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緑間真太郎は厄を祓う



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3254730
※ご近所モブ出没

 もし緑間真太郎という人間を丁寧に分解することができるとしたら、きっとその構造は驚くほど単純だと思う。無数の努力という歯車を反復というネジで縫い止めたものが一切の乱れなく整然と噛み合っているだけだ。緑マシーン太郎とはよく言ったものである。小学生当時の緑間の同級生に賛成だ。この、本人にとっては不名誉かつ忌々しいだけでしかないだろうあだ名を、緑間が悪態を吐きながらうっかりこぼした時は感動すら覚えたものだ。オレが言うのもなんだけど真ちゃん、なんでオレの前で言った。末代までネタにして笑うよオレは。

 何故そんな突飛な考えに至ったかと言えば、コタツに半身を突っ込んで冬休みの課題である数学のプリントをぼけっと眺めていたせいだ。緑間真太郎を因数分解せよ、だとかそういう問題なら少しは面白味もあるだろうに……などと現実逃避ばかりが捗って課題は何一つ終わらなかった。しかしそれは今や些細な問題として高尾の脳内の隅の隅に押しやられている。終わらない課題がどうした。最後の一日にまとめて片付けてやる。そうやって夏のように泣くことになるのだよ、という幻聴にはもちろん脳内で毅然と反論だ。今日だけは誰のせいだと思ってんだよ!まあ家に居たってやんねーけど!

 ダウンジャケットのファーつきフードを首元に摺り寄せつつ白い息を吐く。鼻の頭が濡れているみたいに冷たい。だが澄み切った晴天のおかげで、これでも朝に比べれば随分マシな寒さに緩和されているのだ。いつもの習慣で目覚めた早朝、もぞもぞと布団から這い出てロードワークに向かった時は鋭い冷気に身が震え上がった。ただ、遠い朝焼けを眺めながら、気に入りの音楽を大音量でイヤホンから垂れ流しつつ、ひと気の無い静かな道を駆け抜けるのは心地良かった。余計なことは何ひとつ考えず無心に走れた。新年の清浄な空気が街を高尾ごと掃き清めているみたいだった。

 わたし、今年厄年なんだってー!

 ぼうっと歩いている真横で突然高い声が愉快げに弾けて驚く。振袖を着た若い女性がスマホ片手に高尾を追い越していくところだった。年が明けて二日目、初売りもあるせいか駅に向かう人通りは多めだ。高尾の母親も去年、厄年がどうとかで騒いでいたような気がする。高尾は神様だろうが仏様だろうがイエス様だろうがマヤ暦だろうが、基本的に良いお告げしか信じない性質なのでうろ覚えだ。困った時に助けてくれたらそいつが良い奴ってもんである。神様でも人間でも分け隔ては無い。大体、悪いことが起きるタイミングが全人類の男と女でそれぞれ同じだなんてあるわけが無いだろう。厄年だろうと16歳だろうと、今日だろうと明日だろうと、インターハイだろうとウインターカップだろうと悪いことは待ってくれない。いつだって起こり得る。

「そーいや今日のかに座、何位だったんだろ」

 元旦の昨日は1位だった。さすが緑間真太郎、一年の計は元日にあり。ついでに言えばラッキーアイテムは羽子板だったので、それを持ち歩いて神妙に初詣でもしているのだろうと思い描くだけでかなり笑えた。さすが緑間真太郎、高尾に初笑いをもたらすことも忘れない。今ではすっかり習慣と化しているおは朝チェックだが、今日はロードワークから戻ってシャワーを浴びている内に見逃してしまっていた。どうやら新年の番組事情で時間帯が変わっていたらしい。それにしてもよくぞ放送ごと潰されなかったものだ。放送局の英断は間違いなく一人の男の命を救った。ってホント改めて考えたらメチャクチャだなアイツ。

 人通りの多い道のど真ん中で噴き出すわけにもいかず、堪えてポケットからスマホを引っ張り出す。こいつを操作しようとすると手袋を外さなければならないのが億劫だ。口で右の手袋を引き抜いて冷えた指先で画面をなぞれば、高尾を家から飛び出させる原因になったメールが飛び出してくる。開いたままだったらしい。メールにある文面は非常にそっけなく、画面をスライドして過去のメールを遡っても一行の短文が続くだけだ。

