蘭亭序
格子の向こうに広がる毛藍の空には、三日月が白い光を落とす。硯の上に艶やかに浮かぶ黎黒の海の上には、檠の赫い火が踊る。どこの氏のものとも知れない霊廟は、長く訪れる者も無かったか、静かでうら寂れていた。風が一つ吹けば、ひゅうと高い音がして戸が騒ぐ。二つの黒い影が赫い部屋の中で揺らいだ。
肌を炎の色で染めた男は、細い筆を墨で濡らし硯の角で穂先を整えた。虫が食い、雨風が腐らせて穴だらけの地板に広げられた宣紙は、黄花を飾った生娘のように頼りない。丸く身を縮めるその姿を愛撫するように優しく撫でつけ、男は躊躇うことなく筆を走らせた。艶めかしく墨が疾り、見る間に書が契られていく。毎夜眺めても飽き足らぬ光景だった。
「一期は、本当に美しいなあ」
思わず下手な詠嘆を零すと、男はきょとんと顔を上げた。それから丁寧な所作で筆を硯にかけて苦笑を浮かべる。
「美しい方にそのようにお褒め頂くのは、妙な心地ですな」
困ってはいるようだが、気を悪くした様子はない。澄澄とした金黄色の瞳を柔らかく細めて笑う。男は氏を粟田口、名を吉光、字を一期といった。飾り気のない直裾袍と、動きやすいよう下衣に編み上げ靴を身に着けている。軽装だが、どこか隠しきれぬ気品がこの男を飾り立てていた。
「いや、この千年の内で最も美しいぞ」
「貴方がそう言うなら、そうかもしれませんな」
口ではそう言いながら、全く取り合わぬ様子で一期は再び筆を命る。その身を以て皇帝の証を立てる玉璽の言葉を、こうまで幼子の戯言のように親しげに軽んじるのも一期が始めてだ。思わず声を上げて笑う。やはり一期はこの千年の主たちの誰とも違い、誰よりも美しい。
「つれない奴だ」
「あまり急かされますな。すぐに片づけましょう」
男はすらすらと書を進める。その身に宿る粟田口氏の史と譜を、毎夜少しずつ書き記す。それを阻むことができたためしは一夜もない。詩作にしては率意に過ぎ、手慰みにしては心霊が傾き過ぎている。その姿は何かに必死で縋る様に似ている。
「ふむ…では、俺は少し夜風に当たるか」
刀を取って腰を上げ、立ち上がろうとした。しかし、一期はすぐに筆を置き、それよりも早く身を起こす。纏めてある荷から大衣を取り上げると、頭からそれを被せてくる。
「…三日月殿、あまりからかわんでください」
「そんなつもりは無かったが」
「貴方こそ、万人の目を引くことをお忘れなきよう」
三日月から刀を奪う力は強いが、表情は飽くまで柔和な笑みだ。夜風には私が当たります、と戸の向こうへ跳び出してしまった。夜風に炎が強く揺れる。夜盗か、追手か。どちらにせよ一期の及ばぬ相手ではない。大衣に染みつく匂いに目を瞑る。
千年の昔、三日月は皇帝の威風を世に知らしめる生きる玉璽のひとつとされた。その後国が亡び、いくつかの国を渡り、粟田口氏の小国へ腰を下ろした。賢君は多かったが、欲のある王はおらず、玉璽たる三日月を元に世に号令ををかけようなどと目論む者はついぞ出なかった。だからこそ千年の内長くを粟田口の元で過ごしたのかもしれない。
一期はその粟田口氏の太子だ。知略に優れ、英勇果敢、臣下のみならず領民にも慕われ、稀代の賢君となるはずだった。
「君よ」
燃え盛る城市の前に膝を折り、一期は動かなくなってしまった。いつもの柔らかい笑顔も、堅苦しい物言いもそこにはない。感情らしい感情がそこには無かった。怒りや悲しみすらなく、絶望だけが一期の心を殺していた。それが三日月には分かった。生まれ落ちた瞬間から一期を見ていたのだから、手に取るよりも容易に。
「君よ、俺を恨め」
三日月も一期の隣に膝をついた。一期の両腕を掴み、無理やりに顔を上げさせる。
小国でありながら交通の要衝にある粟田口を狙う者は古来より絶えない。しかし、こうまで大きな力が根こそぎ舐め取ろうとしたことはない。恐らく、敵国が欲していたのは皇帝の玉璽だ。王もそれを分かっていて一期に三日月を城の外へ連れ出させたのだろう。
「全ては俺だ。俺を恨め」
そうでなければ壊れる。そして三日月はそうさせたくないと願っている。それは、粟田口への恩義からくるものではなかった。一期だからそう考えている。そのことに三日月はその時初めて気づいていた。
「俺は死ねないからな。生涯恨めばいい」
呆然と、まるで迷い子のように三日月を見上げていた一期は、ぐっと眉根を寄せた。一番上の弟が生まれてからは久しく見せていない激しい感情の乱れだった。う、あ、と言葉にならない言葉が血のように吐き出され、繋がり、ついには叫びのような嗚咽になる。
「でき、ません…!できる、わけがない…できるわけが…っ!できない…!」
「君、」
一期は三日月の両手を振り払ったが、すぐに縋るように三日月の両腕を掴んだ。いつもは涼しげに細められる金黄色の瞳が、炎に煽られながら赫い涙を零している。
「こんなに、愛しているのに…!」
それは三日月が得た千年の見聞の中で最も美しいものだった。玉璽として人に珍惜されることはあっても、人をここまで尊く思うのは初めてのことだった。
北方にあり夷狄の民と時に交わり、時に戦ってきた粟田口の男は騎馬と弓に長け、狩りが得意だ。先手を打って飛び出してきた標的に戸惑う敵の気配をすぐに察知し、一期は地を蹴って木の陰に刀を振り下ろす。一人はこれで仕留めた。すぐに刀を抜き、返り血を浴びながら傍に居る男の湾刀を受け止め、蹴りを入れる。片手の湾刀が地に投げ出されたのを目ざとく拾い、倒れた男の喉を掻き切って、その動きのまま背後の敵の鎌を受け止める。きりきりと力が均衡しているように見えるが、一期は左腕だ。表情ひとつ変えぬまま、男の胸を右手の刀で抉る。浅いのでもう一撃。後は、殺気が消えた血なまぐさい夜風だけがそこに残っていた。
以前は、もう少し相手に情けをかけて戦ってしまう男だった。だが、それも多少の違いだ。大衣を頭から引っかけたまま、三日月はのんびりと外へ足を踏み出した。一期がいつものように苦く淡く笑みを浮かべる。天上にある三日月の淡い光が青く細くそれを照らす。
「夜風は、私が浴びると言いました」
「終わるまで待っていただろう。怪我が無くて何よりだ」
「やはり、玉璽のご自覚がないようですな」
戻りましょう、と血に濡れた一期の手が三日月を霊廟の中へ追いやる。そこに遠慮らしい遠慮は見られなかった。三日月が血で汚れても一向に気にならないような素振りだ。
「弟たちを探し出した後の粟田口の復興は、貴方があってこそ」
穏やかな、赫い炎が揺れる部屋の中にあっても、一期の瞳の光は強い。そうすれば、城と共に亡んだ私の記憶も戻りましょう。その言葉に相槌は打たない。どうなっても、三日月は一期の玉璽。一期をこの世で一番美しいものとして証するだけだ。