴く。北側の庭の梅も今や満開で、主の心配もどこ吹く風だ。時折、薄紅の花びらがひらひらと視界を流れていく。相変わらず日当たりは良くないが、昼下がりともなれば春陽が十分に温めた空気が流れて心地よい。

「三日月」

 振り返れば、縁側の向こうから歩いて来るのは小さな盆を手にした骨喰だ。主が替わって以降、連れ立って手合せや内番をこなしたり、茶を飲んだりということが増えた。たまに骨喰にくっついてくる鯰尾が理由を問うたところによると、「落ち着く」とのことだ。昔のよしみが蘇ったようで殊の外嬉しく思う。

「茶をもらった」
「おお、これはいいな。実は俺も主に貰い物をしてな」

 三日月の隣に盆を置き、腰かけた骨喰に懐に入れていた包みを見せる。包みを広げ、そこに詰め込まれた白亜色の小さな玉を披露した。

「……丸い」
「たまごぼうろ、というらしい。これがな、なかなか美味い」

 取ってみろ、と包みを差し出してやると、骨喰はそろそろとそれを摘まみ上げた。掴んでみれば分かるが、どうにも脆く壊れやすそうな感触なのだ。あの主がくれた菓子らしいなと思う。

「……甘い」
「うんうん、よきかなよきかな」

 表情はあまり変わらないが、紫水晶のような丸い瞳が輝きを増す。その可愛らしい変化に思わず笑みが深まった。

「おや、主。長谷部」

 縁側の向こうから主がひょこりと顔を出し、その後ろからへの字口の長谷部が顔を出す。いかにも不機嫌そうな様子ながら、以前のように踵を返すつもりは無いらしい。歩幅の小さな主に合わせてゆっくりと近づいて来る。骨喰の隣にちょこんと座った主に微笑みかけて目を上げた。

「今日はもう開館しているか?」

 長谷場はへの字口を少し開いて何か言おうとしたようだが、不本意そうなため息を吐き出して、最後にその表情を呆れたような笑みに変える。

「展示期間外だ」

 言って、三日月の肩に手を置き、腕を伸ばしてたまごぼうろを一粒摘まみ上げた。そうして何事も無かったように、主の茶も取ってきます、と律儀に一礼する。そのまますたすたと歩き去って行ってしまった。

「何の話だ?」

 長谷部の一挙一動を不思議そうに目で追っていた骨喰が首を傾げている。その脇から主の楽しそうな笑みが覗く。

「実はな、骨喰」

 話し始めようとして、一体何から、どうやってこの「形」を言葉にすればいいのか分からなかった。きっとそれを知るのはあの場に居た三日月と長谷部のみだろう。

「俺にもよく分からん」

 ふっふ、と沸き上がる面映ゆいような気持ちに笑みが漏れた。不思議そうな、だが優しい色をした骨喰の瞳の中で、三日月は主がよくするようなはにかみ笑いを浮かべていた。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。