『今から行く。駅にいろ』

『お前の家の最寄り駅は』

『あけましておめでとう』

 もし緑間真太郎という人間を丁寧に分解することができるとしたら、その構造は本当に単純明快だと思う。しかしそれが組み上がるとどうしてこうも複雑怪奇な存在になれるのか全く分からない。使ってある部品だってその組み方だって至ってシンプルなはずなのに。まず一月二日に今更新年のあいさつを送ってきたことに驚いた。緑間はよっぽどの用でも無い限り高尾にメールを寄越してこないし、元旦には既に私信の一切書かれていない渋い絵柄の年賀状が届いていたのだ。メールでの挨拶など一切期待していなかったし、現に一日0時に送った高尾のメールには何の返事も無かった。

 しかし、緑間の性根は基本的に真面目かつ律儀な堅物である。元旦に気づかなかったメールに翌日気づき、返事をくれたのかもしれない。元旦は祖父の家に一族郎党が集まるという話をちらりと零していたので、きっと忙しかったのだろう。お育ちの良いお坊ちゃまの家には何かと面倒なお決まりや付き合いがあるに違いない、という高尾の勝手な偏見が大いに含まれている予想だが。しかし緑間の「あけおめメール」につらつらと返したパスは、我ながらどうでもいい情報満載だった。今度こそ無視されるに違いない、と踏んでいたら二通目のメールだ。戸惑いつつ素直に最寄り駅を告げるとその日一番の衝撃がメールに添付されて返ってきた。財布とスマホだけ引っつかんで家を飛び出した高尾を誰が止められようか。

 最寄り駅の改札のすぐ横にはコンビニがあるので、早く着いたらそこに居ろとメールを返していた。それはもちろん、寒い中手持ち無沙汰に突っ立って風邪でも引かないように、という高尾の配慮である。しかしエラーが出てそんな配慮読み込めなかったのか、分かっていて敢えて無視しているのか。日本人の平均身長を20cmは飛び越えている長身と、光に当たると緑に透ける不思議な色味の頭。腕を組み、コンビニの入り口の傍に突っ立っている男は間違いなく緑間だ。暗い色の分厚いウール生地のコートとキャメル色のマフラーを品よく着込んでいる。何を考えているのか伏せられた睫毛は相変わらず長く、眼鏡の下で頬に影を落としている。すっと長い鼻梁がどこか涼しい印象を与える目鼻立ちだ。構造がいかに単純で完成品がいかに摩訶不思議でも、凛然とした外装には何の影響も無いのだからつくづく詐欺である。

「しーんちゃん!」

 わざとらしく明るい声を作って大声を上げると、たちまち顰められた顔が上げられた。最早文句すら返さなくなったが、さすがに往来でこの幼児相手みたいな呼称を叫ばれるのは快くないらしい。もちろん高尾はそこのところを理解した上で呼んでいるので、その眉間にあるのは無駄なしわだ。何か言われる前に先制攻撃で口を開く。

「オマエめっちゃ早くねえ?オレんちエキチカなのに」
「……タイミングが合っただけのことなのだよ」

 本日もテーピングがしっかり巻かれた長い指が眼鏡のブリッジを押し上げている。考えてみれば年賀状を送っている時点で高尾の住所は知っているのだから、最寄り駅を調べることなどわけもないだろう。都内にあるかどうかさえ知らないが祖父の家に帰省していたはずなので、高尾にメールを送った時点できっと家は出ていたに違いない。だからそりゃどういうプライドなんだよ、と噴き出しそうになるのを必死で堪えた。ここが緑間の不機嫌の穴場というやつで、自尊心を守る発言を突っつくと大量得点をゲットできる。一瞬愉快な気分になれるかもしれないが、確実に後が面倒なので自分からそんなゴールに3Pシュートなど決めたくない。

「今日のラッキーアイテムは?今日オレおは朝見逃したんだわ」
「……フン、だからオマエはダメなのだよ。今日のラッキーアイテムは切り餅だ」
「へーかに座何位?」
「1位だ。これで運気の補正は完璧だろう」
「マジで!?二日連続じゃん!」

 さすがおは朝サマは緑間をよく見ている。思わず腹を抱えて笑ってしまったが、相変わらず緑間の見下ろす視線ときたら現在の気温より確実に二、三度低い。それにしてもおは朝占いによる太鼓判付きの1位を獲得しておいて、これ以上一体何を補正するつもりなのだろうか。スーパーの袋にどっさりと詰め込まれている切り餅がまた高尾のツボを押す。何も知らない人が見ればただの餅好きである。購入時のレジ打ちの店員の顔が見たくてしょうがない。

「ってことは……オマエがここまで来た理由ってラッキーアイテムってわけでもないのな」

 一通り爆笑して、やっと用件を聞けるくらいには笑いが落ち着いた。少し意外な心持ちである。てっきり占いで『友人の持ち物』だとかそういう指定が出たのかと思っていたのだ。今までも何度かそういう指定があり、友人ではなく下僕だとか何とか言っている緑間にハイハイと押し付けたことがあった。

 常に自分の思うままに行動している唯我独尊、傲慢不遜の緑間からすぐに返ってくるはずの返事がない。怪訝に思って顔を覗き込むと、眼鏡を押し上げつつ嫌そうに目を逸らされた。失礼な奴。

「……課題」
「はっ?」
「オマエがメールに書いたんだろう。課題が進まないと。忘れているようだから忠告しておくが、明日の練習までに少なくとも英文法の課題が終わっていなければ基礎練3倍なのだよ」
「うええ!?マジ!?何ソレいつ言ってたよ!?聞いてねーし!」
「マジなのだよ。冬休み一日目に監督が言っていただろう」

 冬休み一日目だなんてウインターカップ前だ。もう一年くらい前に感じる。いや、確かに年は越しているので去年の話ではあるのだが。緑間の心底嘲るような視線に傷つけられながら遠い記憶を懸命に辿ってみれば、うっすらそんなこともあったような気がしてくる。無かったような気もしている。むしろ無かったらいいのに。最早願望だ。緑間が覚えている以上間違いないことだろうに。

「そんなこったろうと思っていたのだよ」
「真ちゃんまさか見せに来て……!」
「馬鹿め。課題を提出日のためにやるなど恥ずべきことなのだよ。見張っていてやるから精々足掻くのだな」
「で、ですよねー……」

 フーッ、大きなため息を吐き出す緑間に気まずい笑みを返しながらふと気がついた。待てよ、てことは真ちゃんがウチに来るっていうことか。緑間の家を訪ねたことは今までに何度もある。だがその逆は今回が初めてだ。自宅の最寄り駅に佇む私服の緑間、というのも考えてみれば非常に貴重な状況だ。まじまじと緑間を見つめてしまう。緑間はそんな高尾を居心地悪そうに見下ろしていた。

「何だ」
「あ、いや……んじゃ行くか。ウチこっち」
「ああ」

 やはり緑間は何の反論も差し挟むことなく高尾の後に続いている。元より緑間は高尾の家を訪ねるつもりだったのだ。もし他の場所へ連れ出すつもりならその場に呼び出せばいいだけの話なのだから、当然と言えば当然である。黙って高尾についてくる緑間も、高尾が先導しなければ緑間は目的地に到着できないという状況も、何もかもがなんだか不思議な気分だった――ってほぼ有無を言わさず家に押しかけられてんのに何を有難がってんだオレは。

「あー、先に言っとくけど。オレんち、真ちゃんちよりかなり狭いかんな?」
「……それがどうした」
「いや……どーもしねーけど……」

 親戚や友人には「立地の割に広い」と好評の高尾の愛すべき我が家だが、緑間の家を見てしまうとどうしても気後れする。そもそもマンションの一室など緑間の中で家だと認識されるのだろうか。「玄関の割に広いな、テレビもあるのだよ」とか言われたらどうするのだよ。考え込む高尾の中で緑間が嫌味な大富豪キャラへ勝手に昇格したところで名を呼ばれた。馬鹿な妄想をさっさと切り上げて返事を寄越すと、緑間がいつもの仏頂面で高尾をじっと見下ろしている。

「……風邪はもういいのか。治りきっていないならうつされると困るのだよ」
「あー……うんもうヘーキヘーキ。なに、真ちゃん今日デレデレじゃん?心配してくれてんの?」
「治りきっていないなら!うつされると困るのだよ!」
「はいはい、照れんなって!」

 心配してやったのに損をした、という表情を隠しもせず緑間はまた露骨なため息を吐き出す。高尾が長文メールに書いていた「風邪気味だから置いてかれて、みんなじーちゃんち行ってオレ一人だよー退屈だよ真ちゃんで笑いてーわ」を覚えていたらしい。オレはオマエに笑われることなど何もしていない、と渋い表情だ。安心しろ緑間、さっきからオマエはオレに爆笑からにやけ笑いまであらゆる笑いしか提供してない。

「……それで」
「ん?」
「今も、オマエの家には誰も居ないんだな?」
「お、おう……そーだけど」
「……そうか」

 思わず目を瞬いた。この辺りの地理なんて全く分かっていないだろうに、緑間が高尾をさくさく追い越していく。何故高尾の家に誰も居ないことをわざわざ確認したのだろうか。正月から家に押しかけることを少しは悪いと思っているのだろうか。いや、悪いと思っている人間の態度かこれが。妙に考え込んでしまって、うっかり緑間の後に続いて家とは真逆の方向へ進むところだった。

 結局少しだけ遠回りしてしまったが、10分も経たない内にマンションに到着した。テンキーに暗証番号を打ち込んで自動ドアをスライドさせ、エレベーターのボタンをタッチする。ガラス張りのエレベーターホールは光に溢れている。晴天だと夏はちょっとばかり辛いが、冬は日向ぼっこができそうなくらい暖かい。高尾は幼い頃からこの空間を気に入っているので、そこに緑間が立っていて、シャープな輪郭や髪や睫毛を陽に透かしている、この状況が不思議でたまらない。見つめられていることに気がついたのか、緑間が目だけで高尾を見下ろして眉根をわずかに寄せた。瞳が冬の日差しを受け止めててらてら光っている。ごまかすように笑みをうかべたところで、ポーンと間延びした音が響いた。一階にエレベーターが到着したのだ。覗き窓から先客を確認して「開」のボタンをタッチしてやる。

「あら、カズちゃん。あけましておめでとう」

 高尾の隣に住んでいる品の良い老婦人だ。腰に白いエプロンを付けたまま、両手それぞれに大きなゴミ袋を抱え、よたよたとエレベーターから降りて来る。確か以前煮物を分けてくれた時膝が悪くなってきたとこぼしていたはずだ。とても見ていられない。

「あけおめ……ってそーじゃなくて!すっげえヨロヨロじゃん、持つ持つ!」
「あらまあ、いいのに……」
「良くねーって!危ないだろ!な、真ちゃん!」

 半ば強引に隣人の手からゴミ袋を奪い取り、これまた強引に軽い方を緑間に押し付ける。咄嗟のことに反射で対応してしまったらしく、案外しっかりとゴミ袋がその手に渡った。その反応に笑みをこぼしつつ、引きずらないように注意を払ってゴミ袋をゴミ捨て場まで運ぶ。危なげく緑間がそれに続き、所在なさげに老婦人もそれに続く。管理人のきめ細かなチェックの下、有難いことに高尾家の暮らすこのマンションのごみ出し日時は真夏を除けば基本的に自由だ。全体の戸数があまり多くないおかげでもあるだろう。

「ありがとねえ……カズちゃん、と……」
「あ、コイツ、オレのダチの真ちゃん!」
「ありがとう、シンちゃん」
「……いえ」

 一緒にエレベーターに乗り込みつつ緑間を紹介する。高尾を罵りつつ自分からフルネームを名乗って呼称を改めさせるだろうとばかり思っていたが、緑間は複雑そうに黙り込んだだけだ。一緒に部活をしていると傲慢不遜なところばかり目につくが、案外老人には弱いのかもしれない。噴き出すのをこらえていると脇腹に肘を入れられた。高尾にも少しくらいその思いやりを分けたって罰は当たらないと思うのだが。

「本当に助かったわ。じゃあ……」
「ばーちゃん、まだゴミあんじゃねーの?アレ、大掃除のゴミだろ?手伝うぜ?」

 高尾家と隣人の部屋はエレベーターを挟んだ両隣だ。ドアの前に設けられた形ばかりの小さな門扉に手をかけたその曲がった背中に声をかける。嬉しげに目を丸める老婦人に笑みを返し、付き合わせることになるだろう緑間をちらりと見上げた。文句のひとつでも飛んでくるかと思ったが、こちらも意外そうに目を丸めているだけだった。

「真ちゃん?」
「オマエの祖母じゃないのか」
「だからオレ今日一人だってんじゃん。お隣さんだよ」
「ふふ……シンちゃんはカズちゃんがよく気がつく子だから感心してるんだよねえ」

 それじゃあお言葉に甘えようかしら、とドアの向こうに消えていく老婦人を慌てて追いかける。恐らく緑間は肉親でもない隣人に馴れ馴れしい高尾に驚いただけだ。しかし万が一にも老婦人が言うような意図で目を丸めていたのなら、普段通りの当たり前を実行しているだけなのにどうしてだか気恥ずかしい。なんとなく黙ったままゴミ袋を両手にエレベーターをもう一往復した。計5個のゴミ袋だ。一人暮らしにしては大量である。

「ばーちゃん今年はすんげー掃除したのな」
「うん……去年あの人が先に行っちゃったものだから……」

 老婦人は困ったように眉尻を下げて笑った。高尾も咄嗟に謝って同じように眉尻を下げる。元々高尾家の隣人は、いつ鉢合わせても伴侶の自慢話をするようないくつになってもお熱い老夫婦だった。子供は居らず、どちらも高尾家をまるごと子供のように可愛がってくれていたが、ついに昨年の夏に老婦人の独り暮らしになってしまったのだ。何かを振り切るように老婦人は小さく首を振り、優しい微笑みを浮かべた。

「たくさん運ばせて悪かったわねえ。後で何かお菓子でも分けてあげようね」
「いいっていいって!ガキじゃないんだしさ!オレたちバスケ部で鍛えてるから力余ってるし!」

 どおりでどちらも大きいのね、きっと強いだろうね、秀徳はスポーツが強いって有名だものね、いつものように恥ずかしいほど緑間ごと高尾を褒めちぎった老婦人は、しばらくすると気が済んだのかもう一度礼を口にしてドアの向こうに消えて行った。褒められて当然悪い気はしないのだが、やっぱりどうにも気恥ずかしい。苦笑を浮かべ後頭部の髪を掻き掻き、緑間を振り返った。

「ワリーな真ちゃん。付き合わせちまって」
「オレは別に構わないのだよ。オマエが英文法にかける時間が刻々と削られただけなのだから」
「ここでそういうこと言う……」
「当たり前だ。そういうことを言うために来たのだよ」

 暖房を点けっ放しにしていたリビングのコタツに緑間を招き入れた。冷気からやっと開放されてほっと息を吐く。ジャケットをテーブルの上に放り投げてひとまず緑茶を入れることにした。湯を沸かしている間に、脱いだコート片手に視線をさまよわせている緑間へハンガーを差し出す。なるほどこれがお育ちの違いである。

 コタツに広げたままの課題を検分してからの緑間の行動は迅速だった。集中力が落ちるからと暖房はスイッチを切られ、細く窓を開けられた。頭寒足熱だとコタツを許されたのは有難いが、うっかりうたた寝でもしようものなら張り手のひとつでも飛んできそうな不機嫌である。これで一体どうやって提出日を迎えるつもりだったのかと問われ、その日の朝オマエのプリントに助けてもらうつもりでしたなどと答えられるわけもなく大人しく平伏しておいた。

 窓の外から遠く聞こえてくる車の排気音と、ペンの走る音と消しゴムでコタツ全体が揺らされる音。それから時折ぺらり、と文庫本のページがめくられる音。あまりに静かで時が止まっているように感じる。しばらくは集中して英文の羅列を見つめていたが、元々興味のないものには著しく集中力が落ちる体質だ。すぐに飽きがきて、バレない程度にちらりと目を上げた。今正面に座って高尾家のコタツなんかに入っているのは、あの緑間真太郎だ。初めて見た者の呼吸ごと言葉を奪うとんでもないシュートを放つ男が、高尾の日常の延長線上に当たり前のように座って、文庫本のページをめくっている。

「さっさと終わらせろ」

 緑間はその才能のせいか、目立つ特徴のせいか、『見られ慣れている』ところがある。どうせ今も気づいていないだろうと高をくくっていたが、そう言えばこの男は高尾の監視役を買って出たのだった。何事にも人事を尽くして天命を待つのが緑間真太郎である。文庫本から目線が少し上がり、緑の瞳が高尾をひたりと見つめた。

「終わらせたら初詣に行くのだよ」

 南向きの窓から入ってくる日光が、青空とのコントラストで緑間の表情を薄暗くぼかしている。目を凝らして見るその柔らかい表情に高尾は言葉を失いそうになった。緑間が高い高い3Pシュートを打って、それがゴールネットを静かに揺らした時と同じような気分が胸を横切る。ここで黙り込んだら変だろう、と無理に言葉を繋げる。

「……まだ行ってなかったのかよ」
「そんな時間が無かった」

 視線を逸らしたのは高尾だ。ペンを放り投げ、冷えた指先をコタツの中に潜り込ませる。背を思い切り曲げてテーブルに頬をつけた。英和辞書と消しゴムのカスが視界に入ってくる。

「悪いけどさ……ついてけねーわ」

 少し反応を待ったが、緑間は何も言おうとしない。テーブルに頬を付けたまま目を上げてみたが、逆光もあってよく表情が分からなかった。英和辞書の背に視線を戻す。

「ウインターカップの前さ……宮地さんと一緒にお参りしたよな」

 正しくは宮地の走り込みに付いて行ったのだ。途中で高校付近の小さな神社に立ち寄り、階段をひたすら何往復も昇降した。脚の筋力増強に一役買ってくれたと思うが、正直なところ気軽に後を追ったことを後悔するほど辛かった。最後は三人でぜえはあ言いながら、無人の境内に上がって手を合わせた。もちろん三人とも脳裏に描いた願いは一緒だっただろう。

「あの日オマエも2位だったし、ラッキーアイテムだって持ってた。木村さんに突っ込まれてんのマジウケたわ。そんでヤスリもいつもより丁寧だったろ?知ってんだぜ。あとな……実は、ガラじゃねーけどオレもあの日、ラッキーアイテム持ってたんだよな」

 「あの日」のさそり座のラッキーアイテムは白いハンカチだった。頻繁に高尾を窒息死させにかかってくるようなアイテムでないこともあって、ジャージのポケットに入れて持ち歩いていた。今思えば皮肉としか言えないラッキーアイテムだ。

「前も言ったけど……オレおは朝の占い信じてねーし、つか占い系全部あんま信じてねーんだよ。でもオマエのシュートが落ちないでキレーに決まるの見てたら、ひょっとして本当に何かあんじゃねえか……とか思っちゃうわけ」

 不安要素を残しつつも例の連携シュートを完成させた時は、体中の血が沸いた。緑間というバスケプレーヤーに対する嫉妬や腹立ちは多分一生捨てられない。だが、本当に奇跡のような彼のシュートの一部になることは嬉しくてたまらなかった。絶対に勝てると思ったのだ。天命が自分と緑間を選んだと確信していた。

「……でもさ。無いんだよな、そんなの。無いんだ」

 ずりずりともう少し背を丸めて、コタツ布団に顔を埋める。表情を見せたくなかった。緑間ほど堆くはないが、高尾にだってプライドはある。既にそれはボロ雑巾のようにくたびれてしまっているかもしれないけれど。風邪気味だから一人で残ったなんて大嘘だ。とてもこんな状態で気楽に年越しなんてできそうもなかった。ずっと後悔している。あの時、あの瞬間、あの場所で、あの相手に、高尾の知る限り最強のエースと共に勝利できなかったことを。

「高尾」
「……ワリ。変なこと言ったわ。課題英文法だけじゃねーしさ、初詣は不参加っつーことで……」
「高尾、妙な匂いがするのだよ」
「あ?」

 思わず顔をがばりと上げれば、緑間が顔を怪訝げに歪めて鼻で空気を吸い込んでいる。先ほどまでの話を一体どこまで真剣に聞いてくれていたのだろうか。相変わらずマイペースな男である。なんだか何もかもが一気にどうでも良くなった。今日ばかりは緑間のこういう所が有難いかもしれないと思う。しんみりした空気が自分に死ぬほど似合わないことくらい、高尾自身が一番理解している。

「そういやなんか焦げくせーな。誰か料理失敗したかな。家庭科ん時の真ちゃんみてーに」

 大体どの科目も優秀な成績でこなしてみせる緑間の唯一の弱点を敢えて持ち出して苦笑した。あらゆる才能と資質を緑間にあたえまくった神だか天だかコウノトリだかは、きちんと最後まで責任を取るべきだと時々思う。何故性格と調理能力をとてつもないマイナス値からのスタートに設定してしまったのか。高尾の笑いを取るためなのか。

「オイ、緑間?」

 いつもの調子で怒鳴られるつもりでいたのだが、緑間は高尾の言葉に構う様子も無くコタツから抜け出した。目元を険しくしたまま周囲を窺い、ついには窓に手をかけてベランダへ出る。

「高尾……!見ろ!」

 柵から大きく身を乗り出した緑間に驚いて慌ててベランダに飛び出し、高尾はすぐに異変に気がついた。焦げ臭い匂いがあまりにも強い。広い視界の端に黒い煙を捉え、緑間と同じように身を乗り出した。隣人の部屋の換気扇からもくもくと煙が立ち昇っているのが見える。緑間と顔を見合わせた。

「ばーちゃんが!」

 消防隊が押し寄せてきて一時大騒ぎになったが、高尾と緑間がいち早く消火器を使用したおかげでボヤ程度の火災で済んだ。出火元はストーブで、消防隊員の話によれば欠陥がありリコールの対象になっているものらしい。火災報知機は誤作動で動かず、寝入っていた老婦人は高尾がドアを叩く音でこの非常事態に気がついたとのことだ。悪い偶然が重なった結果となってしまった。隣人自身はもちろん、高尾の家を含む上下左右の家にも一切影響が無いのが不幸中の幸いだろう。

「このストーブねえ……あの人が去年買い換えたものだった。買った次の日から寒くなくなって、出番が無かったって笑ったものだったけど……」

 あの人がお迎えを寄越そうとしていたのかしら、老婦人がうなだれて呟く。被害が最小限に留まったとは言え、騒ぎを聞きつけて多くの人が駆けつけてきた。始終謝り通しだった老婦人が消沈するのも無理のない話である。どうにか元気付けなければと思うのだが、咄嗟に言葉が出てこない。さすがの高尾も、燃え盛る炎を必死で静めるという作業で気力を根こそぎ奪われていた。素人の消火作業が却って死者を増やした例もあると消防隊員たちにこぞって釘を刺されたのも大きい。一歩間違えれば死んでいた、という言葉に今更心臓がひやりと冷えている。

「いたずらに口の無い死人のせいにするのは罰当たりなのだよ」

 言葉に詰まった高尾を見兼ねて、などということも無いだろう。この男はいつも喋りたいときに口を開いているだけだ。目を点にしている老婦人と高尾を、何の躊躇も感じさせない涼しい目元で睥睨している。

「貴女の天命は、それまでの貴女の行動しか影響しないのだよ。仮にも大事に思う人間に、自分の失敗を押し付けるのか」

 しん、とその場が水を打ったように静かになった。焼け落ちたカーテンの残骸がぶら下がっている窓の向こう一面、茜色で染まっている。やや斜めに切れ込むように夕陽が入り込んで、緑間も老婦人も半身を影に沈めている。茜色に照らされた雫が、ぽろりと赤みのさす老婦人の頬の上を滑った。高尾は思わずぎょっとしてしまい身を乗り出した。夫が死んだ時も周囲に涙ひとつ見せず気丈に振舞って見せたようなひとなのだ。

「あっ、ばーちゃん!違くて、コイツこんなこと言ってるのはただのツンデレで……って分かんねーか!えーっと……!」
「いいのよ、カズちゃん。分かってるから」

 後から後からぽろぽろと涙を瞳から送り出しつつ、老婦人はそれでも微笑んでいる。高尾のフォローを迷惑そうな顔で黙殺している友の心友知らずな緑間の手を彼女はそっと取り、ぎゅっと握った。

「そうだよねえ。こんなに可愛い子たちを仏様の御使いにして厄を祓ってくれたんだもの……馬鹿なこと言っちゃいけないねえ。ありがとう、シンちゃん」

 発想を変えれば、将来大火事になったかもしれない可能性を今摘み取ることができたのだ。パスの技術をシュートに活かす、幻影のシュートってやつである。高尾は老婦人の涙が止まるまでその背を撫で続けた。

「はあ……年を取ると涙もろくなるからいけないよ。足も悪くなって出不精になるし……。切り餅を買いに行かなきゃならなかったのに……」
「切り餅?」
「そうそう。朝テレビで占いがやっててねえ、私の生まれ月の人は最下位だったの。一人で居るのは良くない、切り餅を持っていると運勢が良くなるって言って……正月から縁起が悪いでしょう。だから少しでも縁起を担ごうと思っていたんだけど……」

 もしかすると今日の火事のことを言っていたのかもしれないねえ、老婦人が少し残念そうに呟いた。切り餅ひとつで何かが変わったとは到底思えないが、少なくとも今この瞬間高尾の笑いを誘発するには絶大な効果があった。我慢できず思いっきり噴き出してしまう。

「ぶっは、ばーちゃんアレか、かに座だろ?おは朝見てたんだなー!そっかそっか。最下位だったんなら仕方ねーよ!真ちゃんなんて最下位の時テンションハンパなく……落ち……」

 緑間は高尾にかに座の順位を尋ねられてこう答えたはずだ――1位だ。これで補正は完璧だろう。

 1位のくせに何を補正する気なのだろうか、などとおかしく思っていたので間違いない。しかし緑間がスーパーの袋にどっさり詰め込んでいたのは間違いなく切り餅だ。かに座が何位だったか――この問いの答えは1位だ。では何を補正するつもりだったか――これがもしかに座の順位と関わりの無い答えだとしたら。

「ばーちゃんって何月何日生まれ?」

 返ってきた日付は秋の真っ只中だ。初夏になんてかすりもしない。勢い良く緑間を振り返ったが、緑間も負けじと首を捻り明後日を睨み付けている。事情を知らない老婦人だけがうろたえる膠着がしばらく続いていたが、緑間がフーと長いため息を吐き出したことで場が動いた。珍しく緑間の根負けだ。確かにこの圧倒的不利な状況ではそうならざるを得ないだろう。思わず上がる口角を抑えきれない。

「用事を思い出した。帰らせてもらうのだよ」
「待てよおー真ちゃん。オレまだ課題全然終わってないぜ?最後まで付き合ってけって!」
「そんな義理は……!」
「あ、そーだ!この部屋すっげえ焦げくせーしさ、ばーちゃんもオレんち来なよ。オレもばーちゃんも一人じゃなくなるし、切り餅は真ちゃんが持ってるし一石二鳥じゃん?」
「何を勝手に……!」
「まあ……本当かい?嬉しいねえ……ちょうど人からもらった小豆があるから、煮てぜんざいでも作ってあげようか」
「マージでー!?やったな真ちゃん!小豆だってよ!決まり決まり!さっさと行こうぜ!」

 ぜんざいに心が大きく揺れたらしく、眼鏡の位置を正しながら緑間は黙り込んでいる。それを嬉しげに眺め、老婦人はキッチンから小豆を探し出し始めた。調理用具ごと持って来てくれるつもりらしく、ざあざあと鍋を水洗いしている。

「あ、そーだ真ちゃん。明日午後からだよな」

 緑間はまだ押し黙って口を開かない。うまくごまかしているつもりだったものが全て夕日の下に晒されて、よっぽど悔しいらしい。高尾からしてみれば、緑間が一体どんな気持ちでおは朝を見て、メールを寄越し、電車に乗って、切り餅を買ったのか想像するだけで愉快だが。

「ちょっと早めに待ち合わせて初詣行こうぜ」
「……行かないんじゃなかったのか」
「今日は、って話だろ?ま、正月くらいはカミサマにも挨拶しといてやんねーとな」
「オレは昨日既に行っているし、別に無理に行く必要は無いのだよ。嫌々行っても縁起が悪いだけだ」
「え?忙しかったから行ってないつってたじゃん」

 最近、緑間はこういう「うっかり」が増えたと思う。それがもし万が一にでも高尾に心を許してしまっているせいだとしたらやっぱり愉快だ。最早笑いを堪えることができず喉を鳴らして笑う。緑間は今にも大噴火を起こしそうなひどい表情をしていたが、それを悔しそうに逸らして不機嫌に腕を組んだ。やけ気味にぼそりと呟きを漏らす。

「……面倒で退屈だったから、やり直そうと思っただけなのだよ」

 主語も目的語も無いので、高尾が勝手に自分に都合の良いように解釈するしかない。例えば親戚の集まりがひどく面倒で退屈だったとか、例えば緑間の中で面倒でも退屈でもない人間として浮かんだのが高尾であったとか、例えば初詣や正月をその人間とやり直したいと考えたとか。

「……なら、やっぱ行っとこうぜ」

 そっぽを向いている緑間のシャツの袖を少し引いた。横顔は頑なにそっぽを向いて夕陽に照らされているが、目だけがちらりと高尾に戻った。これ幸いと高尾は笑みを返す。老婦人も小豆を捜し当てたようで、あったあったと歓声を上げている。

「オレ、占いとか神様とかそういうのはあんま信じてねーけど、オマエのことは割と信じてっからさ」

 緑間を信じて言うとしたら、どんな運命もそれまでの自分の行動からしか影響しない。だから仮にも大事に思う人間に、自分の失敗を押し付けて八つ当たったり諦めて投げ出したりするのは馬鹿馬鹿しいことだ。力が及ばず悔しい思いをしたなら、悔しい思いをしないよう力が及べばいい。そうなるように人事を尽くせばいいだけの話だ。

 緑間真太郎を丁寧に解体したとしたら、その構造はひどくシンプルで整然としているに違いない。無数の努力という歯車と反復というネジが美しく噛み合っている。けれどよくよく見ればひとつひとつの部品のそれぞれに磨耗や傷、歪みという違いはあるはずで、時には誰かが油を注す必要だってあるはずだ。それが今日も高尾を悉く愉快な気分にさせる偏屈で変人な緑間真太郎を組み上げている理由に違いない。

 こうして、高尾家の隣人はすっかりおは朝占いの虜となり、おは朝占いの伝道師とも言える緑間を本格的に仏様の御使いとして有難がるようになるのである。これを面白おかしく友人たちに語ったことが、後の「緑間大社」を作り上げる直接の要因となったことを高尾は未だに自覚していないのだった。

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